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神と科学の特異点

     夜の廊下で

 携帯端末から5時55分を知らせるアラームが鳴る。僕はパソコンの電源を落として停電に備えた。

 母さんの話によると、今日の夕方6時から停電に入るらしい。停電まであと5分。

 ここアシンベルで大掛かりな実験があるらしく、N12地区一体の停電時用予備電源の電気も使うため、最低限の空調と冷蔵庫、足元灯ぐらいしか使えなくなるとのことだった。

 小さな電気ランタンと携帯端末を持って1階に下りる。すると階段の踊り場で突然電気が落ち、慌ててランタンのスイッチを入れた。

 1階にある父さんの部屋のベッドから毛布を引っ張り出し、それを引き摺りながら居間に向う。そしてランタンを居間のテーブルに置き、端末を持ってソファに横になる。

 最初は初めての停電に心がそわそわと落ち着かなかったが、次第に退屈になってきた。

 見ているファイルも母さんから読むようにと言われていた数学の問題集で、円周率のところで引っかかっていて先に進めない。3・14なんて数字どこから出てきたんだと思い始めたら、途端にバカバカしくなって、開いたままの端末を腹の上に放り出した。

 そのままぼーっと天井を見ていると、不意に冷蔵庫にコーヒー牛乳があったのを思い出し、端末の電源を落として立ち上がった。

 そのキッチンに向かう途中、廊下にこちらに背中を向けて立っている人影が見えた。

 ただ普通に廊下に立っているのではなく、床に対してほぼ水平に立っていた。見えない紐か何かで吊るされているような感じで、アクション映画のCGを実際に現実で目の当たりにしたら、こんな感じだろう、というような違和感だった。

 見た瞬間声を荒げそうになったが、はっきりとしているその姿は、とてもお化けや幽霊といった恐怖を感じない。僕は一度唾をゴクリと飲み込み、手動になっているドアを静かに開けて近づいた。

 白いドレスを着たその女の子は、美しい金色の髪を櫛で梳いている。

 その女の子の頭は反対側の壁に当たるか当たらないかぐらいで、足は壁に足首ほどまで埋まっている。僕はもう一度硬い唾を飲んで、彼女の背中から声をかけた。

「誰!? 何しているの?」

 僕の声に女の子の背中はビクンと跳ね上がり、慌てるようにこっちを向いた瞬間、女の子は自分の足に躓いて尻餅をついた。その驚いた表情があまりにも面白くて、僕は思わず笑ってしまう。

 女の子はしばらく呆け顔で僕を見つめていたが、僕が笑ったのを見て顔を真っ赤にして怒りだした。女の子は立ち上がって僕の服を掴もうと迫ってくる。だけど女の子の手は空振りし、バランスを崩して僕のほうに倒れ掛かってきた。

 ぶつかる! と思った僕は、とっさに手を出して転倒する女の子を受け止めようとしたものの、彼女はするりと僕をすり抜けていってしまった。

 びっくりして振り返ると、壁に張り付くように倒れた女の子の、首から先が見えなくなっている。

 僕は、ひっ! と小さい声を出して後ずさりし、躓いてこけて後頭部を戸口の角か何かに打ちつけた。

 首の無くなった女の子はゆっくりと座りながら起き上がると、首が戻っていた。こけてしまって痛いのか、彼女は声を上げて泣き出してしまった。

 僕は鼻に鉄の味がして、痛みに耐えかね後頭部を押さえて床でジタバタする。

 それを見た女の子は泣き顔から急に笑顔に変わり、涙を拭いながら口を押さえて上品に笑い始めた。

 僕は女の子に怒る気も無く、その笑顔を見てどこか癒された気持ちになっていた。

 父さんは実家。母さんは仕事。停電で暗くなった広い家に1人ぼっち。この時間は遊ぶ友達もいない。男の子だから我慢している、我慢しているけど、やはり誰かと一緒にいるのは心強い。

「名前は?」ようやく痛みが飛んでいった後頭部を摩りながら、僕は女の子に言う。床に対しほぼ水平に座っている違和感は、さっきの痛みで吹き飛んでしまっていた。

 女の子は僕の質問に首を傾げていた。

 話せないのかな……、と一瞬思ったけど、金色の髪に緑色の眸で外国人だから言葉が通じないのだろうと思った。

 僕は自分の胸に手を置いて女の子を見つめ、知っている数少ない英単語を使って言った。「えっと……、まいねーむいずアキラトウジョウ」

 それを聞いた女の子は何度か口をもごもごさせて、「えっとまいねーむずあきらとじょう」と小声で呟いた。

 彼女が使っている言葉は英語じゃないのだろうか。僕は優しく首を振り、「ア・キ・ラ・ト・ウ・ジョ・ウ」と口を大きくゆっくり動かして伝える。

 また何度か口をもごもごさせた女の子は、「アキらトウジょー」と、先ほどよりもずいぶんと形になった名前を言った。そしてその女の子にもう一度言う。「ア・キ・ラ」

「アキラ」今度はもごもごしなかった。俺は笑顔で大きく頷くと、女の子は白い歯を僅かに見せて笑う。

 次に僕は女の子を指差した。女の子はその意味を理解したのか、自分の胸を掌で押さえてまるで歌でも歌うかのように綺麗な声で言い始めた。

「ル、ファルラ、リータ・ラステア・エルリウム」

「るふぁ……?」ようやく普通の声で話した女の子の、綺麗な声を聞いて感動したのか全く覚えられない。口をパクパクさせていた俺を見かねたのか、今度はゆっくり言ってくれた。

「リータ・ラステア・エルリウム」

「りーた・らステア・えるリーム」

 女の子は大きく頷いた。「リータ」

「リータ……」

 リータ、リータ……、僕は何度かうわ言のように呟いて、女の子の名前を自分の舌に刻み込んだ。

 その日は「はい」「いいえ」、そして数字をお互い教えあった。頷いて「はい」、首を振って「いいえ」は同じだったけど、丸やバツは使わないらしい。表情や身振りで「はい」が「ユノー」、「いいえ」が「ナリダ」だと分かるのはさほど苦労しなかった。

 そして次に1から10までは指を折りながら言葉に出して覚える。こっちは「ユノー」「ナリダ」よりも覚えるのに少し時間がかかった。1から数えながら言うと言えるのだけど、不意に5とか言われると、心の中で1から数えなおさないと出てこないため、本当に使えるようになるまで少し手間取ったのだった。

