出会いの春
笑とクラスが離れてしまった。新しいクラスは知らない人ばかりで、不安ばかりが胸を渦巻く。
一応、笑の友だちの前島くんていう人が同じクラスになったけど、あまり仲良くない。笑が前島くんと仲良くするのは絶対ダメだっていうし、実際そんなに接する機会もなかった。だから同じクラスになっても、安心にはつながらなかった。
他にも去年からのクラスメイトはいるけれど、あまり話をしたことがない人たちばっかり。女の子はとっくにグループをつくって、みんなで楽しそうにおしゃべりをしている。私が一人隅っこに座っていても、だれも気づかない。
「笑美」
昼休み、笑は当たり前のように私のクラスを訪ねてきてくれた。それが一人で心細い私にとって、どれほど癒しになったことだろう。自分でも張りつめていたとわかる表情が緩み、ほっとした声が漏れる。
「笑」
そう名前を呼び返すと、彼もうれしそうに微笑み返してくれる。それだけで、彼も私をすごく心配してくれてたことが伝わってきた。
「笑美、今日も大丈夫だった?」
「うん、平気」
気づかわしげに見つめてくる彼に、私はうなずいた。
「笑が時々来てくれるから、寂しくない。このクラスで頑張ってみる」
「よし!」
途端に笑は、パッと笑顔になった。やっぱり笑には、この笑顔が一番似合う。子どもみたいに無邪気な、太陽みたいな笑顔。
「俺も応援するからな。あっ、でも昼休みは俺と一緒だぞ。あと放課後もな。なにかあったら俺のクラスに来いよ。別になんにもなくても来たっていいんだからな。もちろん俺もちょくちょく遊びに来るし」
そう早口にいってくる彼がおかしくて、私は思わず笑った。まだ大勢の前で笑うことは難しいけれど、笑の前だったら臆することなく笑顔になれる。彼が、彼だけが、私の笑顔をきれいだといってくれるから。
「うん。笑のクラス、遊びにいく」
そういうと、笑の瞳がとろりと甘くなるのがわかった。時々笑は、こうして私を愛おしそうに見つめてくる。まだ決定的な一言はなにもないけれど、気持ちだけは十分すぎるほど伝わってきた。
笑が時折、なにかいいたげに私を見ていることに気づいていた。でもそのたびに、私はなんにもわかってないふりをして話を逸らす。「一番の友だち」の距離はとても心地がよくて、まるでふかふかのクッションのよう。そこから一歩踏み出してしまえば、どこに着地点があるかわからない。温かなカーペットの上なのか、それとも冷たい石の床か。それを知るのが怖いから、私は今日もまた素知らぬふりをする。
だけどその前に、いつの間にか笑のうしろに立っていた前島くんが声をかけてきた。
「あのさあ、お取込み中悪いんだけど、早く食べないと、五時限目はじまっちゃうよ」
「うわ、マジだ!」
笑は途端に我に返って、手に持っていた大量のパンやおにぎりの包みを、急いでほどきはじめた。この頃笑は、よく食べるようになった。やっぱり成長期だからかな。背もぐんと伸びて、いつの間にか私は笑の顔を見上げるようになってきた。こうして向かい合っている時も、笑の顔が私よりも上にある。自然と私は上目遣いになっていた。この顔に笑が弱いことを、私はひそかに知っている。
二人でおしゃべりをして、時折互いのお弁当やパンを食べあいっこしながら時間は過ぎていく。笑は私のお弁当に入っている卵焼きが好きらしい。「美喜子さんってほんと料理上手だよね」といってくるけど、実は私が作ったものだったりする。私だってたまには、お菓子以外のものを作れる。でも事実は黙っておいた。黙っていても私が作ったそれをおいしそうに食べる彼を見るのは、とても幸せなことだった。
あんなにたくさんあったのに、笑はあっという間にパンとおにぎりを平らげた。背が伸びて、甘々な子犬から、爽やかさのある忠犬に成長した彼だけど、パックジュースをすするさまはまだ子どもっぽく見える。
おいしそうにジュースを飲んでいる笑を見つめていると、彼のうしろに誰かが近づいてきた。笑は気づいていない。私がふっと視線をそちらに向けるのと、相手が話し出すのは同時だった。
「笑くん、だよね」
同じクラスの女の子だった。名前は知らない。クラスでも目立つグループの中にいる女子の一人だった。誰かが「メグ」と呼んでいるのを、そういえば聞いたことがある。
笑の知り合いだったのかな。そう思って笑を見るも、彼はいまいちピンとこない顔。だけど彼女は、その容姿に似合う活発な笑顔を彼に向けた。
「やっぱりそうだー! 久しぶり」
「えっ?」
「やぁだ、覚えてないの? 昔は散々遊んでたじゃん。薄情者!」
彼女は笑顔から一転、拗ねたように頬をふくらませる。同性から見ても可愛らしい女の子だった。
