選定名鑑の私の欄だけ空白でしたので、辞退届を置いて参ります
選定名鑑が届いたのは、薔薇が咲く少し前のことだった。
王妃候補12名の名前、家柄、功績、人柄——そのすべてが美しい装丁の冊子にまとめられている。
私はそれを受け取り、自分の頁を開いた。
空白だった。
名前と家名だけが印字され、その下には何も書かれていない。他の候補の頁には、学術の才だの社交の華だの、時に3行にもわたる賛辞が並んでいるというのに。
リーゼル・ヴェルフェン伯爵令嬢。たったそれだけ。
余白が、静かにこちらを見ていた。
「——そう」
声は震えなかった。
むしろ、腑に落ちた。
12名の候補に選ばれたこと自体が手違いだったのだ、きっと。宮廷の茶会で私の名前を覚えている人間は片手で足りる。王妃選定の場に立ったところで、空白のまま終わるのは自然なことだった。
私は名鑑を閉じ、机に向かった。
辞退届を書こう。
その一念だけが、驚くほど鮮明だった。
◇
問題が一つあった。
王妃候補の辞退届という書式が、宮廷の公文書目録に存在しなかった。
「……ないのか」
目録を3度めくり直し、索引も引いた。任命辞退、叙勲返上、婚約解消——近しい書式はいくつもあるのに、「王妃候補辞退届」だけがない。
前例がないのだろう。辞退する人間がいなかったのだ。
当然だ。王妃になれる機会を自ら手放す令嬢など、普通はいない。
「……仕方ありません」
私は白紙を取り出し、罫線を定規で引き始めた。
提出先、日付欄、候補番号、辞退理由記入欄、署名欄。
宮廷書式の様式に合わせて余白を上2センチ、左3センチ。文字の大きさは本文12級、見出し16級。
我ながら、こういうときに書式から整え始める自分はどうかしていると思う。
「お嬢様」
侍女のマルタが部屋に入ってきて、机の上を覗き込んだ。
「……辞退届ですか」
「ええ」
「書式から作ってらっしゃるんですか」
「宮廷に前例がなかったので」
「お嬢様の辞退届、字が綺麗すぎて逆に怖いです」
「読みやすさは礼儀です」
マルタが微妙な顔をした。泣きたいのか笑いたいのか、判断がつかない表情だった。
私は気にせず、署名欄の位置を微調整した。右端から4センチ——いや、3.8センチのほうが収まりがいい。
「お嬢様」
「はい」
「名鑑の空白は、ひどいと思います」
マルタの声が小さく震えていた。
私は罫線を引く手を止めず、答えた。
「書くことがなかったのでしょう。私には、特筆すべき才能がありませんから」
「そんなことは——」
「マルタ。インクが乾くまで静かにしてください」
マルタは口を閉じた。
けれど目が赤かった。
◇
翌朝、辞退届を持って王城に向かった。
提出先は選定事務局。王太子殿下の直轄部署で、名鑑の編纂もここが担当している。
廊下を歩いていると、すれ違う候補たちの視線が通り抜けていく。私の顔を見ても、誰も表情を変えない。名前を知らないのだ。
「あら」
セレーナ・ノルトハイム公爵令嬢が、侍女たちを従えて向こうから歩いてきた。名鑑で最も長い賛辞を受けた候補。金の巻き毛と、どこまでも自信に満ちた微笑み。
「ごきげんよう、えーと……」
彼女は私の顔を見て、名前を思い出そうとした。3秒ほど考えて、諦めた。
「……ごきげんよう」
それだけ言って通り過ぎていった。
名前が出てこないことを恥じる素振りもなかった。悪意ではない。私が、本当に透明なのだ。
選定事務局の扉を叩いた。
応対に出たのは、若い書記官だった。
「王妃候補辞退届を提出に参りました」
「……辞退届?」
書記官が困惑した顔をした。
「前例がございませんので、書式は自作いたしました。宮廷公文書の様式に準拠しております」
辞退届を差し出すと、書記官はそれを受け取り、まじまじと見つめた。
「……様式が完璧すぎて、逆に受理していいのか迷います」
「受理してください」