 だが10以上は日本語と同じように規則的だったので、1から10まで覚えると理解は早かった。「百」「千」「万」を覚えれば、大体の数は使えるようになりそうだ。

 ある程度数が分かったところで僕は自分を指差し、リータに「アキラ、レプス」と言う。「レプス」とは、リータの国の言葉で「7」のことだ。「アキラ、7」、7歳だということを伝えたかった。

 リータはしばらく難しい顔をしていたので、僕はランタンを持って急いで居間に戻り、アルバムを引っ張ってくる。そしてアルバムとランタンを床に置き、アルバムを壁側に、リータの座っている方向に向けた。リータは壁に座って床を見つめるような体勢になる。リータ以外にはリータの部屋だろうか、彼女の足元の床が僅かに見えるぐらいだったので、僕が触っているものの周囲はリータにも見えるだろうということは何となく分かった。

 僕はアルバムを開いて「1歳の誕生日」と書かれた自分の写真を指差した。赤ん坊の俺はヘンテコな帽子を被り、目の前には蝋燭を立てたケーキが置いてある。そして「アキラ、リノ」と言う。

 リータはその写真を目を丸くして食入るように見ていたが、僕の視線に気付くと「……アキラ、イチ」と呟いた。それに対して僕は大きく頷き、「ユノー」と返す。

 そしてページをめくり、今度は3歳の写真を指差した。夕映えの海岸で膝まで海に浸かり、片手には飛行機のおもちゃを持っている。そしてリータに「アキラ、ラズー」と言おうとしたときだった。

 土下座するかのようにリータは顔をグッと床に近づけ、海の写真が珍しいのか、じっと目を凝らしていた。

 その集中している姿を微笑ましく思い、リータの姿をしばらく見てから言った。「アキラ、ラズー」

 その声に、はっと顔を上げたリータは、僕の顔を見ながら「ラズー……、サン」と呟いた。

 僕は頷き、自分を指差してもう一度「アキラ、レプス」と言う。

 しばらく小さく頷いていたリータは僕の思惑に気付いたのか、次第に目を丸くして大きく頷く。「リータ、ジュウ……」

「10、10歳!?」10歳……、同じ年ぐらいだと思っていたけど、3つも上だ。

 僕が驚いてリータを見ていたら、リータは「ジュウ……、ジュウッサイ……」とオウム返ししてくる。

 コクンと頷いた僕は「ジュッサイ」とゆっくり返した。

「ジュッサイ……、エスト、アロ。リータ、エスターァロ、……アキラ、エストレプス!」リータは笑顔でやや強めに言う。「アロ」はリータの国でいう「10」だ。その前の「エスト」は「歳」と同じ意味だろうと思った。

「エスト……、エストレプス。リータ、リータ、エストアロ……」

 そう呟いた俺に、リータは小さい顔をコクコクと縦に振って「ハイ」と言った。そして僕のアルバムを一瞥しながら、ページをめくる素振りをする。僕は微笑みながら「ユノー」と言って頷き、ランタンを寄せてページをめくった。

 

 アルバムを半分ほどめくったところで停電が終わり、廊下の赤外線センサーが作動して目を焼くような天井のライトが僕を照らした。急に周囲が明るくなった僕を、リータは驚いた表情で見ている。だけどアルバムが見やすくなって気を良くしたのだろうか、さらにページをめくるよう急かしてきた。「ユノー」と返事した僕は、アルバムに手をかける。

 しばらくライトの下でアルバムとリータの表情を交互に見ていたが、リータが次のページをめくるよう合図をしてきたときだった。リータの姿が急に薄くなって、そのままライトが皓皓と照らす廊下に消えてしまった。

「リータ!!」思わず大きな声を上げたが、僕の声は虚しく廊下に響く。

 僕は立ち上がり、廊下の赤外線センサーをオフにしてライトを消したがリータは現れない。ランタンのスイッチを再び入れて手に持ち、廊下を駆け出す。そしてアルバムに蹴躓きながらブレーカーのある玄関に向かった。

 指紋認証してブレーカーを落とし、10分か15分か待ったもののリータは現れない。急に寒くなってきたので、諦めてブレーカーを上げ時計を見る。時計は8時20分を過ぎていた。

 

 朝起きると母さんが帰ってきてて、キッチンで朝食の準備をしていた。僕は大きく欠伸をしながらキッチンへと向かう。

 昨日の夜は寝付けず、トイレに行ったりコーヒー牛乳を飲んだりしながら、たまに廊下を見ていたけど、その後特に変化はなく、ようやく眠くなってきたのは2時近くになった頃だった。

「明、昨日の停電は問題なかった?」

 僕の足音に気付いたのか、母さんがキッチンから姿も見せずに聞いてきた。

「うん、大丈夫、何も問題なかったよ」

 この匂いは味噌汁と焼き魚のセットだ。鼻をくんくんさせながら僕は戸口を潜った。

「そう、何か変わった現象とか起きなかった?」母さんは肩越しに僕を見ながら話しかける。

「変わった現象って?」

「うーん……、何でもいいのよ。何かいつもと変わったことがなかったかどうか。停電なのに電気がぼやっと点いていたとか」

 その言葉にリータのことを話そうかとも思ったけど、母さんはお化けや幽霊の話は信じないタイプなので、リータのことは話さなかった。「停電以外、いつもと変わらなかったけど……。何かあったの?」

 椅子を引きテーブルに着く。母さんは予想通り御飯と味噌汁、焼き魚が乗ったプレートを僕の前に置いた。

 百年ちょっと前までは飽食の時代とかって言われ、食料品店というものがあったらしい。

 だけど今の時代は、都市部ではほとんどの家庭で一週間単位であらかじめカタログの中から選択し、時々まとめて無菌真空包装された食事が各家庭に配送される。工場で一括生産されているけど、各家庭のアレルギー対策なども当然考えてあった。

 学校にはダイニングホールがあるけれど、そこでも出される食事は一緒だった。

 おやつは別途ウェブで注文しなくてはいけない。ただ注文して5分以内に家のエアダクトポストに投函されるので、不自由は感じていなかった。

「母さんの仕事場で、ちょっとした実験をやっててね。停電もそのためなんだけど、地域住民に影響がないか調べているのよ。ま、身体には影響がないはずなんだけどね」

「ふーん。どんな実験?」

「明にはまだ早いわ。分かるようになったら教えてあげる」

 そう言って母さんは自分のご飯をテーブルに置いて座った。

 大体分かっている。大人の事情ってやつで、秘密にしなくてはいけないからはぐらかしているのだとここ最近ようやく分かるようになってきた。

「ふーん。で、いつまでその実験て続くの?」

 少し迷ったような顔をした母さんは、「1年ぐらいってとこかしら」と焼き魚に箸を刺す。

 1年……。ひょっとしたら、またそのうちリータに会えるかもしれない。少し胸が躍ったけど、それを顔に出さず、母さんに「ふーん」と返した。

「それよりも母さん、父さんの御見舞い今度はいつ行けるの? 実験終わるまで行けないの?」

 母さんは徹夜がきつかったのか、疲れたような顔を見せて呟く。「そうね……、今度の土日にでも行ってみようか。夏雄も明の顔を見たいだろうし……」

 それを聞いて安心した僕は、大きく頷いて御飯を頬張った。

 

