婚約破棄された瞬間、王子の愛読書が全部わたしの手紙だと判明しました
短編完結です。すれ違い回収と静かな逆転の恋をお楽しみください。
卒業夜会の大広間で、第一王子レオン殿下はわたしに向かって、よく通る声で言った。
「エリス・クロフォード。君との婚約を、ここに破棄する」
銀の燭台が揺れたわけでも、楽団が音を外したわけでもない。
けれど、その瞬間、大広間の空気だけがぱきりと薄い硝子のように割れた。
わたしは伯爵家の長女で、殿下の婚約者で、そして今この場で、王家に捨てられる女になった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
自分でも意外なほど、声は乱れなかった。
十三歳から七年間、王妃教育で教えられたことは多い。礼儀作法、外交史、領地財政、祝宴で微笑む角度。
そのどれよりも役に立ったのは、胸を刺されたときでも背筋を折らない方法だったのだと思う。
レオン殿下は美しい方だった。
夜会服の白が似合い、金の髪は燭光を含んでやわらかく光り、瞳は王家に伝わる湖の青をしている。
その青が、いまはわたしを見ていなかった。
「君とは、心が通わなかった」
会場のどこかで誰かが息を飲んだ。
「君は完璧だ。完璧すぎる。私が何を言っても、君は正しい返事しかしない。私が笑っても、君は王子にふさわしい微笑みを返すだけだ」
「……それが婚約者の務めだと教わりました」
「そうだろう。だが私は、務めで隣に立つ人形を妻にしたいわけではない」
人形。
その言葉は、思っていたより深く入ってきた。
けれど、ここで泣けば、クロフォード家は王家に恨みを抱いたと噂される。
怒れば、醜聞になる。
だからわたしは、感情に鍵をかけた。
「殿下のお心は承りました」
頭を下げようとした、そのとき。
「殿下! お待ちください!」
大広間の扉が乱暴に開いた。
飛び込んできたのは、殿下の側近であるセドリック卿だった。普段は冷静で、眼鏡の位置すら乱さない方なのに、今日は息を切らし、両腕に大きな木箱を抱えている。
「セドリック、何事だ。今は」
「今だからです! これをお確かめください!」
セドリック卿は殿下の前で膝をつき、箱を差し出した。
ところが、よほど急いでいたのだろう。箱の留め具が外れ、中身が床へばさばさと落ちた。
本。
便箋。
栞。
そして、封を切られた手紙の束。
わたしの指先が冷えた。
見覚えがあった。
薄青の便箋。右下にだけ小さく押した、月桂樹の透かし。
宛名はいつも、「王宮図書館 夜番司書様」。
差出人は、リデル。
わたしが十年間、誰にも告げずに使ってきた筆名だった。
「……なぜ、それが」
思わず漏れた声は小さかったのに、殿下は振り返った。
「今、何と言った」
青い瞳が、初めてわたしを真正面から見た。
セドリック卿が床の手紙を拾い上げる。
「殿下が十年間、大切に読んでこられたリデル様からの書簡です。先ほど、王宮図書館の旧書庫整理中に差出人の記録が見つかりました。筆跡照合も済んでおります」
「筆跡照合?」
「はい。リデル様は、クロフォード伯爵令嬢エリス様です」
ざわめきが大広間を満たした。
レオン殿下は、床に落ちた便箋を一枚拾った。
わたしはその文面を覚えている。
十五歳の春に書いたものだ。
『王とは、すべてを知る者ではなく、知らないことを恥じずに尋ねられる者だと思います』
殿下の喉が上下した。
「これは……」
「『北方飢饉の記録』への感想として、殿下が三日眠れなくなった手紙です」
セドリック卿は容赦がなかった。
「殿下はこの手紙を読んだ翌日、農政院の備蓄帳簿を取り寄せました。翌月には北方三州の穀物倉庫の修繕予算が通っています」
会場がさらに騒がしくなる。
北方三州の修繕は、若き王太子の英断として評判になった政策だった。
殿下は二枚目を拾った。
『愛されたいなら、まず相手の仕事を軽んじないことです。花を贈るより、相手が眠れる夜を作ることのほうが、愛に近い日もあります』
十六歳の冬。
王宮侍女の過重労働について匿名で相談を受け、わたしが図書館へ送った手紙だ。
「それを読まれたあと、殿下は宮廷勤務表を改められました」
セドリック卿の声は淡々としていた。
「ちなみに、その月から侍女たちの間で殿下の人気が上がりました」
「セドリック」
「事実です」
殿下の顔から血の気が引いていく。
わたしは、恥ずかしさで消えてしまいたかった。
まさか自分の隠していた言葉が、婚約破棄の場で床に散らばるなんて。
わたしがリデルとして手紙を書き始めたのは、十歳のときだった。
