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第3回 / 魔王城脱出、防壁の展開

「準備はいいですか。聖域への転移門ハイエースが到着しました」


 午前六時。まだ街が深い眠りと薄明の境界線に微睡んでいる頃、私のスマホに後藤さんからの「宣戦布告」が届いた。


 私は音を立てないようにベッドから抜け出し、昨日パッキングした「初期装備」のリュックを背負った。中身は通帳、印鑑、保険証、そして数日分の下着。勇者の旅立ちにしてはあまりに生活感に溢れているが、今の私にとっては聖剣エクスカリバーよりも、この茶色の通帳の方がはるかに重い。


 部屋のドアをミリ単位の慎重さで開ける。廊下には魔王(母)の、地響きのような、あるいは地獄の門番の唸り声のような不快な寝息が響いていた。


 リビングを横切る。昨夜、彼女が飲み散らかしたストロング系の空き缶が、まるで地雷のように床に転がっている。これを踏めば警報が鳴り響き、私は再び「罪悪感」という名の呪縛魔法で身動きを封じられるだろう。


 慎重に、かつ大胆に。私は玄関の鍵を回した。


「……あ」


 背後で、寝息が止まった。


「……聖? あんた、こんな朝早くにどこ行くのよ」


 魔王が、のっそりと起き上がった。その目はまだ濁っており、寝癖で爆発した髪はメドゥーサの蛇のようだ。


「……散歩。ちょっと、空気を吸いに」


「散歩? そんな大きなリュック背負って? ……まさか、またあの『一人暮らし』の妄想? いい加減にしなさいよ。あんたみたいな社会のゴミが、お母さん抜きで生きていけるわけないでしょ。ほら、リュックを下ろして。今日の朝ごはんは納豆を練るって約束……」


 魔王の手が、私の肩に伸びる。その瞬間、私はドアを蹴破るようにして外へ飛び出した。


「ちょっ……待ち……!」


 階段を駆け下りる。背後から「この親不孝者が!」「警察を呼ぶわよ!」という、もはや聞き飽きたテンプレ台詞が降ってくる。警察を呼んでほしいのはこちらの方だ。


 アパートの前に、真っ白なバンが停まっていた。その横には、スーツ姿の後藤さんと、そして——。


「おはようございます、聖さん。予定通りですね」


 後藤さんの隣には、制服を着た二人の警察官が立っていた。これぞ、現代日本における最強の「聖騎士団」召喚である。


「待ちなさぁい……! あ、警察の方、この子が、この子が……!」


 追いかけてきた美代子が、警察官の姿を見て一瞬だけ勝ち誇ったような顔をした。「警察は親の味方」という、昭和から続く古いバグを彼女はまだ信じているのだ。


 だが、一人の警察官が、一歩前に出て手を制した。


「お母さん。落ち着いてください。私たちはワーカーの後藤さんからお話を聞いて待機していました。佐藤聖さんは成人しており、自らの意志で転居する権利があります。あなたの今の行為は、場合によっては『拉致監禁』や『強要』に当たる可能性がありますよ」


 警察官のトーンは、驚くほど平坦で、冷たかった。それは感情という魔力が一切通用しない、法の壁そのものだった。


「……は? 何言ってるの? この子は私の子供なのよ! 私の所有物なの! それをあんたたちが勝手に……!」


「『所有物』、ですか。その言葉、後で調書に使えるのでメモしておきますね」


 バンの影から、死神のような笑みを浮かべた九条先生がひょっこりと顔を出した。なぜこの弁護士、朝六時からこんなに絶好調なんだ。


「九条先生!?」


「やあ、聖さん。魔王の断末魔を聞きにきました。……さて、お母様。私は彼女の代理人弁護士、九条です。今後、彼女への接触、電話、手紙、伝書鳩、念話に至るまで、すべて私を通してください。直接連絡を試みた場合、即座に接近禁止命令の申し立てを行い、必要であれば損害賠償請求のクエストを開始します」


 九条先生が、一枚の書面を美代子の鼻先に突きつけた。『受任通知』。それは、親子の縁という幻想を、法律という現実で上書きする上級呪文だ。


「な……なんなのよこれ! あんたたち、私をいじめて楽しいの!? 聖、言いなさい! お母さんがいなきゃ、あんたは餓死するって!」


 美代子の叫びは、もはや悲鳴に近かった。だが、不思議だ。あんなに恐ろしかった彼女の顔が、今はただの、状況を理解できない「可哀想なモブキャラ」にしか見えない。


「……さようなら、お母さん。私は、私を幸せにするクエストに出発します」


 私はバンのスライドドアを閉めた。

 車が走り出す。サイドミラーに映る美代子の姿が、どんどん小さくなっていく。彼女はまだ何かを叫び、地団駄を踏んでいたが、窓を閉め切った車内には、静寂と、芳香剤の微かな匂いだけが漂っていた。