 停電2日目の夜、僕はリータが現れた廊下にアルバムとランタンを持って待っていた。

 天井のライトがフッと消え、そのままじっと暗い空間を眺める。すると約15分後、天井に近いところにリータが現れた。

 ……良かった、また会えた。

 安堵の溜息を漏らしながら、僕はリータに近付いた。

 彼女は腹の高さぐらいまで天井近くの壁に埋まっている。天井を向いてちょこんと座っていて、頭をこくこくと動かしている。顔が見えないけど、どうやら睡魔と戦っているみたいだ。

「おーい、リータ!!」

 手を振りながら俺はリータに呼びかけた。その声が聞こえたのか、リータは跳ねるように顔を上げ急いで辺りを見回す。そしてリータの肩越しに目が合い、彼女は目を擦りながら立って床のほうへとやってきた。

 白い肌が少し赤みを帯びている。寝姿を見られたのが恥ずかしいのか、眠っていたからなのかは分からない。

 僕の家の床に近付くにつれ、膝上まで埋まっていたリータの全身が露になる。

「アキラ、ルラステアムザ」

 昨日と同じ、つい聞き惚れてしまう澄んだリータの声だった。

 彼女の言葉は最初のアキラしか分からなかったが、僕は彼女の笑みに負けないぐらいの笑みを返した。

 

 その日から僕とリータの秘密の勉強会が始まった。リータの言葉をノートに書き、リータも黒板のような道具を持ってきて、会話と筆談を交えてお互いの言葉を覚えていく。それは学校の授業よりも、母さんの問題集よりも断然刺激的だった。1日2時間、週5日の勉強会だったが、言葉による意思の疎通がスムーズになるまで、そう時間は掛からなかった。

 リータは年上だからか僕よりも物覚えが良く、僕は教えてもらった言葉を学校の休み時間に勉強したりしてやっと追いついているといった感じだった。

 学校での友達は、そんな僕を見て、やや冷ややかな目線を投げていた。

 

 停電時にリータが現れるようになって2週間たった土曜日の朝。約束より1週間後れで母さんは僕を連れて長野にある父さんの実家に行った。

 母さんと住んでいる第8寮がある千葉県の郊外から、長野駅までエアロプレーンで15分。長野駅からシャトルバスを乗り継いで、途中からタクシーを使って30分。計45分のところに父さんの実家はある。まだまだ寒い長野の空気はキリリと引き締まって、タクシーから降りてすぐに身震いを起こしたが、冬の千葉では味わえないこの清々しい空気は好きだった。

 玄関までの短い石段に足を踏み入れるところで、祖父ちゃん祖母ちゃんが外で待っているのに気付いた。祖父ちゃんは皺の溝が2倍増しになるかのような笑顔で僕の元に駆け寄る。そして石段を登ってきた僕を強く抱き締めた。

「ははーっ! またでかくなったな、明!!」

 祖父ちゃんと最後に会ったのはまだ半袖の頃だったから、半年ぐらいでそう変わらないだろうと思ったが、祖父ちゃんの相変わらずの喜びように不思議と懐かしさが込み上げてきた。

「ただいま、祖父ちゃん!」

「うんうん、ちゃんと食っているようだな」そう言って、祖父ちゃんは何かを確かめるように軽く僕を抱える。

「御無沙汰しております、御義父様、御義母様」

 後からゆっくりと石段を登ってきた母さんの声で、祖父ちゃんと祖母ちゃんの表情は強張ったかのように感じた。

「……もうちょっと定期的に顔を出してくれると、夏雄も喜ぶと思うのだが」

 祖父ちゃんはそう言いながら僕を抱き締めていた腕の力を弱めた。その隙に僕は祖父ちゃんから離れ、玄関口に佇む祖母ちゃんに、ただいま! と声をかけて家に上がる。

 急いで靴を脱ぎ、長い廊下を駆けて父ちゃんの寝室の襖を開いた。

「父さん、ただいま!」

「よく来たな、明、相変わらず元気だな!」そう言って父さんは和室の布団の上で両手を広げる。

 僕は駆け寄り、「話たいことがあるんだ!」と言って甘い香りのする父さんの胸の中に飛び込んだ。

 母さんや祖父ちゃん祖母ちゃんが来る前に、僕は父さんにリータのことを話した。案の定、父さんはうんうんと頷きながら、僕の話しを真剣に聞いてくれる。

 僕が一頻り話した後、父さんはいつもの優しい目で僕を見つめて話してくれた。

「多分明が会っているのは天使様だ。……うん、間違いない。それは本当に凄いことだぞ」

「天使様……?」

「神様の使いだよ。明は神様に選ばれたんだ。ただ神様は忙しくて、中々この世界には降りてこられない。忙しい神様の変わりに天使様にお願いするんだ」

「その天使様が僕に何の用なの?」

 父さんは僕の頭を指で梳る。「それは会話を続けていくと教えて下さるさ。明がこれからしていかなければいけないこと、そのことを天使様は必ず教えて下さる。そのことは明にしか出来ないことだから天使様はお教え下さるんだよ」

「僕にしか出来ないこと……」

「そう、人間は誰にでも自分にしか出来ないことがある。ただ他人を憎んだり、羨んだりしたら曇ってそれが分からなくなる。明はしっかりと自分を見つめ、自分の道を進みなさい。自分を信じて……、信念を持って生きるのだ。天使様に会ったことで、明の人生の意味はさらに強くなるのだから」父さんは一旦僕から顔を背けて咳払いし、もう一度僕の顔をひたと見る。「いい目だ。目は母さんに似たようだな。顔の形は俺のようだ……、いい男になる」

