表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

選定名鑑の私の欄だけ空白でしたので、辞退届を置いて参ります

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/11

選定名鑑が届いたのは、薔薇が咲く少し前のことだった。


 王妃候補12名の名前、家柄、功績、人柄——そのすべてが美しい装丁の冊子にまとめられている。

 私はそれを受け取り、自分の頁を開いた。


 空白だった。


 名前と家名だけが印字され、その下には何も書かれていない。他の候補の頁には、学術の才だの社交の華だの、時に3行にもわたる賛辞が並んでいるというのに。

 リーゼル・ヴェルフェン伯爵令嬢。たったそれだけ。

 余白が、静かにこちらを見ていた。


「——そう」


 声は震えなかった。

 むしろ、腑に落ちた。

 12名の候補に選ばれたこと自体が手違いだったのだ、きっと。宮廷の茶会で私の名前を覚えている人間は片手で足りる。王妃選定の場に立ったところで、空白のまま終わるのは自然なことだった。


 私は名鑑を閉じ、机に向かった。

 辞退届を書こう。

 その一念だけが、驚くほど鮮明だった。



 ◇



 問題が一つあった。

 王妃候補の辞退届という書式が、宮廷の公文書目録に存在しなかった。


「……ないのか」


 目録を3度めくり直し、索引も引いた。任命辞退、叙勲返上、婚約解消——近しい書式はいくつもあるのに、「王妃候補辞退届」だけがない。

 前例がないのだろう。辞退する人間がいなかったのだ。

 当然だ。王妃になれる機会を自ら手放す令嬢など、普通はいない。


「……仕方ありません」


 私は白紙を取り出し、罫線を定規で引き始めた。

 提出先、日付欄、候補番号、辞退理由記入欄、署名欄。

 宮廷書式の様式に合わせて余白を上2センチ、左3センチ。文字の大きさは本文12級、見出し16級。

 我ながら、こういうときに書式から整え始める自分はどうかしていると思う。


「お嬢様」


 侍女のマルタが部屋に入ってきて、机の上を覗き込んだ。


「……辞退届ですか」

「ええ」

「書式から作ってらっしゃるんですか」

「宮廷に前例がなかったので」

「お嬢様の辞退届、字が綺麗すぎて逆に怖いです」

「読みやすさは礼儀です」


 マルタが微妙な顔をした。泣きたいのか笑いたいのか、判断がつかない表情だった。

 私は気にせず、署名欄の位置を微調整した。右端から4センチ——いや、3.8センチのほうが収まりがいい。


「お嬢様」

「はい」

「名鑑の空白は、ひどいと思います」


 マルタの声が小さく震えていた。

 私は罫線を引く手を止めず、答えた。


「書くことがなかったのでしょう。私には、特筆すべき才能がありませんから」

「そんなことは——」

「マルタ。インクが乾くまで静かにしてください」


 マルタは口を閉じた。

 けれど目が赤かった。



 ◇



 翌朝、辞退届を持って王城に向かった。


 提出先は選定事務局。王太子殿下の直轄部署で、名鑑の編纂もここが担当している。

 廊下を歩いていると、すれ違う候補たちの視線が通り抜けていく。私の顔を見ても、誰も表情を変えない。名前を知らないのだ。


「あら」


 セレーナ・ノルトハイム公爵令嬢が、侍女たちを従えて向こうから歩いてきた。名鑑で最も長い賛辞を受けた候補。金の巻き毛と、どこまでも自信に満ちた微笑み。


「ごきげんよう、えーと……」


 彼女は私の顔を見て、名前を思い出そうとした。3秒ほど考えて、諦めた。


「……ごきげんよう」


