「Southernmost end」
どうやら車内のランプは汽車の動きと連動しているようだった。
ゆっくりと走る汽車に合わせて、ちらちらと弱々しいオレンジの灯りが僕らを照らしている。
あの後、アカリはのろのろとした動きで抱えていた僕の頭から手を離すと、そのまま横に座った。そして何も言わずに、手を握ってきた。僕も何も言わずに手を握り返した。そのまま、お互い一言も発さずに、かたんかたんと響く汽車の音を聴いていた。
アカリは俯いたままで、その顔は長く黒い髪に隠れて見えなかった。その輪郭が薄明かりにぼやっと浮かんでいる。
彼女もあの暗闇の中に居たのだろうか。
あのフィルムの欠片達を、幼い頃の僕らを、観たのだろうか。
すっと、汗ばんでいた場所が冷える。
「アカリ」
返事が無い代わりに繋いでいる手をぎゅっと握ってきた。ただ、酷く疲れているように、アカリはぐったりと座席に身体を預けていた。
「ちょっと、ごめんね」
そのままだと首が痛くなりそうだったので、自分の肩にアカリの頭を寄せた。その時も抵抗する素振りもなく僕にされるがままだった。左半身に感じる彼女の体重は驚くほど軽かった。
「アカリ。……アカリも観たのか?」
ぴくっと、繋いでいる彼女手が反応する。でも、それ以外に返事はなかった。
その時、右手の先に触れるものがあった。案の定、それは「銀河鉄道の夜」だった。
どうしてだろうか。
あれほど、読みたくなかったのに、気づけば僕は片手で何とかその文庫本を開くと、薄明かりの中、苦労しながらページを捲った。本には何故かさっき取った葉っぱが挟まっていて、それはプリシオン海岸の章の最後のページだった。それは恐らく、僕が此処に来るまで読んでいた所までだった。……そう言えばあの時、どうしてアカリは僕の読んでいた章を知っていたのだろう。
そっと、アカリの旋毛を盗み見る。
「……。」
今は、返事は期待できなかった。
アカリは確かに、此処に居る。
でも、とても自分勝手な話だけれど、彼女の元気が無くなるだけで、僕は真綿で首を締められているような気がした。彼女の存在は確かに繋いだ手から確信出来ているけれど、まるで遠くにアカリが居るようだった。彼女の元気でふざけた声が無性に聞きたかった。それはひょっとしたら、闇の中で叫んでいた時よりも強くそう思っているかもしれない。なまじ隣に彼女を感じている分、それは刺すような痛みではなく、じりじりとした鈍痛として僕を締め付けていた。
車内の薄明かりは幸いにも、ぎりぎり文字を追える程には残っていた。
僕はその鈍痛から逃げるように、プリシオン海岸から戻ってきた彼らのその後を読み進めた。
それからまた、どれほどの時間が過ぎただろうか。
僕は『銀河鉄道の夜』を読み終えてしまった。
アカリは相変わらず僕に寄りかかったまま、手を離そうとはしなかった。
本を置いて、肘をついて、窓の向こうを睨む。
色んな単語や文が、頭の中を駆け巡っていた。
ぐるりと車内を見回して、また窓の向こうを睨む。
信憑性の無い妄想が次々と膨らんでいた。
でも、それらを認めてしまったら、何だか取り返しの付かない事になってしまいそうだった。
記憶がほしい、と思った。
こんな馬鹿げた夜を夢だと一蹴出来るような、自分に関する記憶が切実に欲しかった。
恐らく、一般常識と言われる記憶は、持っている。でも、自分に関すること……住んでいた街や、歳や、性格、好きな物……そして、アカリとの関係、そう言った所がすっぽりと抜け落ちていた。その穴に代わりに埋め込まれているのが、汽車に乗ってからのアカリとの時間だった。
「どっちが夢なんだか……」
自嘲気味に笑う僕の顔に、白い光があたる。どうやら森を抜けたようだった。
そしてその先には、通常の何倍もありそうな満月が空で光っていた。
地面に当たる場所は、広い河なのか、それとも海なのか、水面が広がっていて、波が月の光を反射してきらきらと輝いていた。そしてそのずっと先の所には、例のオレンジ色の淡い灯りの集まりが揺れていた。
アカリが倒れないように気をつけながら窓を開けて覗いてみると、どうやら汽車は橋の上を走っているようだった。かたたん、かたたんと刻んでいた音と振動が少しだけ変わっている。
ただ、その事に対して森に入った時のように心が揺れ動くことは無かった。
この夜に慣れてしまったのかもしれない。
「……いや」
寄りかかっているアカリの頭を見下ろす。
「鏡か……」
アカリは外の景色が変わっても、相変わらすぐったりとしたままだった。
もし元気なままだったら、今頃大騒ぎになっていただろう。そしてそんなアカリの奔放な挙動に振り回されるのだ。
でも、今のアカリは何の反応も示さない。
それが一番の理由なのかも知れなかった。
「アカリ、外を見てみなよ。森を抜けたよ。信じられないくらい大きな月が出てる。まるで昼間みたいに明るいよ。汽車は橋の上を走っていてさ、水面がきらきらとして綺麗だよ。遠くのあの灯りもまた見えるようになったよ」
「…………。」
やはり、返事は無かった。
右手で、彼女の長い前髪をそっとあげてみる。
瞼は開かれていた。
ただ、その目は虚ろで焦点があっていない。
口は半開きで、鼻の下辺りにはまだ少し鼻血の跡が残っていた。
その跡を右手の指でごしごしと拭う。
強めに指を押し付けても、反応は無かった。
「アカリ、すっごい変な顔」
「……。」
軽口を叩いても、答えは無い。
拭っていた指を離して、そのまま片手でアカリの頭を抱きすくめた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
僕の阿呆な空想が本当なら。
恐らくどちらかは死んでいる。
ひょっとしたら、どちらも、死んでいる。
この汽車はそれこそ本当に銀河鉄道のようなもので、今渡っている橋は三途の川にかかっているのかもしれない。
でも、もし仮にそれが本当だとしても構わなかった。
そんなことはどうでもいい。
どのみち、生前の記憶は無いのだ。
今の僕にとって、汽車に乗ってからの、アカリとの時間が全てだった。
それは、生まれたばかりの雛鳥の刷り込みのようなものかも知れない。
それとも、ただの依存かもしれない。
それでも、今の僕には、アカリが全てだった。
「カガミ」は「アカリ」がなければ何も映さないのだ。
光の差さない真っ暗闇の中では、何も映しだすことが出来ないのだ。それはもう「カガミ」では無い。
彼女を抱きしめた時、僕は返ってきたと思った。でも、今彼女は何の反応も示さない。
自分勝手な話だ。
彼女の手を散々求めておいて、そして今度は彼女の心がどこかへ行ってしまったら、違うと言う。
一体、アカリはあの闇の中で何を観たのだろうか。
そして、今。彼女の心はどこへ行ってしまったのだろうか。
どうすれば、取り戻せるのだろうか。
いくら考えても解決策は見つからなかった。
……もし今渡っているのが、本当に三途の川なら、ゴールは近い。
そこに何が在るのかは、分からない。でも、恐らくそこが終わりになるだろう。
この阿呆な空想が本当なら、の話だけれど。
もしそうでも、アカリは離さない。
……ああ、少し疲れた。
アカリの声を、聴きたい。