第4回 / 自由という名の新世界
第4回 / 自由という名の新世界
「九条先生! 魔王が、魔王が死に際に最悪の禁呪を放ってきました! 役所からの封筒という名の追跡魔法です! 私の新拠点が物理的に割られました!」
私は引っ越したばかりの、まだ家具も揃っていないガランとした部屋で、スマホを握りしめて叫んでいた。
手元にあるのは、届いたあの一通。無機質なフォントで印刷された『扶養照会』という名の、現代日本が生んだ「血縁という名の呪い」だ。
「聖さん、落ち着きなさい。あなたの絶叫で、私の事務所の観葉植物が震えていますよ。それは呪いではなく、ただの『事務的な手続き』です」
スピーカーモードにしたスマホから、九条先生の相変わらず冷徹な、しかしどこか楽しそうな声が響く。
「手続き!? でも、ここには『お母様が生活保護を申請したので、あなたが援助しなさい』って書いてあるんですよ! 居場所を隠して、住民票もロックしたのに、なんで役所から手紙が届くんですか! 役所は魔王軍のスパイなんですか!?」
「いいですか、聖さん。役所はスパイではありません。ただ、彼らは『家族は助け合うもの』という、化石のようなファンタジー設定をシステムに組み込んでいるだけです。あなたがどこに逃げようと、戸籍という名の『血のパスワード』がある限り、行政は機械的にあなたの居場所を照会してくる。……お母様、パチンコ代が尽きて、今度は国家を味方につけてあなたを釣ろうとしたわけですね」
九条先生は、受話器越しに冷たく笑った。
「これは魔王の最後の悪あがき、いわば『自爆魔法』です。自分が働かずに国から金を得るいために、あなたを共倒れにしようとしている。……いいでしょう。ならばこちらも、最終兵器を召喚するしかありませんね。明日、家庭裁判所へ行きますよ」
「家裁……? ドラマでよく見る、あの重厚な場所ですか?」
「そうです。あなたが二十三歳の『成人』である以上、本来は親権の争いなどありません。しかし、この執拗な付き纏いと経済的搾取を断ち切るには、裁判所に『この親子関係は完全に修復不可能であり、扶養の義務すら存在しない』という、公的なジャッジメントを下させるのが最短ルートです。……さあ、チェックメイトの準備をしましょう」
数日後。私は再び、九条先生と合流した。
向かった先は、重々しい石造りの建物——家庭裁判所。そこは、なろう小説で言うところの「聖騎士団の本部」あるいは「審判の門」だった。
「聖、あんた……! よくもそんな冷たい顔をして!」
待合室。そこには、あの日バンに置き去りにされた美代子が、すでに陣取っていた。
彼女は、まるで悲劇のヒロインを演じる三流女優のような顔で、ボロボロのハンカチを握りしめている。その背後には、彼女がどこからか連れてきた「無料相談の、お人好しそうな弁護士」が立っていた。
「親を捨てて、自分だけ新しい部屋でぬくぬく暮らすなんて! 私はね、あんたを育てるために、どれだけ……どれだけパチンコ台のハンドルを握りしめて、指が腱鞘炎になったと思ってるのよ!」
「お母さん、その苦労、百パーセント自分のためだよね?」
私は、九条先生から伝授された「鉄の心」というパッシブスキルを発動させた。もう、彼女の泣き落としという名の精神攻撃は効かない。
「静かに。ここは魔王城のリビングではありませんよ、お母様」
九条先生が、一歩前に出た。彼は懐から、鈍器のような厚みの『六法全書』を取り出す……ことはせず、代わりに一枚の、膨大なデータが書き込まれたタブレットを提示した。
「本日、我々が家庭裁判所に求めるのは、単なる話し合いではありません。申立人・佐藤聖に対する、相手方・佐藤美代子の『扶養義務の免除』を求める審判です。……裁判官、および調査官の方。こちらが、相手方による十数年にわたる虐待の証拠、および直近三年間で申立人の口座から不当に引き出された、総額四百万の明細データです」
審判室の重い扉が開く。