 そう言って微笑んだ父さんは、廊下を軋ませて戸口に顔を出した母さんに顔を向けた。

「お帰り、香苗」

「ただいま……、また帰って来て早々ご両親に小言言われちゃったわ。……それよりも具合どう?」

「ああ、随分いいよ。……親父とお袋は特に気にしなくて良いからな。まあ、気にするなと言われても、香苗としてはそうもいかないかもしれないけど」

「まあ、いいわ。今に始まったことじゃないし。それよりも……」母さんは戸口から廊下を警戒するように見渡し、後ろ手に襖を閉める。父さんの和室をすたすた横切り、角にある木製の年季が入った箪笥の引き出しを開けた。

「やっぱり飲んでいない……」そう呟いて引き出しを閉じ、布団に座る僕の隣に身を寄せ僕の両肩を掴んで言う。

「夏雄の信念だから私はとやかく口出ししない。だけどあなたと私の間にはこの子もいるってこと忘れないで。

 あなたの博愛精神は私も誇りに思うけど、自分も愛してこその博愛だと思うわ。

 世の中は神様が創った物だけじゃない……。あなたと私で産んだこの子は、2人の力で立派に育てていかなくてはいけないのよ。神様が育ててくれるわけじゃ……ないんだから……」

 真剣な声で言い始めた母さんのその声は、最後の方は涙声に溶変していた。そんな母さんの手に父さんは頷きながら片方の手を添える。2人分の手の重さが僕の肩に掛かった。

 母さんは僕の頭に額を当て、鼻水を啜りだした。

 

 父さんの実家で1泊して帰宅した次の日、僕は学校から走って帰り、父さんの部屋の箪笥からカメラを取り出した。リータの、天使の姿を父さんに見せてあげたくて、父さんの好きな写真でリータを撮ることにしたのだ。

 授業中それを思いつき、父さんがどういった表情をするのかが楽しみで午後の授業は上の空だった。

 カメラが使えるかどうか、小窓から確認して1枚試し取りする。母さんが持っているカメラのように、すぐに確認出来るような機能はないけど、フィルムの残りが分かる小窓の数字が減っていたので使えることは分かる。同じく父さんの部屋の本棚から図鑑1冊を抜き取って部屋を出た。

 最近のリータのお気に入りである写真の載った図鑑、それにカメラとランタンを持って廊下で停電を待っている。そして電気が消え15分ぐらい経った頃、リータが現れた。

『こんばんは、リータ』僕はリータの国の言葉で話しかける。

「こんにちは、アキラ」

 リータの国は昼のようだ。学校で勉強した地球の自転とやらが関係しているみたい。リータは覚えた日本語で話しかけてくれる。

 先週の金曜日に読みかけていたページに付箋を張っておいた。図鑑のそのページを開き、床に置いてリータに向ける。リータも絵本を壁に寝かせるようにして僕に向けてくれた。

『リータ、1つ、お願い』

「なに?」

『僕を見て』

 まだ少ない語彙で何とか頼み事を伝えた僕は、カメラを縦に構えてリータに向ける。リータは首を傾げて僕を見た。

 カメラを構えて窓を覗いた僕は、後ろに下がりながらリータの全体が収まるように調整する。

「アキラ、どうしたの?」

 リータの視界から消えたようだったけど、僕はちょうどリータが納まる場所を見つけ、シャッターを押した。

 フィルムの残りが減っているのを確認した僕は、数歩進んでリータの視界に入り『ありがとう、リータ』と言った。

「なに?」

『アルバム、同じ、えっと……、リータのシャシン』と言ってカメラを指差す。

 リータは目を輝かせながら「写真!」と叫んだ。アルバムを見たときの反応から、凄く興味をもっているのは分かっていたけど、こんなに感激してくれるとは思わなかった。

 僕は『もう1回いい?』と聞くと、リータは「待って」と言って視界から出て行ってしまう。何するんだろう、と思たけど、なかなか戻って来なかったのでリータの用意した開きっぱなしになっている絵本を見ていたら、しばらくして慌てて戻ってきた。

「ごめんなさい」と言ったリータの背中まである髪が櫛で梳かれたのか、綺麗に整っている。

 僕は何だか楽しくなって、今度はカウントを数えた。ややぎこちない表情でリータはレンズを見つめ、僕のカウントに合わせて身構える。今度はリータの胸から上の写真が撮れた。

 余りバシバシ写真撮るのも気恥ずかしいので、『終わり』と言って僕はカメラを下ろす。

 リータは「写真は?」と聞いてきたので「フィルムを使い切ってから現像する」と伝えたかったが、良い言葉が見つからない。『えーっと……、後で』と答えると、「分かった、楽しみ」とリータは綺麗な小顔を綻ばせていた。

 

 しばらく順調に僕とリータの勉強会が続いた。それが日課になって、僕のノートがすでに3冊目に入った頃だった。

『リータ、このラステアってどういう意味?』

「それは私の国の名前。私の御父様の国よ」

『リータのお父さんの国?』

「そう、ラステアは私達の国」

『私達……』

「リータ・ラステア・エルリウム……、ラステアよ」

 リータの国では名前と苗字の間に国の名前を入れるのだと思った。僕で言えば、「アキラ・ニホン・トウジョウ」だろうか。

『リータ、ここに書いてあるエフェロンって何?』

「エフェロンは破壊の神様よ。右手に白い剣、左手に雷を持つエフェロンは、かつて人間の乱れた姿に怒って、人々を劫火で殲滅させようとしたの。だけど神祖の民が神具を使って私たちの御先祖様を助けてくれたんだって」

『神様なんだ』

「そう、だからほとんどのラステアの人々は毎日エフェロンの怒りを静めるため、お祈りを捧げているの。ところでアキラ、このコンピュータって、何?」

『コンピュータってのは、僕たちの代わりに計算してくれる機械だよ』

「計算してくれる……、機械?」

『ほら、カメラのような鉄で出来た――』

「見せて!」

『うーん……』と、しばらく考えた僕は、『ちょっと待ってて』と言って、2階の自分の部屋に向かった。机の上に置きっぱなしの携帯ゲーム機を持って、再びリータの視界に戻る。そして久しぶりにそれの電源を入れてリータの目の前で作動させた。

 縦横20センチ、厚さ1センチほどのゲーム機は、去年発売されたばかりの最新機種だ。去年の誕生日に母さんに買ってもらったもので、売りは連続使用300日間と言う意味の分からないバッテリーの持ちの良さと、素粒子を利用した量子コンピュータとかっていう画像処理の速さにあった。エリア内に現れる立体映像の解像度が、今までのゲーム機に比べて格段に向上している。