 それだけ言って通り過ぎていった。

 名前が出てこないことを恥じる素振りもなかった。悪意ではない。私が、本当に透明なのだ。


 選定事務局の扉を叩いた。

 応対に出たのは、若い書記官だった。


「王妃候補辞退届を提出に参りました」

「……辞退届?」


 書記官が困惑した顔をした。


「前例がございませんので、書式は自作いたしました。宮廷公文書の様式に準拠しております」


 辞退届を差し出すと、書記官はそれを受け取り、まじまじと見つめた。


「……様式が完璧すぎて、逆に受理していいのか迷います」

「受理してください」


 書記官が奥に走っていった。

 私は廊下で待った。


 5分、10分。

 待つことには慣れている。茶会で話し相手がいない時間、宴席で名前を呼ばれない時間、候補として存在しながら誰の目にも映らない時間。

 待つことだけは、得意だった。


 足音がした。

 書記官が戻ってきた——のではなかった。


 足音は一人分。だが、廊下の空気が変わった。

 振り返ると、長身の男が立っていた。

 銀灰色の髪。切れ長の目。選定名鑑の表紙に名前が刻まれた人物。


 クラウス・レーヴェンハルト王太子殿下。


 その手に、私の辞退届があった。


「リーゼル・ヴェルフェン」


 名前を呼ばれた。

 候補になって以来、王太子に名前を呼ばれたのは初めてだった。


「これは受理できない」


「……理由をお聞かせいただけますか」


「書式に不備がある」


 私は目を瞬いた。書式には自信があった。余白も級数も、署名欄の位置も——


「署名欄が2ミリ右にずれている」


 ……嘘だ。

 いや。私は昨夜、2ミリのズレに気づいて書き直した。書き直したはずだ。

 もしかして、書き直す前の版を持ってきてしまったのか。


 背中に冷や汗が流れた。

 書類のミスほど恥ずかしいことはない。しかも、よりにもよって王太子に見破られた。


「……失礼いたしました。修正して再提出いたします」

「再提出も受理しない」


 王太子の声は平坦だった。

 感情が読めない。怒っているのか、呆れているのか。


「殿下。辞退の意思は変わりません」

「理由を聞かせてほしい」

「名鑑をご覧になったでしょう。私の欄は空白です。候補としての資質がないということです」


 王太子が、一瞬だけ目を伏せた。


「あれは——」

「お気遣いは不要です。事実を受け止めただけですので」


 静かに言い切った。

 王太子の表情が、かすかに歪んだ。苦しそうだった。

 苦しむ理由がわからない。


「……名鑑の編纂は、私が直接行った」


 知っている。選定事務局の直轄業務だ。


「各候補の賛辞も、すべて私が書いた」


 それも知っている。だからこそ、空白の意味は明白だ。


「リーゼル。あの空白は、書くことがなかったのではない」


 王太子が、一歩近づいた。


「書けなかったのだ」


「……意味がわかりません」


「他の候補には、1行か2行の賛辞で足りた。学術の才、社交の華、家柄の格。端的に表せる美点があった」


 王太子の声が低くなった。


「だが君のことは、1行では書けなかった」


 足が止まった。


「候補の資料を集めていた時、一つ気づいたことがあった。他の候補が提出した書類——自己推薦状、家系証明、儀礼報告書。その多くに、君の筆跡による修正が入っていた」


 ……それは。

 私が手伝っただけだ。書式がわからないと困っている候補がいたから、余白の取り方や署名の位置を教え、時には下書きを代筆した。誰に頼まれたわけでもない。書類が整っていないと気持ちが悪いから、ただそうしただけだ。