そこには、裁判官という名の「審判の賢者」が座っていた。
「……相手方の主張を伺います。佐藤美代子さん、あなたは娘さんに、月々いくらの援助を求めているのですか?」
裁判官が、無機質なトーンで尋ねる。美代子は待ってましたとばかりに、大声で吠えた。
「十万です! いや、十五万! 親をこんなに苦しめたんだから、当然の報い……じゃなくて、子供の義務でしょ!」
「……九条先生、これ、法的にはどうなるんですか?」
私が小声で尋ねると、九条先生は不敵な笑みを浮かべて囁き返した。
「典型的な『強欲な壺』ですね。自分の首を絞めていることに気づいていない。……裁判官、申立人は現在、手取り十八万で自立を目指しています。ここに十五万の扶養義務を課すことは、申立人の生存権を著しく侵害するものであり、法的にも人道的にも看過できません。何より、相手方にはパチンコという浪費癖があり、援助した資金が生存のために使われる保証が皆無です」
九条先生が、証拠書類を次々とテーブルに叩きつける。
「空になった通帳のコピー。証言を得た、お母様のパチンコ屋での目撃情報。役所への虚偽申告の疑い。……これらすべてが、彼女の『親としての資格の喪失』を証明しています」
裁判官が、じっと資料を見つめる。
美代子は「嘘よ!」「捏造よ!」と叫び続けたが、調査官という名の「真実を暴く者」が、冷たく言い放った。
「美代子さん、調査の結果、あなたの主張には多くの矛盾が見つかりました。生活保護の申請も、娘さんの居場所を突き止めるための偽装に近い形跡があります。……裁判官、私の意見としては、申立人に扶養能力はなく、かつ、相手方による虐待の事実を重く見るべきだと判断します」
「……審判を下します」
裁判官が、ペンを置いた。
「相手方・美代子による扶養請求を棄却する。また、過去の虐待の経緯に鑑み、申立人・聖に対し、相手方への扶養義務を一切免除する。今後、本件に関連して申立人に接触を試みることは、裁判所に対する不敬とみなし、強力な法的措置を講じることとする」
ガラン、と。
私の心の中で、二十三年分溜まっていた「重り」が外れる音がした。
「な……なによそれ! 裁判所もグルなの!? 私の金づる……じゃなかった、私の聖を返してよ!」
美代子の絶叫。だが、係官という名の「ガーディアン」たちが、彼女の腕を掴み、強制的に退室させる。
彼女の姿が消えた瞬間、審判室には、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
「……終わりましたね、聖さん」
九条先生が、珍しく優しく微笑んだ。
「扶養照会も、生活保護の揺さぶりも、すべてこれで無効化されました。役所には私からこの審判書を送りつけておきます。もう、あの封筒があなたのポストに届くことはありません。あなたは今日、本当の意味で『一人の国民』として独立したんです」
家裁を出ると、空は抜けるように青かった。
私は新居へ戻り、近くのスーパーで「半額ではない」ショートケーキを買った。
自分の給料で、自分のために。
部屋に入り、鍵をかける。
かつての魔王城の、ベニヤ板一枚の聖域ではない。ここは、法という名の絶対防御魔法で守られた、私だけの城だ。
「……いただきます」
一口食べたケーキは、驚くほど甘くて、少しだけしょっぱかった。
二十三年間、奪われ続けてきた。
でも、これからは、積み上げていける。
私はスマホを取り出し、連絡先の「魔王(母)」の項目を削除した。
それから、九条先生の番号を「最強の賢者」と書き換える。
手元に残ったのは、残高が四百円ではなく、自分の力で勝ち取った「十八万四千円」の通帳。
異世界転生も、聖剣もなかった。
でも、私には法律という武器があった。
私は、窓を大きく開けた。
新しい街の風が、私の頬を撫でる。
——チェックメイト。
虐待サバイバー、佐藤聖の「人生を取り戻すクエスト」。
第一部、完。