 電源を入れてメーカー名がゲーム機の上に立体的に現れると、すぐに自分の作ったキャラクターが20センチの立方体のエリア内に現れた。高さ5センチほどの赤毛の青年で、右手には剣を持っている。中世ヨーロッパを舞台にした戦記物で、オンラインで仲間を集めて魔王を倒しに行くのがメインストーリーだった。

 リータはその小さい青年を見て、口を手で押さえて驚き、顔をぐぐぐと近付けてみていた。そして白く細い指で触ろうとするも当然空振りする。

『さわれないよ、リータと僕みたいに……』と言った僕の顔を、リータは寂しげな顔で覗き込んだ。僕は一瞬戸惑ったけど、リータは僕の気持ちを理解したかのような屈託のない笑顔を見せた。

 そう、僕とリータは触れられない。この立体映像のように。

 その日は勉強のことを忘れ、僕がゲーム機で動かしているキャラを、リータは身を躍らせながら興奮の眼差しで見ていた。

 やがてリータとお別れの時間が来て、また明日、と手を振ってリータは消えていく。

 その後すぐに僕はマジックを探して、3冊目のノートの表紙に「ラステア語」と書いた。

 

 時々リータが現れない日もあった。でも前日か前々日に「明日、私、アキラと会える時間に仕事があるの……」と寂しげに言っていたので、心配ではなかった。それよりもリータの歳で仕事なんて、大変なんだな、と思う。でもリータが姿を現さない廊下で、ラステア語のノートを開いて勉強はしていた。そうすることでリータが傍にいるような気になっていたからだ。

 そのリータがある日、しょんぼりと項垂れながら、僕に愚痴をこぼしてきた。

「アキラ、明日仕事行きたくない。アキラと一緒にお話ししていたい……」

 その言葉が嬉しかった。嬉しかったが、仕事と聞いて母さんの苦労も知っていたので、僕は母さんを思いながらリータに話しかけた。

『なんで行きたくないの?』

 しばらく考え込んでいたリータは、堰を切ったように話し始めた。

「だって、私なんていなくたってもいいんだもん。私じゃなくてもいいのに、みんなの、みんなの希望を蔑ろにして、私はみんなの願いを叶えることも出来ないのに、みんなに作った笑顔振りまいて……、私、自分で自分が納得いかないの!!」

 僕はリータの言っている意味が殆ど分からなかった。リータはどんな仕事をしているのだろう。多分聞いても分からないと思う。でも、そんなに悩んでいるリータにかけて上げられる言葉は父さん、母さんの言葉の受け売りしかなかった。

『辛いかもしれないけど、リータにしか出来ないことがあるんだ。それは『しんねん』って言って、自分を信じないと出来ないんだって』

「……私、そんなに……強くない」

『大丈夫、リータは強いし凄いよ! リータは僕に色々話や考え方を教えてくれたし、学校でも1人でリータの言葉を勉強しているけど、もっともっと頑張って勉強してリータと色々な話をしたい。だからリータも頑張って!!』

 僕はリータに触れたかった。だけど触れられない。

 リータは僕の目を見ながら、上目遣いで話してきた。

「アキラ、強いのね。私、そこまで頑張れないかも……」

『……強くなんかないよ。俺よりも父さんや母さんのほうが頑張っているから、僕なんて大した事ない! みんなが頑張っているから僕も頑張らないと!』

 しばらく顔を伏せて考えていたリータだったが、「……うん! じゃあ、私もアキラが頑張っているから頑張らなくちゃ!」といつもの笑顔を見せて顔を上げた。

 そんな僕がリータに『明日会えない』と言う事はないと思っていた。

 

 その日はリータと会って6ヵ月後にやってきた。

 ある水曜日の朝、いつものように大欠伸をしながらキッチンに顔を出したときだった。母さんが走って僕の元にやってきて、跪いて抱きついてきた。またお酒飲んでいるのかな、と思ったけど、母さんは肩を震わせながら泣いている。

「おはよう、母さん……」

 そう言っても母さんは力を緩めない。しばらく抱かれるままになっていた僕に、ようやく母さんが身体を離して、日頃見ないくしゃくしゃになった顔を向けて言った。

「明、驚かないで聞いて……、父さんが……、父さんが死んだの……」

 そう言って母さんは再び抱きつき、声を上げて泣き出した。

「父さんが……、死んだ……?」

 耳元で響く母さんの鳴き声が頭を揺さぶり、そして母さんが言った言葉の意味を求めて僕の頭は混乱している。しばらくしてようやく事態が飲み込めてきた。

 死ぬということは、命が途絶えるということ。そしてもう2度とその人に会えないということ。

 リータと本を読んでいて、「死ぬ」って何、と聞かれたとき、説明のために辞書を見て僕は悲しくなったのを思い出した。

 父さんの命が途絶え、父さんともう2度と会えない。そう思った途端、鼻の奥が急に痛くなり涙が出てきた。そして喉を締めつけられるような感覚と、心臓を鷲掴みにされたような痛い感覚とが、僕を襲った。

 僕は母さんの肩に顔を埋めて大きな声で泣き出した。

 

 その日、母さんは仕事帰りのまますぐに黒い服に着替え、昼までに一旦父さんの実家に顔を出して、夕方には一度戻ってくると言っていた。

 僕は学校を休まされ、昼間は荷物をまとめるようにと母さんに言われる。1週間お父さんの実家に泊まらなくてはいけないらしく、着替えや本など必要なものを考えてはバッグに詰め込んでいた。

 すぐに終わると思っていたけど父さんが死んだのが信じられず、途中から全く集中できないでいた。結局準備は夕方まで掛かってしまう。父さんが死んだことを考えると、たまにじわりと涙が出てきて、それを拭いながら居間で母さんを待った。

 長野から戻ってきた母さんは今夜会社に顔を出す必要があるらしく、またすぐに着替えて家を飛び出していく。寝てないようだったけど大丈夫なのだろうかと思った。

 そしてその夜も僕は1人でリータを待った。

 

 リータの顔を見た瞬間、挨拶も忘れて僕は言った。『リータ……、ごめん。明日から5回会えない』

「5回も! ……どうしたの、アキラ」リータは不安げな顔で僕に迫る。

『僕の……、僕の父さんが死んだんだ……』

 僕は泣くのを必死に堪えていたけど、それを聞いたリータが先に泣き出してしまい、つられた形で我慢していた涙がとめどなく流れ出した。リータの前で泣くのは恥ずかしい、そう思っていたけど涙と声が止まらない。リータは自分のことのように声を荒げて泣いていた。僕はクーラーだけが稼動している廊下で正座し、リータと共に泣き続けた。

