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婚約破棄された瞬間、王子の愛読書が全部わたしの手紙だと判明しました

作者: 入河 珈一
掲載日:2026/05/23

短編完結です。すれ違い回収と静かな逆転の恋をお楽しみください。

卒業夜会の大広間で、第一王子レオン殿下はわたしに向かって、よく通る声で言った。


「エリス・クロフォード。君との婚約を、ここに破棄する」


 銀の燭台が揺れたわけでも、楽団が音を外したわけでもない。

 けれど、その瞬間、大広間の空気だけがぱきりと薄い硝子のように割れた。


 わたしは伯爵家の長女で、殿下の婚約者で、そして今この場で、王家に捨てられる女になった。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


 自分でも意外なほど、声は乱れなかった。

 十三歳から七年間、王妃教育で教えられたことは多い。礼儀作法、外交史、領地財政、祝宴で微笑む角度。

 そのどれよりも役に立ったのは、胸を刺されたときでも背筋を折らない方法だったのだと思う。


 レオン殿下は美しい方だった。

 夜会服の白が似合い、金の髪は燭光を含んでやわらかく光り、瞳は王家に伝わる湖の青をしている。

 その青が、いまはわたしを見ていなかった。


「君とは、心が通わなかった」


 会場のどこかで誰かが息を飲んだ。


「君は完璧だ。完璧すぎる。私が何を言っても、君は正しい返事しかしない。私が笑っても、君は王子にふさわしい微笑みを返すだけだ」


「……それが婚約者の務めだと教わりました」


「そうだろう。だが私は、務めで隣に立つ人形を妻にしたいわけではない」


 人形。

 その言葉は、思っていたより深く入ってきた。


 けれど、ここで泣けば、クロフォード家は王家に恨みを抱いたと噂される。

 怒れば、醜聞になる。

 だからわたしは、感情に鍵をかけた。


「殿下のお心は承りました」


 頭を下げようとした、そのとき。


「殿下! お待ちください!」


 大広間の扉が乱暴に開いた。

 飛び込んできたのは、殿下の側近であるセドリック卿だった。普段は冷静で、眼鏡の位置すら乱さない方なのに、今日は息を切らし、両腕に大きな木箱を抱えている。


「セドリック、何事だ。今は」


「今だからです! これをお確かめください!」


 セドリック卿は殿下の前で膝をつき、箱を差し出した。

 ところが、よほど急いでいたのだろう。箱の留め具が外れ、中身が床へばさばさと落ちた。


 本。

 便箋。

 栞。

 そして、封を切られた手紙の束。


 わたしの指先が冷えた。


 見覚えがあった。

 薄青の便箋。右下にだけ小さく押した、月桂樹の透かし。

 宛名はいつも、「王宮図書館 夜番司書様」。


 差出人は、リデル。


 わたしが十年間、誰にも告げずに使ってきた筆名だった。


「……なぜ、それが」


 思わず漏れた声は小さかったのに、殿下は振り返った。


「今、何と言った」


 青い瞳が、初めてわたしを真正面から見た。


 セドリック卿が床の手紙を拾い上げる。


「殿下が十年間、大切に読んでこられたリデル様からの書簡です。先ほど、王宮図書館の旧書庫整理中に差出人の記録が見つかりました。筆跡照合も済んでおります」


「筆跡照合?」


「はい。リデル様は、クロフォード伯爵令嬢エリス様です」


 ざわめきが大広間を満たした。


 レオン殿下は、床に落ちた便箋を一枚拾った。

 わたしはその文面を覚えている。

 十五歳の春に書いたものだ。


『王とは、すべてを知る者ではなく、知らないことを恥じずに尋ねられる者だと思います』


 殿下の喉が上下した。


「これは……」


「『北方飢饉の記録』への感想として、殿下が三日眠れなくなった手紙です」


 セドリック卿は容赦がなかった。


「殿下はこの手紙を読んだ翌日、農政院の備蓄帳簿を取り寄せました。翌月には北方三州の穀物倉庫の修繕予算が通っています」


 会場がさらに騒がしくなる。

 北方三州の修繕は、若き王太子の英断として評判になった政策だった。


 殿下は二枚目を拾った。


『愛されたいなら、まず相手の仕事を軽んじないことです。花を贈るより、相手が眠れる夜を作ることのほうが、愛に近い日もあります』


 十六歳の冬。

 王宮侍女の過重労働について匿名で相談を受け、わたしが図書館へ送った手紙だ。


「それを読まれたあと、殿下は宮廷勤務表を改められました」


 セドリック卿の声は淡々としていた。


「ちなみに、その月から侍女たちの間で殿下の人気が上がりました」


「セドリック」


「事実です」


 殿下の顔から血の気が引いていく。


 わたしは、恥ずかしさで消えてしまいたかった。

 まさか自分の隠していた言葉が、婚約破棄の場で床に散らばるなんて。


 わたしがリデルとして手紙を書き始めたのは、十歳のときだった。

 王宮図書館には、貴族子女向けの読書会があった。わたしはそこで、まだ婚約者でもなかったレオン殿下を見かけた。


 殿下は本棚の陰で、一冊の戦記を握りしめて泣いていた。

 物語の中で、若い王子が民を救えずに死んだ場面だった。