書記官が奥に走っていった。
私は廊下で待った。
5分、10分。
待つことには慣れている。茶会で話し相手がいない時間、宴席で名前を呼ばれない時間、候補として存在しながら誰の目にも映らない時間。
待つことだけは、得意だった。
足音がした。
書記官が戻ってきた——のではなかった。
足音は一人分。だが、廊下の空気が変わった。
振り返ると、長身の男が立っていた。
銀灰色の髪。切れ長の目。選定名鑑の表紙に名前が刻まれた人物。
クラウス・レーヴェンハルト王太子殿下。
その手に、私の辞退届があった。
「リーゼル・ヴェルフェン」
名前を呼ばれた。
候補になって以来、王太子に名前を呼ばれたのは初めてだった。
「これは受理できない」
「……理由をお聞かせいただけますか」
「書式に不備がある」
私は目を瞬いた。書式には自信があった。余白も級数も、署名欄の位置も——
「署名欄が2ミリ右にずれている」
……嘘だ。
いや。私は昨夜、2ミリのズレに気づいて書き直した。書き直したはずだ。
もしかして、書き直す前の版を持ってきてしまったのか。
背中に冷や汗が流れた。
書類のミスほど恥ずかしいことはない。しかも、よりにもよって王太子に見破られた。
「……失礼いたしました。修正して再提出いたします」
「再提出も受理しない」
王太子の声は平坦だった。
感情が読めない。怒っているのか、呆れているのか。
「殿下。辞退の意思は変わりません」
「理由を聞かせてほしい」
「名鑑をご覧になったでしょう。私の欄は空白です。候補としての資質がないということです」
王太子が、一瞬だけ目を伏せた。
「あれは——」
「お気遣いは不要です。事実を受け止めただけですので」
静かに言い切った。
王太子の表情が、かすかに歪んだ。苦しそうだった。
苦しむ理由がわからない。
「……名鑑の編纂は、私が直接行った」
知っている。選定事務局の直轄業務だ。
「各候補の賛辞も、すべて私が書いた」
それも知っている。だからこそ、空白の意味は明白だ。
「リーゼル。あの空白は、書くことがなかったのではない」
王太子が、一歩近づいた。
「書けなかったのだ」
「……意味がわかりません」
「他の候補には、1行か2行の賛辞で足りた。学術の才、社交の華、家柄の格。端的に表せる美点があった」
王太子の声が低くなった。
「だが君のことは、1行では書けなかった」
足が止まった。
「候補の資料を集めていた時、一つ気づいたことがあった。他の候補が提出した書類——自己推薦状、家系証明、儀礼報告書。その多くに、君の筆跡による修正が入っていた」
……それは。
私が手伝っただけだ。書式がわからないと困っている候補がいたから、余白の取り方や署名の位置を教え、時には下書きを代筆した。誰に頼まれたわけでもない。書類が整っていないと気持ちが悪いから、ただそうしただけだ。
「セレーナ・ノルトハイムの自己推薦状。あの完璧な書式は、君が下書きを作ったものだろう」
否定できなかった。
「書式を整え、他の候補を支え、自分は何も残さなかった。推薦状も自己紹介文も、君だけが最低限の提出物しか出していなかった」
「……必要最低限で十分と判断しましたので」
「私は、必要最低限の君しか見ていなかった。名鑑を編纂していて、初めて気づいた。君という人間を、1行では書けない。2行でも3行でも足りない」
王太子が、名鑑を取り出した。
私の頁を開いた。
空白だった欄に、1行だけ、新しいインクで書き足されていた。
筆跡は王太子のものだった。
「——この人を、私の隣に」
目の前が、滲んだ。
「名鑑の余白は、空白ではなかった」
王太子が言った。
「あれは、私がまだ書いている途中だったのだ。君のことを、どう書けば正しいのか、ずっと考えていた」
「……そんな」
「辞退届の書式を自分で作るような人間を、私は他に知らない」
その声に、かすかな笑みが混じった。