笑はしばらく考えていたようだけど、ふいにはっとした顔になった。
「あ、れ……メグ?」
「そう、当たり!」
彼女はブイサインをして、にっこり笑った。
「思い出してくれないのかと思っちゃったよ。あんだけ仲良かったのにショックでかい!」
笑は気まずげに苦笑いをした。
「わ、悪かったよ。でもほんとに久しぶりだな。中学生以来だよな?」
「そうそう、二年の時の同窓会!」
会話から察するに、笑の同級生なのかな? にしてはやけに仲がいい。彼女の方も、やたらボディータッチをしてきているように見える。
一瞬、胸の内でなにかがもやっとした気がした。笑が意外にモテることは、知っていたはずなのに。嫉妬した女子から呼び出しを食らったことがある私だ、今さらなにを戸惑っているんだろう。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、笑は大慌てで転びながら、理科室へ走っていった。それを笑いながら見ていた彼女が、くるっとこちらを振り向いたのでドキッとした。
「じゃあね、高島さん」
そういって彼女は、私にも笑って手を振った。私は彼女に、手を振れなかった。
放課後、私はいつものように笑を待った。ホームルームが終わると同時に、クラスメイトは続々と教室を出ていく。その中で私は唯一、席に座ったままだった。
窓際の席で私は、ぼんやりと外の景色を眺める。季節は春。桜はすでに散りかけている。きっと今日も、笑は私を連れ出そうとするから、どうせなら桜並木を通ってみたい。
窓にこちらに近づいてくる人影が映っていた。私は振り向いて、微笑んで笑を迎えた。笑も笑いながらこちらに向かってくる。
「笑美、お待たせ」
私も立ち上がり、笑を出迎えた。
「今日はまっすぐ帰るの?」
とりあえず彼に、今日の予定をたずねてみる。笑は「どうしよっか」といいながら、少し考えた。
「んー。笑美がこの前おいしいっていってたワッフルの店、もう一度いく?」
そこは先月はじめていった店で、路地裏にある小さな隠れ家的カフェだった。外はサクッと、中はふんわりもっちりしたワッフルは絶品だった。店手作りのバニラアイスも、なめらかでワッフルとの相性抜群。
思い出したら無性に食べたくなってきた。それに通り道には、桜がちょうど見ごろになった河原がある。
「うん、いく」
うなずいてみせると、笑はにっこりとした。
「んじゃ決まり。いこっか」
当然のように前に出される笑の手。一年前よりも大きくなった、力強い男の子の手。それをぎゅっと握り返し、笑に笑いかける。笑も少し照れているように見えた。
手を繋いだまま教室を出ようとした――その時だった。
「あっ、笑くん」
だれかが笑を呼ぶのと同時に、笑の手が離れた。私は驚いて、離れていく笑の手を見送った。今まで笑が私の手をこんな風に離すことは、一度もなかった。
笑はどこか慌てた様子で、今呼び止めた相手と話し出した。
「な、なんだ、メグか。脅かすなよ」
「えへへー」
昼休みに会った彼女は、無邪気に笑った。
「だってさぁ、教室の中であからさまにいちゃラブってんだもん。少しぐらい邪魔したくなるっしょ」
いってから彼女は私の方に向き直った。まだ笑以外の人と、目を合わせてしゃべるのは苦手だった。思わず笑のうしろに隠れてしまう。
彼女は気にした様子もなく話しかけてきた。
「その子、笑くんの彼女だったんだ。高島さんだよね? 私、越永恵夢。笑くんの幼馴染みなんだ。メグって呼んでね。あっ、私も下の名前で呼んでいい? 笑美ちゃんだったよね。あ、ちゃん付けウザいタイプ? 笑美の方がやっぱりいいかなー」
捲し立てるようにいわれたが、正直なにも頭に入ってこなかった。むしろほとんど知らない人に声をかけられて、パニくりそうだった。無意識のうちに笑の制服の袖をつかんで、助けを求めていた。
それに気づいたのか、笑が代わりに答えてくれた。
「違うよ。笑美は友だち。ちょっと人見知りが人よりも激しいんだ。グイグイいくと怖がるから、加減してやってよ」
「そうなの? 高島さんてクールな一匹狼タイプだと思ってた。へえ、意外!」
越永さんの目が、ますます輝いてこちらを見つめてきた。こ、怖い……。自然と笑の制服を握る手が強くなっていた。
普通なら呆れて怒ってもいいような私の態度。ところが越永さんは、ますますうれしそうな声でいった。
「ねえ、高島さん。まだこのクラスで友だちがいないならさ、私とならない?」
「……え?」
思わず間の抜けた声が出る。今、彼女はなんていったの? 友だち? 誰と? まさか、私と?