 誰も殿下が泣いたことに気づかなかった。

 気づいても、王子に涙など似合わないと笑ったかもしれない。


 だからわたしは、手紙を書いた。


『王子様が泣ける国は、きっとまだ優しい国です』


 ただそれだけの手紙だった。

 返事はなかった。

 けれど翌月、王宮図書館の掲示板に短い文が貼られた。


『リデルへ。次は何を読めばいい』


 それが始まりだった。


 わたしは本を読み、感想を書き、時には意見を書いた。

 殿下はそれを読み、政策を学び、人の話を聞くようになった。

 やがてわたしは殿下の婚約者になったけれど、リデルであることは言えなかった。


 婚約者の言葉は、褒めれば媚び、諫めれば出過ぎた真似になる。

 でも、どこの誰とも知れない読書好きの言葉なら、殿下は自由に受け取れる。


 そう思った。

 それが正しかったのか、今は分からない。


「エリス」


 殿下の声は震えていた。


「君が、リデルだったのか」


「……はい」


「なぜ言わなかった」


「殿下が、リデルの言葉を必要としていらしたからです」


「私は君の言葉を必要としていた!」


 初めて聞く、殿下の怒声だった。

 怒っているのに、泣きそうな声だった。


「十年間、私はリデルに支えられてきた。王になるのが怖い夜、誰にも弱音を吐けない朝、何度もあの手紙を読んだ。リデルなら、私を人形扱いしなかった。私の間違いを間違いだと言い、良いところは良いと言ってくれた。私は」


 そこで殿下は言葉を切った。

 周囲の視線が集まっていることに、ようやく気づいたらしい。


 けれど、もう遅かった。


「私は、リデルを愛していた」


 大広間が、完全に静まった。


 わたしは息をするのを忘れた。


 殿下は一歩、こちらへ近づいた。


「そして今、リデルが君だと知った」


「殿下」


「私は、どれほど愚かだったのだろう。君が心を見せなかったのではない。私が、君を見る目を持っていなかった」


 その言葉に、鍵をかけていた感情が軋んだ。


 ずっと、苦しかった。

 殿下がリデルの手紙を大切にしてくれるたび、嬉しかった。

 同じ殿下が婚約者のわたしには礼儀正しく距離を置くたび、寂しかった。

 手紙の中でなら笑わせられるのに、隣に立つとただの完璧な令嬢になってしまう自分が、嫌だった。


「エリス様」


 名を呼んだのは、殿下の隣に立っていた令嬢だった。

 今夜、殿下が新たな愛を見つけたと噂されていた侯爵令嬢、マリアンヌ様。


 彼女は青ざめていたが、意外にもまっすぐ頭を下げた。


「わたくし、殿下から『婚約者とは心が通わない』と伺っておりました。あなた様が殿下を冷たく扱っているのだと、勝手に思い込んでいました。申し訳ありません」


 わたしは首を横に振った。


「あなたを責める資格はありません」


「いいえ。あります」


 マリアンヌ様はきっぱり言った。


「わたくし、殿下のお悩みを聞いている自分に酔っておりました。殿下をお支えしているつもりで、殿下が本当に支えられてきた言葉を確かめもしなかった」


 彼女は殿下に向き直った。


「レオン殿下。あなたが今なさるべきことは、エリス様に許しを請うことです。わたくしの名を使って婚約破棄を美談にすることではありません」


 なんて強い人だろう。


 殿下は唇を噛み、やがて深く頭を下げた。

 王子が、衆人環視の中で。


「エリス・クロフォード。私は君を傷つけた。君の七年を、私の未熟さで踏みにじろうとした。婚約破棄の宣言を撤回させてほしい」


 会場の貴族たちがざわめいた。

 王子の宣言を撤回するなど、前代未聞だ。


 わたしは、床の手紙を見た。

 十年間のわたし。

 言えなかった言葉。

 届いていたのに、届かなかったもの。


「殿下」


「はい」


「撤回は、できません」


 殿下の顔が凍った。


 わたしは続けた。


「一度、王家の名で公に告げられた婚約破棄です。撤回すれば、王家の言葉が軽くなります。クロフォード家も、殿下も、マリアンヌ様も、さらなる噂に巻き込まれます」


「では、私は」


「婚約破棄は成立させましょう」


 胸は痛んだ。

 でも、今この場で必要なのは、痛みを消すことではない。

 これからの道を間違えないことだった。


「その上で、殿下には王太子として、正式にわたしへ求婚していただきます」


 殿下が瞬きをした。


「……求婚?」


「はい。今度は、家同士の取り決めではなく。殿下ご自身の言葉で」


 大広間のどこかで、誰かが小さく笑った。

 それは嘲笑ではなかった。

 息を吹き返したような、あたたかな音だった。


 殿下は手紙の束を胸に抱いた。


「私は、君に求婚する資格があるだろうか」


「今はありません」


 セドリック卿が咳き込んだ。

 マリアンヌ様が口元を押さえた。


 殿下は、少しだけ泣きそうに笑った。


「手厳しい」


「リデルは、いつも手厳しかったでしょう」


「そうだった」


 わたしはようやく、ほんの少し笑えた。


「まずは、婚約破棄の経緯を陛下と王妃殿下にご報告ください。次に、マリアンヌ様の名誉回復を。彼女が殿下の軽率な行動の原因であるように噂されることは、あってはなりません」