「セレーナ・ノルトハイムの自己推薦状。あの完璧な書式は、君が下書きを作ったものだろう」


 否定できなかった。


「書式を整え、他の候補を支え、自分は何も残さなかった。推薦状も自己紹介文も、君だけが最低限の提出物しか出していなかった」


「……必要最低限で十分と判断しましたので」


「私は、必要最低限の君しか見ていなかった。名鑑を編纂していて、初めて気づいた。君という人間を、1行では書けない。2行でも3行でも足りない」


 王太子が、名鑑を取り出した。

 私の頁を開いた。


 空白だった欄に、1行だけ、新しいインクで書き足されていた。


 筆跡は王太子のものだった。


「——この人を、私の隣に」


 目の前が、滲んだ。


「名鑑の余白は、空白ではなかった」


 王太子が言った。


「あれは、私がまだ書いている途中だったのだ。君のことを、どう書けば正しいのか、ずっと考えていた」


「……そんな」


「辞退届の書式を自分で作るような人間を、私は他に知らない」


 その声に、かすかな笑みが混じった。


「罫線を定規で引いて、余白を2センチに揃えて、署名欄の位置を3.8センチに設定する候補を。——君が透明だったことは一度もない。私の目には、最初から映っていた」


 涙が一筋、頬を落ちた。

 拭おうとして、手が止まった。


「……殿下」

「なんだ」

「辞退届は——」

「受理しない。何度持ってきても、受理しない」


 王太子が辞退届を二つに折った。私が丹精込めて罫線を引いた辞退届を、躊躇なく折った。


「——書類を雑に扱わないでください」


 思わず言ってしまった。

 王太子が、今度こそはっきり笑った。


「直して持ってくるなら、今度は2ミリずらさないでくれ。修正に気づいてしまうと、また返却する理由ができてしまう」


「……最初から返却する気だったんですか」

「最初から受理する気がなかった。正確に言えば——」


 王太子が、折った辞退届を私に返した。


「君が持ってくるのを、待っていた。名鑑を見て、ただ黙って去る人間ではないと思っていた。書類で反論してくる人間だと」


「書類以外の反論手段を知らないだけです」


「それが君だ」



 ◇



 翌週、選定名鑑の改訂版が全候補に届いた。

 私の欄は、もう空白ではなかった。


 ただし、他の候補のような賛辞ではなかった。

 たった一文。


『本名鑑の書式・余白・罫線の規格は、すべて第7候補リーゼル・ヴェルフェンの助言による。本冊子を手に取ったすべての者は、既に彼女の仕事に触れている』


 セレーナ・ノルトハイム公爵令嬢が、改訂版を読んで顔色を変えたと聞いた。

 自己推薦状の書式が誰の手によるものかを、初めて知ったからだ。


 他の候補たちも、同じだった。

 提出書類を手伝ってもらったこと、書式を教わったこと、下書きを直してもらったこと。それらがすべて一人の令嬢の手によるものだったと——名鑑の一文が、静かに暴いた。


 宮廷は少しだけ騒がしくなった。

 けれどそれは断罪ではなかった。

 誰も罰されていない。ただ、透明だった人間の輪郭が浮かび上がっただけだ。


 セレーナが私のもとを訪れたのは、その日の夕方だった。


「……あなた、名前」

「リーゼルです」

「リーゼル。——ごめんなさい。覚えます」


 それだけ言って、頭を下げて去っていった。

 悪意のない人だった。最初から。ただ、見えていなかっただけだ。



 ◇



 夜、マルタが泣いた。


「お嬢様の欄が埋まりました」

「一文だけですけどね」

「一文でも、お嬢様の仕事が書いてあります。——ずっと見ていた方がいたんです」


 マルタが鼻を赤くして、ぐすぐす言った。


「辞退届、結局出さなくてよかったですね」

「……書式に不備があったので」

「嘘です。署名欄の2ミリは、お嬢様がわざと直さなかったんでしょう」


 私はマルタを見た。

 マルタは笑っていた。涙を流しながら。


「……直し忘れただけです」

「嘘つき」


 嘘だった。

 署名欄の2ミリを、私は直さなかった。

 直さなかった理由を、まだ自分でもうまく言葉にできない。


 ただ、あの2ミリのズレを見つけてくれる人がいるかもしれない——と、どこかで思っていた。


 それは祈りに似ていた。



 ◇



 後日。王太子から、短い手紙が届いた。


『辞退届の書式、宮廷公文書目録に正式登録した。

 今後辞退する候補が出た場合に備えて。

 もっとも、使わせるつもりはないが。

              ——クラウス

 追伸。署名欄は右端から3.8センチで登録しておいた』


 私は手紙を読んで、少しだけ笑った。

 この人は、3.8センチを覚えていた。


 名鑑の空白は、もう怖くない。

 あの余白に、これから何を書いていくのか。


 それを一緒に考えてくれる人がいる。

 署名欄の2ミリに気づいてくれる人が。


 私は便箋を取り出して、返事を書き始めた。

 余白は上2センチ、左3センチ。

 今度は、署名欄をずらさなかった。

【作者から読者様へお願いがあります】


少しでも、


「面白い!」


「続きが気になる!」


と思っていただけましたら、


広告の下↓にある【☆☆☆☆☆】をタップして、


【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!


皆様の応援が、作品を書く最高の原動力になります!


なにとぞ、ご協力よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