王宮図書館には、貴族子女向けの読書会があった。わたしはそこで、まだ婚約者でもなかったレオン殿下を見かけた。
殿下は本棚の陰で、一冊の戦記を握りしめて泣いていた。
物語の中で、若い王子が民を救えずに死んだ場面だった。
誰も殿下が泣いたことに気づかなかった。
気づいても、王子に涙など似合わないと笑ったかもしれない。
だからわたしは、手紙を書いた。
『王子様が泣ける国は、きっとまだ優しい国です』
ただそれだけの手紙だった。
返事はなかった。
けれど翌月、王宮図書館の掲示板に短い文が貼られた。
『リデルへ。次は何を読めばいい』
それが始まりだった。
わたしは本を読み、感想を書き、時には意見を書いた。
殿下はそれを読み、政策を学び、人の話を聞くようになった。
やがてわたしは殿下の婚約者になったけれど、リデルであることは言えなかった。
婚約者の言葉は、褒めれば媚び、諫めれば出過ぎた真似になる。
でも、どこの誰とも知れない読書好きの言葉なら、殿下は自由に受け取れる。
そう思った。
それが正しかったのか、今は分からない。
「エリス」
殿下の声は震えていた。
「君が、リデルだったのか」
「……はい」
「なぜ言わなかった」
「殿下が、リデルの言葉を必要としていらしたからです」
「私は君の言葉を必要としていた!」
初めて聞く、殿下の怒声だった。
怒っているのに、泣きそうな声だった。
「十年間、私はリデルに支えられてきた。王になるのが怖い夜、誰にも弱音を吐けない朝、何度もあの手紙を読んだ。リデルなら、私を人形扱いしなかった。私の間違いを間違いだと言い、良いところは良いと言ってくれた。私は」
そこで殿下は言葉を切った。
周囲の視線が集まっていることに、ようやく気づいたらしい。
けれど、もう遅かった。
「私は、リデルを愛していた」
大広間が、完全に静まった。
わたしは息をするのを忘れた。
殿下は一歩、こちらへ近づいた。
「そして今、リデルが君だと知った」
「殿下」
「私は、どれほど愚かだったのだろう。君が心を見せなかったのではない。私が、君を見る目を持っていなかった」
その言葉に、鍵をかけていた感情が軋んだ。
ずっと、苦しかった。
殿下がリデルの手紙を大切にしてくれるたび、嬉しかった。
同じ殿下が婚約者のわたしには礼儀正しく距離を置くたび、寂しかった。
手紙の中でなら笑わせられるのに、隣に立つとただの完璧な令嬢になってしまう自分が、嫌だった。
「エリス様」
名を呼んだのは、殿下の隣に立っていた令嬢だった。
今夜、殿下が新たな愛を見つけたと噂されていた侯爵令嬢、マリアンヌ様。
彼女は青ざめていたが、意外にもまっすぐ頭を下げた。
「わたくし、殿下から『婚約者とは心が通わない』と伺っておりました。あなた様が殿下を冷たく扱っているのだと、勝手に思い込んでいました。申し訳ありません」
わたしは首を横に振った。
「あなたを責める資格はありません」
「いいえ。あります」
マリアンヌ様はきっぱり言った。
「わたくし、殿下のお悩みを聞いている自分に酔っておりました。殿下をお支えしているつもりで、殿下が本当に支えられてきた言葉を確かめもしなかった」
彼女は殿下に向き直った。
「レオン殿下。あなたが今なさるべきことは、エリス様に許しを請うことです。わたくしの名を使って婚約破棄を美談にすることではありません」
なんて強い人だろう。
殿下は唇を噛み、やがて深く頭を下げた。
王子が、衆人環視の中で。
「エリス・クロフォード。私は君を傷つけた。君の七年を、私の未熟さで踏みにじろうとした。婚約破棄の宣言を撤回させてほしい」
会場の貴族たちがざわめいた。
王子の宣言を撤回するなど、前代未聞だ。
わたしは、床の手紙を見た。
十年間のわたし。
言えなかった言葉。
届いていたのに、届かなかったもの。
「殿下」
「はい」
「撤回は、できません」
殿下の顔が凍った。
わたしは続けた。
「一度、王家の名で公に告げられた婚約破棄です。撤回すれば、王家の言葉が軽くなります。クロフォード家も、殿下も、マリアンヌ様も、さらなる噂に巻き込まれます」
「では、私は」
「婚約破棄は成立させましょう」
胸は痛んだ。
でも、今この場で必要なのは、痛みを消すことではない。
これからの道を間違えないことだった。
「その上で、殿下には王太子として、正式にわたしへ求婚していただきます」
殿下が瞬きをした。
「……求婚?」
「はい。今度は、家同士の取り決めではなく。殿下ご自身の言葉で」
大広間のどこかで、誰かが小さく笑った。
それは嘲笑ではなかった。
息を吹き返したような、あたたかな音だった。
殿下は手紙の束を胸に抱いた。