 しばらく僕達は泣いていたが、泣き止んだとき自然と見つめ合っていた。

「アキラ、あなたには私がいるから……」

 恥ずかしげもなくそう言ってくれるリータに僕は少し照れた。

『ありがとう。良かった、言って。泣かないと思っていたのに……、リータ、ありがとう』

「私、今日ほどあなたに触れたいと思った事はないわ……。あなたは私に色々と教えてくれたのに、私は何もして上げられない。……ごめんなさい」

 僕はリータの優しさに再び涙が込み上げてきたけど、グッと押さえた。

『ううん、リータと一緒にいる時間は楽しいよ。お父さんは神様の使いだとリータのことを言っていたけど、間違いじゃないと思う』

 リータは驚いた顔をして僕の顔を見つめた。「私が神様の使いだなんてとんでもない!! 私はあなたが天の、神祖の民の子供だと思っているわ! こんなに……、こんなに色々と凄い話をしてくれて、そして優しくて……」

 緑色の眸に今だ涙を滲ませたリータの綺麗な顔が、僕のすぐ近くに迫る。リータが年上なせいだろうか、同じ歳の女の子には感じない気持ちが胸の奥を叩く。

『ありがとう、リータ』僕はリータに手を出し、リータもそれに自分の手を重ねる。

 お互い触れられないが、何かが通じ合ったような満たされた気持ちになった。

 

 その日の夜、僕はまとめた荷物を持って、母さんと共に家を出た。

 ハワイ発のエアロプレーンに乗る。日帰りでハワイから帰ってきた陽気な人たちに紛れ、僕たちは黒い服に身を纏い、隅の座席で押し黙っていた。

 15分で長野駅に着き、そこから直接タクシーで父さんの実家に向かう。母さんはずっと僕の手を握っていたけど何も話さない。

 僕はさっきリータと一緒に泣いたせいか、気持ちは幾分落ち着いていた。

 タクシーが最後の坂を登る頃、ようやく母さんが口を開く。

「明……、強いのね。やっぱり男の子って頼もしいわ。母さん、少し安心した」

 僕の手を握る母さんの手に、一瞬力が籠もる。だけどその手は急に歳をとったかのような弱々しい感触を覚えた。

「うん」と強く返す。母さんに対して口癖になっていた「ふーん」という言葉は、この日を境になくなっていった。

 

 話しかけても答えないどころか、まったく動かなくなってしまった父さんを前に僕はまた泣いてしまった。でも隣で祖父ちゃんが僕の肩を抱き、色々と言葉をかけてくれたら少しずつ落ち着いてきた。

 それよりも向かいの母さんが痛々しくて見ていられなかった。父さんが横たわる和室に入る前から泣きっぱなしで、今はようやく嗚咽が止まって茫然と父さんの顔を覗き込んでいる。泣き伏して乱れた髪も整えもしないで。

 そのうち親戚とか知らない人もいっぱい集まり、母さんは僕を引っ張って、用意された奥の部屋に引きこもってしまった。そのまま母さんは僕を抱き締めて、ようやく眠りに入ったようだった。

 母さんの鼓動が聞こえる。その鼓動に命の存在を感じながら、それをもう放したくないと思い、母さんをぎゅっと抱き締めたまま僕もいつの間にか眠ってしまった。

 

 翌朝、僕と母さんは、なぜか父さんのお葬式に出ることが出来なかった。祖父ちゃんと祖母ちゃんは僕だけでも参列させたかったみたいだったけど、見知らぬ親戚の人から咎められたようだった。

 物悲しい雰囲気の中、棺桶に入った父さんが運び出される。それを僕と母さんは遠くから見ていた。

 

 僕は荷物の中に詰め込んできた父さんのカメラを手に、母さんと家の近くの土手を歩いていた。長野の夜は暑かったが、朝は幾分涼しい。手に持ったカメラで景色を撮っていると、母さんが聞いてきた。

「明、それ父さんの箪笥から引っ張ってきたの?」

「……うん、父さんにこれで撮ったリータを見せたかったんだけど……、これだけじゃ無理だって分かっているんだけど、持ってきちゃった」

「リータ? 誰? ガールフレンド?」

「ううん」僕は首を振り「友達の天使様だよ」と顔を伏せて答えた。

 母さんは僕の頭をくしゃくしゃに掻き回して「明、女を泣かすなよ! あんたは父さんに似て格好よくなるんだから」と言った。

 そして母さんは、貸しなさい、と僕からカメラを取り上げ、至近距離から僕を写し始める。母さんは涙を流していたが、顔は数日振りに笑っていた。

「いいよ! 僕は撮んなくて!」

「いいから写んなさい! この瞬間はもう二度と戻ってこないのよ!」と、母さんは何度も写真を撮っている。

 そしてカメラを愛しく摩りながら、「フィルム使い切ったら現像するから。……夏雄の意思が残っているかもしれないし……」と言った後カメラを抱き締め、その場に声を出して泣き崩れた。

 母さんの持っているカメラを父さんと思って摩ると僕も悲しくなり、釣られて泣き出してしまった。

 その泣き声は、誰もいない残暑の厳しい片田舎の土手に響いていた。

 

 早朝に運び出された父さんは、透き通るような白い陶器の壷に入って戻ってきた。父さんはその壷に入っていると祖父ちゃんは言っていた。

 涙も流さずに母さんは父さんの入った壷を見ていた。僕はその隣で蓋を開けてみる。

 笑って僕を抱き締めてくれた父さん。甘い香りで僕を包み込みながら色々な事を教えてくれた優しい父さんが、匂いのしない白いバラバラの固い軽いものになったなんて、悪い冗談にしか思えない。壷の中身を手に取ろうなんて思わなかった。

 人間て脆い……

 そんな考えがふと浮かぶ。この固い白いものを父さんと呼べるのかと思ってしまう。そしてそれを見ても、もう涙が出てこなかった。

 