冗談でしょう。そう思ったけど、彼女はいたって真剣なようだった。
「だって高島さん。今日もずっと一人だったし。それに笑くんと友だちなんでしょ? だったら幼馴染みの私とも仲良くしようよ」
幼馴染み。何気なくいわれたその言葉が、なぜか胸にツキンと突き刺さる。私と笑はただの友だちだけど、彼女と笑はもっと深いつながりがあるみたいないい方。彼女に悪意がないのはわかっているのに、どうしようもなく……妬ましい。
うしろに隠れたまま返事をせずにいると、笑が彼女の腕を肘でつつくのが見えた。躊躇なく触れる姿に、心臓がどくんと嫌な音を立てる。
「おい、だからあんまりグイグイいくなって」
笑のその言葉に、越永さんはにやにやしていた。と思ったら、急に笑の耳元に手を当てて、私に聞こえないような声でなにやらささやいた。笑の顔がさっと赤く染まったのを見て、また心臓がどくんどくん。
やがて耳まで赤くなった笑が、力が抜けたような顔でいった。
「んじゃー、今日は一緒に帰ろーか」
一緒に? 私は目を瞠った。笑は彼女と帰っちゃうの? 私は? 私は置いていかれちゃうの?
ずっと一緒にいたのは、私だったのに。笑はずっと、私だけの笑だったのに。
ぐるぐると胸を渦巻くのは、自分の黒い感情。驚くぐらい醜くて、浅ましい嫉妬に満ちた女の情動。笑はただ、昔の友だちと話をしているだけなのに。それがたまたま、可愛い女の子だっただけなのに。ただ彼女が、私よりほんの少し、笑に出会うのが早かっただけなのに。
どうして私は、こんなに息苦しいんだろう。
一歩後ずさって笑から距離をとる。その瞬間、笑が振り向いた。自分がどういう表情をしていたのかはわからないけど、笑は私を見て息を飲んだ。
「笑美?」
名前を呼ばれたけど、返事をできなかった。ただのろのろとした動作でカバンを肩にかけた。
「じゃあ、私帰る」
「えっ? ちょっ笑美!?」
戸惑ったような笑の声が聞こえたけど、もはや我慢できなかった。衝動のままに教室を飛び出して、校舎を駆け抜けた。
普段あまり運動をしないせいか、すぐに息が上がりだした。呼吸が乱れて、わき腹が鋭く痛む。それでも足を休めることなく、広い校舎を駆け抜けていく。
怖かった。自分があんなに嫉妬深いなんて、思ってもみなかった。ただほかの女の子と仲良くしているだけなのに。たったそれだけで、あんなに動揺して恨めしく思ってしまう自分自身が、とてつもなく恐ろしい。
私はただ、笑のことが大好きなだけなのに。
笑を取られてしまうんじゃないかと思っただけで、越永さんがとても憎らしく感じた。ただ気安く笑に話しかけるだけで、胸がズキズキと痛んだ。あの愛くるしい笑顔を笑に向けるたびに、心の底からやめてと叫びたかった。私だけの笑で、いてほしかったから。
いつの間にか足は昇降口を通り越して、図書室の前まで来ていた。笑と仲良くなる前は、一人ぼっちで暇を持て余し、よくここに来ていた。また一人になるのかと思ったら、自然と足が向いてしまったらしい。
なにか好きな本でも読んで、気を紛らわせよう。どうせ笑は、彼女と一緒なんだから。私のことなんて忘れて、私よりももっと可愛くて素直な女の子と。
手を図書室のドアに伸ばしかけた、次の瞬間だった。バタバタと足音がして、甲高い声が響いた。
「高島さん!」
思わずびくりとして、伸ばしていた手を止める。同時に、肩をぐっとつかまれて身体を反転させられた。驚いて私は、相手の名前をつぶやく。
「こ、越永さ……」
「ごめん!」
越永さんは私と目が合うなり、叫ぶようにして謝罪をした。私が呆気にとられていると、彼女は早口にいった。
「私、昔からこうなんだ。空気が読めないっていうか、ムードクラッシャーっていうか……。それでよくお母さんとかにも怒られるの。場の空気を壊すんじゃないって。さっきのって、完全に私が悪いよね? 久しぶりに笑くんに会ったから、つい懐かしくて……。あっ、でも私、笑くんのことはなんとも思ってないから! それに高島さんと友だちになりたいっていうのも本当だし。高島さんみたいなクールな子に憧れてるっていうか、もう少し落ち着いた雰囲気になりたくて。だから一緒にいたら、少しは感化されるかなぁとか。そしたら偶然、笑くんが友だちだっていうじゃん! これは逃す手はないと思って、つい勢いのままにいってしまったというか……」