「罫線を定規で引いて、余白を2センチに揃えて、署名欄の位置を3.8センチに設定する候補を。——君が透明だったことは一度もない。私の目には、最初から映っていた」
涙が一筋、頬を落ちた。
拭おうとして、手が止まった。
「……殿下」
「なんだ」
「辞退届は——」
「受理しない。何度持ってきても、受理しない」
王太子が辞退届を二つに折った。私が丹精込めて罫線を引いた辞退届を、躊躇なく折った。
「——書類を雑に扱わないでください」
思わず言ってしまった。
王太子が、今度こそはっきり笑った。
「直して持ってくるなら、今度は2ミリずらさないでくれ。修正に気づいてしまうと、また返却する理由ができてしまう」
「……最初から返却する気だったんですか」
「最初から受理する気がなかった。正確に言えば——」
王太子が、折った辞退届を私に返した。
「君が持ってくるのを、待っていた。名鑑を見て、ただ黙って去る人間ではないと思っていた。書類で反論してくる人間だと」
「書類以外の反論手段を知らないだけです」
「それが君だ」
◇
翌週、選定名鑑の改訂版が全候補に届いた。
私の欄は、もう空白ではなかった。
ただし、他の候補のような賛辞ではなかった。
たった一文。
『本名鑑の書式・余白・罫線の規格は、すべて第7候補リーゼル・ヴェルフェンの助言による。本冊子を手に取ったすべての者は、既に彼女の仕事に触れている』
セレーナ・ノルトハイム公爵令嬢が、改訂版を読んで顔色を変えたと聞いた。
自己推薦状の書式が誰の手によるものかを、初めて知ったからだ。
他の候補たちも、同じだった。
提出書類を手伝ってもらったこと、書式を教わったこと、下書きを直してもらったこと。それらがすべて一人の令嬢の手によるものだったと——名鑑の一文が、静かに暴いた。
宮廷は少しだけ騒がしくなった。
けれどそれは断罪ではなかった。
誰も罰されていない。ただ、透明だった人間の輪郭が浮かび上がっただけだ。
セレーナが私のもとを訪れたのは、その日の夕方だった。
「……あなた、名前」
「リーゼルです」
「リーゼル。——ごめんなさい。覚えます」
それだけ言って、頭を下げて去っていった。
悪意のない人だった。最初から。ただ、見えていなかっただけだ。
◇
夜、マルタが泣いた。
「お嬢様の欄が埋まりました」
「一文だけですけどね」
「一文でも、お嬢様の仕事が書いてあります。——ずっと見ていた方がいたんです」
マルタが鼻を赤くして、ぐすぐす言った。
「辞退届、結局出さなくてよかったですね」
「……書式に不備があったので」
「嘘です。署名欄の2ミリは、お嬢様がわざと直さなかったんでしょう」
私はマルタを見た。
マルタは笑っていた。涙を流しながら。
「……直し忘れただけです」
「嘘つき」
嘘だった。
署名欄の2ミリを、私は直さなかった。
直さなかった理由を、まだ自分でもうまく言葉にできない。
ただ、あの2ミリのズレを見つけてくれる人がいるかもしれない——と、どこかで思っていた。
それは祈りに似ていた。
◇
後日。王太子から、短い手紙が届いた。
『辞退届の書式、宮廷公文書目録に正式登録した。
今後辞退する候補が出た場合に備えて。
もっとも、使わせるつもりはないが。
——クラウス
追伸。署名欄は右端から3.8センチで登録しておいた』
私は手紙を読んで、少しだけ笑った。
この人は、3.8センチを覚えていた。
名鑑の空白は、もう怖くない。
あの余白に、これから何を書いていくのか。
それを一緒に考えてくれる人がいる。
署名欄の2ミリに気づいてくれる人が。
私は便箋を取り出して、返事を書き始めた。
余白は上2センチ、左3センチ。
今度は、署名欄をずらさなかった。
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