 再び千葉に戻ってきた僕は木曜日の夜、廊下でリータを待つ。1週間振りだということもあって、少し緊張していた。

 そして8時15分、リータはいつもの場所に現れた。

「おかえり、アキラ!」満面の笑みで僕を迎え入れてくれた。

 僕も思わず顔が綻び、『ただいま、リータ』と答えた。

 すぐにリータの笑顔は曇りを見せ、何を話していいか分からないといった表情になる。

 多分、父さんの事で気を使っているのだろうと思った僕は、何も気にしていない風に話しだした。

『長野、良かったよ』

「ナガノ……、アキラのお父様のところ……。綺麗なところなの?」

『うん、僕が住んでいるところとは違って、緑が多いんだ』

「緑……、植物の例えね! アキラの事典で見せてもらったけど、私の国よりも種類が多いのね」

『うん。朝はだいたい母さんと家の近くを散歩したんだけど、気持ちよかった』

「写真とか無いの? あったら見せて欲しいけど……」

『写真……、あっ、明日リータを撮ったフィルム現像するから、明日リータの写真見られるよ! それに長野も写っていると思う』

『わあっ!!』とリータは母国語で喚声を上げる。「あーっ、楽しみ! ナガノの写真もだけど、私がどんな風に写真に写っているのか……」リータは身体を捩らせながら期待に目を輝かせていた。

 

 翌朝台所に向かっていると、ちょうど玄関のエアダクトポストが電子音と共に、カンと音を立てた。

 大欠伸しながら僕はポストを開けると、古びたデザインの包装にアシンベルサービスと書かれてある配達物が入っていた。中身がすぐに分かった僕は、すぐに手に取り、その包装をその場で破くと、やはり中には厚さ1センチほどの写真の束が入っていた。

「母さーん!!」玄関から叫んで、僕はキッチンへ駆け込んだ。するとテーブルに突っ伏していた母さんを見つけた。

「母さん!」慌てて近寄ると、テーブルの上に散らかるお酒の缶が目に入った。

「……明、おはよう」

「母さん、飲みすぎだよ」普段よりも明らかに本数の多い缶を見て、僕は久しぶりに注意した。

「ごめんね……、明。母さん疲れちゃって……」

 そんな弱々しい母さんの言葉に少し寂しくなったが、僕は顔を上げ、リータの写真を抜き取った残りの写真をぐいっと押し付ける。「父さんの写真だよ」

「夏雄……!」

 母さんは僕の手からその写真の束を引っ手繰った。

 僕はリータの写真をポケットに入れ、母さんと差し向かいに座り、母さんの表情を見る。そして母さんが見終わってテーブルに置いた写真を奪い取り、僕は写真のほうをじっくりと見た。

 やはりその写真のほとんどが僕と母さんの写真だった。もの凄く楽しそうな表情で、僕と母さんは写っている。そして僕だけの写真も何枚かあった。父さんがまだこっちにいる時期で、アルバムに無い3歳以降の写真だと思った。父さんの部屋で百科事典を開いている横顔、コーヒー牛乳を飲んでいる写真、そして一番新しいのは小学校に行く前なのか、ランドセルを背負ったまま振り向きかけている写真。アルバムと同じ、自分の知らない自分だった。これもリータに見せようと思う。

 ふと写真から母さんを見遣ると顔を歪ませ、ぼたぼたとテーブルに涙を落としていた。

 

「明、夏雄……、父さんはね、手術や薬を受け入れなかったの……」ようやく泣き止んだ母さんは、目を擦りながら言う。「どうしてだか分かる?」

「ううん……」僕はゆっくり首を振る。

「人に定められた寿命はね、神様から与えられたものだから人間がいじってはいけないと言っていたの。人間が人間の寿命をコントロールするなんてだめだって」

 僕はじっと聞いていた。まじめに話す母さんに圧され、学校の準備を気にするどころではなくなっている。

「母さんは間違っていると思うんだけど、それは父さんの信念だから」

「信念……」父さんも言っていた信念。

「信念って言葉は、まだ難しいかな?」

 なんとなくでしか分からなかったが、僕は少し背伸びして首を振った。

「母さんにも科学者としての信念はあるわ。明がもう少し大きくなったら話すけど、自分が信念を持っている以上、他人の信念も同等の価値があるの。そして夏雄は他人じゃなくて、私の好きな人だからね、なおさら……。それに間違っていると思ってても、自分が正しいとは限らないし」

 何かなぞなぞのような感じになってきたので、僕は首を傾げる。母さんはそれを見て苦笑し、僕の頭をくしゃくしゃと掻き回した。

「ちょっと難しかったわね! ほら明、学校遅れるぞ!」

 

 登校中や授業中、母さんの言っていた言葉を頭の中で繰り返していた。

『人に定められた寿命はね、神様から与えられたものだから人間がいじってはいけないと言っていたの。人間が人間の寿命をコントロールするなんてだめだって』

 確かに間違ってはいない気がする。でも正解でもない気もする。じゃあなんで神様は僕たちを生んだのだろう。それか神様が僕たちを生んだということ自体が間違っているのかもしれない。正解はどこにあるんだろう。答えの無い問題を解くため頭の中の似たような所をぐるぐる回って、家に帰る頃には頭が疲れてきた。

 途中気を紛らわすため、ポケットに入れた2枚のリータの写真を見た。背景が暗くてリータだけが綺麗に浮き上がって見える。これを見せたらリータは喜びそうだ。リータの笑顔を想像しながら、僕は蝉のなく通学路を足取り軽く帰った。

 

     別れと決心

 

 僕は暗闇の海で溺れ、慌てふためいた。

 ……すっかり寝てしまっていた。

 昼間ずっと考え事をして疲れていたのか、自分のベッドの上で少し横になって、そのまま寝てしまっていたみたいだ。

 慌てて電気ランタンと写真2枚を手に取り、時間を確認して部屋を飛び出す。6時50分。まだリータが現れて30分ちょっとだ。でも怒っているかもしれない。薄暗い階段を駆け下り、廊下に出た。するといつもの場所にリータは座っている。僕はホッとして枕で乱れた髪を軽く整えながら、リータの視界に入った。

『ごめん! リータ』

「あっ! よかった……。おはよう、アキラ」

『リータ、ほら写真できたよ!』

「わあ! やっ……」

 ぱあっと歓喜のオーラを発し、白い歯を見せたリータが立ち上がって僕に近寄った瞬間だった。

 リータの姿が急に薄くなって、そのままランタンが照らすオレンジの薄暗闇に消えてしまった。

「リータ?」

 時間はまだ6時50分を回ったぐらいだったはずだ。僕の視界の外に飛び出したのかと思った。少し下がって様子を見るもリータは出てこない。

「リータ……、リータ!?」

 その日はなぜか9時過ぎまで停電が続いたが、リータは現れない。

 写真を片手に廊下に座って、停電が明けるまで待った。僕を嫌いになって話すのがイヤになったのだろうか。でも今までにない感じだった。一瞬もう二度と会えない感じもしたが、頭を振ってそれをはじき出した。