だんだんと言葉尻が熱くなる彼女に、私は圧倒されていた。彼女は今や、頬を赤く染めて、恥じらう少女のような顔をしていた。
「あーもう! こんなこと恥ずかしいから、絶対にいいたくなかったのに! 笑くんがヘタレで鈍感なせいだ。超ハズい!」
いうなり彼女は、両手で自分の顔を覆ってしまった。
「高島さんも内緒にしてよね! 笑くんにもいっちゃダメだからね。二人だけの秘密にしといてよ、絶対!」
そうあまりにも必死にいわれるから、気圧されてついこくこくうなずいてしまった。
「わ、わかった」
その時、再びバタバタと足音が聞こえてきて、笑が姿を見せた。
「笑美っ、よかった、いた!」
そうホッとした顔でいわれて、罪悪感に胸がうずいた。彼女の真摯な謝罪を聞いたあとでは、なんだか自分のやきもちがバカらしくなってきた。
笑は自分のカバンの他に、可愛らしい水玉のリュックを持っていた。それを乱暴に越永さんに渡すと、不機嫌にいった。
「ほら、チーター女。おまえのリュック持ってきたから、さっさと行くぞ」
「おっ、気が利いてるねぇ」
彼女は笑の嫌味もものともせず、笑顔でリュックを受け取った。
「さて、高島さんも捕まえたことだし、帰ろっか。三人一緒に」
「えっ」
私は声をあげた。
「私も……一緒?」
笑がきょとんとしたあと、怪訝な顔をした。
「なにいってんだよ、笑美。当たり前じゃん」
「越永さんと帰るんだと思った」
「なんでそうなるんだよ。ただメグが、笑美と一緒に帰りたいっていうから……」
いってから笑は、なにかに気づいたように目を見開いた。
「もしかして、笑美……。やきもち?」
ズバリいわれて、頬が熱を持つのがわかった。笑がじっと見つめてくるから、余計に気恥ずかしくなってくる。今私の顔は、きっと真っ赤になっていると思う。
恥ずかしさをごまかすために、わざと拗ねた口調でいった。
「だって、置いてかれるのかなって思ったんだもん」
そうして上目遣いに笑のことを見やる。すると彼も頬を赤く染めて、狼狽したようにいった。
「お、置いてくわけないだろ! 俺が笑美を一人にするわけねえじゃん」
「どうして?」
「どうしてって……」
ますます顔を紅潮させて、笑は口ごもった。
「そりゃ、俺が笑美のこと……。だ、だ、だ……だい……大……大、す……」
「あ゛――っ!!」
突然、今まで黙っていた越永さんが、大声をあげた。かと思うと、大げさな手つきでスマホを取りだした。
「いっけなーい。今日バイトだったー! 店長から電話きてた。あーん、もういかないと! ってなわけでお二人さん、仲良く帰ってねー」
……彼女がムードクラッシャーと呼ばれているわけが、なんとなくわかった気がした。本人としては、たぶん私たちに気をつかったつもりなんだろうけど……。
ちらっと横目で笑を見れば、絶妙なタイミングで遮られたせいで、完全に勢いを失っていた。私と目が合うと、一気に顔を真っ赤にさせて、顔をそむけた。
越永さんはスマホをブレザーのポケットにしまい、ふと私に視線を向けてきた。そしてニッと唇を吊り上げて笑いかけてきた。
「じゃあ、また明日ね。笑美!」
いたって自然にかけられた言葉に、一瞬息がつまりそうになった。なにか返さなくては。そう必死に考えたが、出てきたのはただ一言だった。
「また明日……メグちゃん」
すると彼女は、とてもきれいに笑った。私も精いっぱい、ぎこちないと知りつつも笑顔を返す。
きっと私は今日のことを、一生忘れない。はじめてヤキモチをやいたこと。笑があと少しで、告白してくれそうだったこと。それに、友だちができたこと。
この日から越永恵夢は、私のはじめての親友になった。
かなり久しぶりにヒロインの視点で書きました……。
ていうより、番外編を更新したのも久しぶりでした(;´∀`)
前回の更新後、アクセスが一気に伸びたので、かなりビビっていました。
勘違いかと思って焦るあまり、友だちに「これを見ろぉぉぉっ」と迫りました(事実です)。
友よ、その節はすまん。
メグさんは空気の読めないムードクラッシャーではありますが、悪気はないのです。
根はとてもいい子なんですよ。悪意はなにもないまま、その場のムードを台無しにするだけで。
……作者は一応、メグさんの味方なんですよ?