「……ふぅ。これで第一フェーズ完了ですね。さて、聖さん。休む暇はありませんよ。次は『ダンジョン:市役所』の攻略です」


 九条先生が、タブレットを操作しながら言った。


「市役所、ですか?」


「そうです。魔王の追跡スキルを無効化する最大防御魔法、『住民票の閲覧制限』の手続きです。これをしないと、お母様は役所に行って『娘の新しい住所を教えろ』と申請するだけで、あなたの新拠点を突き止められてしまいます」


 役所。それは、複雑な書類と長い待ち時間というトラップが仕掛けられた、現代の迷宮。

 

 市役所の窓口。担当の職員さんは、私の顔と、佐藤さんが用意した「保護の証明書」を交互に見た。


「……佐藤聖さんですね。閲覧制限の申請、受理します。これで、加害者であるお母様、およびその代理人が、あなたの住民票を取得することはできなくなります。システムの反映には少し時間がかかりますが、今この瞬間から、あなたは透明人間……ステルス状態です」


 職員さんの声は無機質だったが、私にはそれが「セーブポイントに到達しました」というシステムメッセージのように聞こえた。


 さらに、私はもう一つの手続きを行った。

『分籍』。

 戸籍から自分を抜き出し、新しい戸籍を作る。親の戸籍の「子」という欄から消え、自分を筆頭者とする新しい国家(家族)を樹立する。


「これで、紙の上でも私は独立したんだ……」


 新しい戸籍謄本を手にした時、指先が熱くなった。

 

 その後、佐藤さんに連れられて向かったのは、駅から少し離れた場所にある、古びた、しかし清潔なアパートだった。


「ここが、あなたの新しい『拠点シェルター』です。オートロックではありませんが、近隣のパトロールを強化するよう手配済みです。そして……これが、その鍵です」


 掌に載せられた、銀色の小さな鍵。

 それは、魔王の城の鉄格子を破るための道具ではなく、私の自由を開くための聖具だった。


 部屋に入り、一人きりになる。

 家具は何もない。ただ、窓から差し込む午後の光が、フローリングを白く照らしている。

 

 静かだ。

 怒鳴り声も、ビールの缶が転がる音も、私の人格を否定する言葉も、ここには届かない。


 ポケットの中で、スマホが震えた。

 画面を見ると、美代子からのLINEが狂ったように連投されている。


『どこにいるの!』

『警察に捕まりたいの!?』

『あんたがいないと、お母さん死んじゃう!』

『ごめんなさい、悪かったわ。戻ってきて。ねえ、晩ごはん何がいい?』


 脅迫、泣き落とし、そして偽りの懐柔。

 かつての私なら、この「ごめんなさい」の一言で、すべてを許さなければならないという呪いにかかっていただろう。


 だが、今の私には、九条先生から教わった最強の防御魔法がある。


「……ブロック」


 画面を二回タップする。

 それだけで、魔王の呪詛はすべて虚空へと消えた。


 私は、冷たい床に大の字になって寝転んだ。

 天井を見上げる。

 

「……勝った。私、勝ったんだ」


 涙は出なかった。ただ、深い、深い安堵が、全身の筋肉を解きほぐしていくのを感じた。


 翌日。

 私は新しい拠点で、初めての朝を迎えた。

 

 朝食は、昨日買った百円の食パン。

 魔王に献上するための納豆もない。

 

 でも、このパンは、私の四百円から出した、正真正銘「私のもの」だ。

 

 一口噛みしめると、これまでの人生で食べたどんな高級料理(そんなもの食べたことはないが)よりも、甘くて、優しくて、自由の味がした。


 平和だ。

 これで、すべてが終わった。

 これからは、誰に怯えることもなく、自分の給料を自分のために使い、自分の好きな時間に眠り、自分の好きな服を着て生きていける。


 そう確信し、私が窓を開けて新しい街の空気を吸い込んだ、その時。


 郵便受けに、一通の手紙が届いた。

 

 それは役所から送られてきた、無機質で、かつ冷酷な「通知書」だった。


『扶養照会に関する回答について』


 私は、その文字を見た瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。


 住民票を隠し、戸籍を分け、物理的に絶縁してもなお、この国のシステムは、私を逃がそうとはしなかった。

 

 魔王が放った最後の一撃。

 

「生活保護……の、扶養照会……?」


 美代子が、生活保護を申請した。

 そして役所は、法に基づき、親族である私に対し「あなたの親を養う余裕はありませんか?」と問いかけてきたのだ。


 逃げても、隠れても、血の呪いは「税金」と「福祉」という名の手を伸ばして、私の居場所を掴みに来る。


「……ふざけないでよ」


 私は、震える手で九条先生に電話をかけた。


 チェックメイトまで、あと一話。

 魔王の最後の大魔法を、私は「法」でどう打ち破ればいいのか。


 戦いは、まだ終わっていなかった。

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