「分かった」


「それから、わたしは三か月、クロフォード領へ戻ります」


「三か月」


 殿下の声が小さくなった。


「その間に、殿下がご自身の言葉で手紙を書いてください。王子としてではなく、レオン様として」


 殿下は、手の中の便箋を見つめた。


「返事を、くれるだろうか」


「内容によります」


 今度こそ、会場のあちこちで笑いが起きた。


 不思議だった。

 つい先ほどまで、わたしは捨てられる女だった。

 今は、王子に宿題を出す女になっている。


 けれど多分、これでいい。


 恋は、崖から落ちるように始まるものばかりではない。

 積み上げた手紙の山に、ようやく名前をつける恋もある。


 三か月後。


 クロフォード領の屋敷に、王宮から一通の手紙が届いた。

 差出人は、レオン。

 封蝋は王家の紋章ではなく、殿下が子どもの頃から使っていたという、小さな星の印だった。


 わたしは窓辺で封を切った。


『エリスへ。


 まず、謝罪から始めます。

 私は君を知っているつもりで、何も見ていませんでした。

 君が完璧だったのではなく、私が君に完璧であることしか許していなかったのだと思います。


 この三か月、私は王子としてではなく、ひとりの男として手紙を書く練習をしました。

 難しかった。

 政策報告なら三十枚書けるのに、君に「会いたい」と書くまでに、便箋を十二枚無駄にしました。


 会いたいです。

 君の好きな本を、君の声で聞きたい。

 君が間違っていると思う私を、また叱ってほしい。

 君が笑うところを、王子にふさわしい角度ではなく、君自身の角度で見たい。


 私はリデルを愛していました。

 けれど今は、リデルであり、エリスである君を愛しています。


 もし許されるなら、もう一度、最初から始めさせてください。

 今度は私が、君に手紙を書きます。


 レオン』


 読み終えたとき、便箋に一滴、涙が落ちた。

 王妃教育では、涙の落とし方まで教わらなかった。

 だからこれは、たぶんわたし自身のものだった。


 わたしは新しい便箋を取り出した。

 右下に月桂樹の透かしが入った、あの薄青の便箋を。


『レオン様へ。


 まずは及第点です。

 ただし、「会いたい」を書くのに十二枚は多すぎます。紙は大切にしてください。


 わたしも、会いたいです。


 エリス』


 その手紙を出した一週間後、王太子レオン殿下がクロフォード領を訪れた。

 供は最小限。

 贈り物は宝石でも花束でもなく、わたしが昔すすめた本の初版本と、余白の多い便箋の束だった。


「紙は大切に、と言われたので」


 殿下は少し照れたように笑った。


「最初から、君に添削してもらうつもりで持ってきた」


 わたしは本を受け取り、便箋を見て、そして彼を見た。


 以前のわたしなら、王子にふさわしい微笑みを返しただろう。

 でも今日は違う。


「では、一通目から拝見します」


「今ここで?」


「はい。求婚の練習なのでしょう」


 レオン様は耳まで赤くなった。

 その顔があまりに珍しくて、わたしは笑ってしまった。


 声を出して。

 少しだけ、涙を混ぜて。

 わたし自身の角度で。


 のちに、わたしたちの婚約は改めて結ばれた。

 夜会での騒動は、貴族たちの間で長く語られたらしい。

 王子が婚約破棄した瞬間、自分の初恋の相手が婚約者だと知った事件。

 そう呼ばれるたび、レオン様は苦い顔をする。


 けれど、わたしは少しだけ気に入っている。


 だってあの夜、わたしは捨てられたのではない。

 わたしの言葉が、わたしのもとへ帰ってきたのだから。


 今日も王宮図書館の奥には、一冊の箱入り本が置かれている。

 中身は本ではなく、王太子夫妻が交わした手紙の束だ。


 表紙には、レオン様の字でこう記されている。


『王とは、知らないことを尋ねられる者。

 夫とは、妻に何度でも恋文を添削される者。』


 わたしはそれを見るたび、赤入れ用の羽根ペンをそっと取り出す。


 愛されたいなら、まず相手の仕事を軽んじないこと。

 そして愛し続けたいなら、相手の言葉を、何度でも読み直すこと。


 わたしたちの恋は、今日も余白から始まっている。

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