 なにかある。何かあったんだ……。

 ずっと考えていたら結局廊下で寝てしまったようで、起きたら朝になっていた。母さんが帰ってきてもおかしくない時間なのに、キッチンにもいない。憔悴した母さんが戻ってきた頃には、お昼になっていた。

 その日以降、定期停電はなくなった。そして、リータが姿を現すこともなくなった……。

 

 リータが姿を見せなくなって半年ほど経った頃、この寮からの退去が決まった。

「メゾネット良かったのに……」と母さんは何度も口惜しそうに呟きながら、引越し前の準備をしている。

「母さん、仕事どうしたの?」

「んー、そうねえ……。実験が失敗してね……、マスコミにも情報が流れているから話してもいいかな」

 しばらく何か考えていたようだった母さんは、少しずつ言葉を選ぶように話し始めた。

「今まで母さんがやっていた実験はね、亜空間開闢実験って言って、この世界とは別の世界をつなぐ扉を作り出す実験だったの」

「別の世界……」

「そう、地球はこのままいくと人でパンクしちゃうの。かといって宇宙に大量に人を送るとなると、お金がたくさん必要でね。だから地球に別世界の入り口を作ろうと思っているの……、いや、思っていたになるんだけど」

 別の世界と聞いて僕はリータの国を思い出した。……ラステア。一度母さんの端末でラステアを検索したけどヒットすらしない。その後、世界地図を持ってリータに聞いたけど首を傾げて全く話が進まず、結局それ以上ラステアの話が話題に上がることはなかった。

「母さん……、僕その別世界、知っている」

 その言葉を聞いた母さんは、困ったような顔で僕を見る。

「リータが、その別世界の人なんだ。ちょっと待ってて!」

 そう言って僕は2階に上がり、引き出しからリータの写真を取り出して、母さんの待つ台所に戻った。

「この子がリータだよ、母さん」

 

 僕はリータとの半年を事細かに話した。

 停電の間に現れたこと、少しずつ言葉を教えあって会話が出来るようになったこと、そして……、定期停電が無くなった日以降、リータの姿が見えなくなったこと。一通り話すと、母さんは大きく溜息をつき、「なんで言わなかったの?」と聞いてきた。

「だって、母さんこういうの信じないと思って……」

「そうね……、確かに実験のことがないと信じなかったかもね。それにしても廊下の壁に立つように現れるなんて、理屈が分からないわ。それ以前にこの家に出てくるってところが……。まあ、まだ何かの要因があるのかもしれないし……」

 母さんはリータの写真を見ながら、最後はぶつぶつと呟くように喋っていた。

「でも私も話ししたかったわ、このリータちゃんと。……また実験が再開されれば現れるかもしれないけど」

「そう! もうやらないの!?」

「んー、ちょっと厳しいわね。内緒の実験としてやっていたんだけど、失敗でばれちゃって中止に追い込まれたの。亜空間の入り口が安定して大量に人が送り込めるようになると、大体の戦争も無くなっちゃうし、地球の土地の価格も一様に安定するし、食料も安定しちゃうかもしれなくなると、逆に困る人が出てきてね。そうなると余所の国が日本の政治家に圧力をかけて止めさせようとするの。……馬鹿よね、人間って」

 話の内容はいまいち分からなかったけど、母さんと同じ仕事をやると、またリータが現れる可能性があるのを何となく感じた。

「母さん、僕、勉強するよ。母さんと同じ科学者になる」

「ふふふ、愛の力ね」と言って僕の頭をわしわし掻き、「今度の研究所は昼勤だから、明が学校から帰ってきたら、たっぷり勉強を教えてあげる」と言った。

「えーっ!!」

「……あんた、母さんのこと嫌いなの?」

 

 僕が10歳の誕生日を迎えた頃、ある話題、いや事件が世間を騒がせ始める。友達や母さんとの間ででも話題になったその事件は、アビーストライクと呼ばれた。

 直径5・2kmの遊離小惑星アビーが太陽系内に入り込み、真っ直ぐ地球へと向かってきているとNASA及び各国の宇宙開発機関が共同発表したのだ。正確には世界の天体観測家がウェブで発表、警告し、正確な情報を掴むまでそれを秘匿していたNASAが、世論に圧されて正式に発表したのだった。その衝突は発表から約3年後、日本時間で言うと2161年1月22日夜半頃で、確率は13%と当初発表されたが、言い換えれば8回に1回は衝突する可能性がある。

 そして、なりを顰めていた宗教家が突如とメディアやウェブに顔を出して、神の怒りだとか、預言書がどうのとかしばらく捲し立てていた。だがNASAは淡々と定期的に現在位置、衝突確率を発表し続ける。

 先進国の幾つかは旧時代の負の遺産、核兵器をここぞとばかりに使おうとしたが、環境団体による宇宙汚染に対する非難の声と、宗教家の猛反発にあい、リミットと言われる木星通過まで採択が間に合わなかった。

 アビーが木星と火星間を漂う同サイズの小惑星に衝突して、ほんの僅か軌道変更した後は、衝突確率が0.02%まで急激に落ち込み、宗教家の撤退とともに世間の話題に上がることも減っていった。

 

 アビーストライクの恐慌が熱を持ったままの状態で、日本政府は5年前に閉鎖したアシンベルでの亜空間開闢実験を再開すると国連で宣言する。

 大規模災害に対する準備という建前だったが、日本経済の建て直しというのが本音だと母さんは言っていた。難色を示した諸外国は、日本との共同研究ならば賛同する、との条件を提示し、日本政府はしかたなくその条件を飲んだらしい。

 

 そのアビーが肉眼で観測できるほどのサイズで夜空を駆けている。俺は13歳になっていた。

 再び母さんがアシンベルに招集されることとなった。再来年の夏には幼少期を過ごしたメゾネットの寮に戻れると思ったが、全く手入れをしていなかった建屋の老朽化が意外と進んでいたらしく、アシンベルは頃合を見てそこを建て直すとのことだった。それで仕方なくそこから3kmほど離れた集合住宅を仮住まいとすることになった。

 メゾネットの寮は以前と同じデザインに建て直し、すでに母さんが同じ部屋を予約しているので、2年ほど遅れるけど新築になって戻ってこられる。多分、実験が再開されれば、リータも戻ってくるはずだ。

 再びリータに会って、この写真を見せることが出来るかもしれない。

 願いを叶えてくれた流れ星のアビーに感謝しながら、俺は寒空の下、リータの写真を見ていた。

 

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