「私は、君に求婚する資格があるだろうか」
「今はありません」
セドリック卿が咳き込んだ。
マリアンヌ様が口元を押さえた。
殿下は、少しだけ泣きそうに笑った。
「手厳しい」
「リデルは、いつも手厳しかったでしょう」
「そうだった」
わたしはようやく、ほんの少し笑えた。
「まずは、婚約破棄の経緯を陛下と王妃殿下にご報告ください。次に、マリアンヌ様の名誉回復を。彼女が殿下の軽率な行動の原因であるように噂されることは、あってはなりません」
「分かった」
「それから、わたしは三か月、クロフォード領へ戻ります」
「三か月」
殿下の声が小さくなった。
「その間に、殿下がご自身の言葉で手紙を書いてください。王子としてではなく、レオン様として」
殿下は、手の中の便箋を見つめた。
「返事を、くれるだろうか」
「内容によります」
今度こそ、会場のあちこちで笑いが起きた。
不思議だった。
つい先ほどまで、わたしは捨てられる女だった。
今は、王子に宿題を出す女になっている。
けれど多分、これでいい。
恋は、崖から落ちるように始まるものばかりではない。
積み上げた手紙の山に、ようやく名前をつける恋もある。
三か月後。
クロフォード領の屋敷に、王宮から一通の手紙が届いた。
差出人は、レオン。
封蝋は王家の紋章ではなく、殿下が子どもの頃から使っていたという、小さな星の印だった。
わたしは窓辺で封を切った。
『エリスへ。
まず、謝罪から始めます。
私は君を知っているつもりで、何も見ていませんでした。
君が完璧だったのではなく、私が君に完璧であることしか許していなかったのだと思います。
この三か月、私は王子としてではなく、ひとりの男として手紙を書く練習をしました。
難しかった。
政策報告なら三十枚書けるのに、君に「会いたい」と書くまでに、便箋を十二枚無駄にしました。
会いたいです。
君の好きな本を、君の声で聞きたい。
君が間違っていると思う私を、また叱ってほしい。
君が笑うところを、王子にふさわしい角度ではなく、君自身の角度で見たい。
私はリデルを愛していました。
けれど今は、リデルであり、エリスである君を愛しています。
もし許されるなら、もう一度、最初から始めさせてください。
今度は私が、君に手紙を書きます。
レオン』
読み終えたとき、便箋に一滴、涙が落ちた。
王妃教育では、涙の落とし方まで教わらなかった。
だからこれは、たぶんわたし自身のものだった。
わたしは新しい便箋を取り出した。
右下に月桂樹の透かしが入った、あの薄青の便箋を。
『レオン様へ。
まずは及第点です。
ただし、「会いたい」を書くのに十二枚は多すぎます。紙は大切にしてください。
わたしも、会いたいです。
エリス』
その手紙を出した一週間後、王太子レオン殿下がクロフォード領を訪れた。
供は最小限。
贈り物は宝石でも花束でもなく、わたしが昔すすめた本の初版本と、余白の多い便箋の束だった。
「紙は大切に、と言われたので」
殿下は少し照れたように笑った。
「最初から、君に添削してもらうつもりで持ってきた」
わたしは本を受け取り、便箋を見て、そして彼を見た。
以前のわたしなら、王子にふさわしい微笑みを返しただろう。
でも今日は違う。
「では、一通目から拝見します」
「今ここで?」
「はい。求婚の練習なのでしょう」
レオン様は耳まで赤くなった。
その顔があまりに珍しくて、わたしは笑ってしまった。
声を出して。
少しだけ、涙を混ぜて。
わたし自身の角度で。
のちに、わたしたちの婚約は改めて結ばれた。
夜会での騒動は、貴族たちの間で長く語られたらしい。
王子が婚約破棄した瞬間、自分の初恋の相手が婚約者だと知った事件。
そう呼ばれるたび、レオン様は苦い顔をする。
けれど、わたしは少しだけ気に入っている。
だってあの夜、わたしは捨てられたのではない。
わたしの言葉が、わたしのもとへ帰ってきたのだから。
今日も王宮図書館の奥には、一冊の箱入り本が置かれている。
中身は本ではなく、王太子夫妻が交わした手紙の束だ。
表紙には、レオン様の字でこう記されている。
『王とは、知らないことを尋ねられる者。
夫とは、妻に何度でも恋文を添削される者。』
わたしはそれを見るたび、赤入れ用の羽根ペンをそっと取り出す。
愛されたいなら、まず相手の仕事を軽んじないこと。
そして愛し続けたいなら、相手の言葉を、何度でも読み直すこと。
わたしたちの恋は、今日も余白から始まっている。
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