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第2回 / 召喚、法の賢者と守護騎士



「結論から申し上げます。あなたのお母様が行っている行為は、しつけでも教育でもなく、法的には単なる『窃盗』および『横領』に該当する可能性が極めて高いですね」


 目の前の男……弁護士の九条くじょうは、私の通帳のコピーを人差し指でピシッと弾いた。その音は、静かな相談室の中で、まるで魔王の結界にヒビが入ったかのような小気味いい響きを立てた。


 ここは法テラスの紹介で辿り着いた、雑居ビルの一室。

 三畳ほどの狭い部屋に、最強の賢者 (弁護士)と私、そしてもう一人の「守護騎士ガーディアン」が座っている。


「……横領。でも、親子間だと罪にならないってネットで見たんですけど。親族相盗例……でしたっけ?」


 私がおずおずと口にすると、九条は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、フッと鼻先で笑った。


「聖さん、インターネットの聞きかじりで絶望するのはおやめなさい。それはあくまで『刑罰』の話です。身内同士で警察が立ち入るのを避けるという古いルールの名残に過ぎない。民事、つまり『奪われた金を取り戻す権利』や『不当な支配から脱する権利』は、何ら制限されていません。むしろ、親権という概念を勘違いしているのはお母様の方だ」


 九条は、机の上に置かれた鈍器のような厚みの『六法全書』を、まるで伝説の魔導書を紐解くかのような手つきで開いた。


「民法八百二十条。親権を行う者は、子の監護及び教育に必要な範囲内で、その子を監護し、教育をする権利を有し、義務を負う。……お分かりですか? 親権とは、子供を私物化する特権ではなく、一人の人間として自立させるための『期間限定の管理責任』に過ぎない。成人し、社会人として働いているあなたの口座から、パチンコ代のために二十万を引き出す権利など、この国の法律のどこを探しても一行たりとも書かれていませんよ」


 九条の言葉は、冷徹だが、驚くほど私の心に染み渡った。

 これまで、美代子(魔王)から「産んでやった」「育ててやった」という呪詛を浴びせられるたびに、私の心には『罪悪感』という名のデバフが何重にもかかっていたのだ。


「でも、九条先生。家を出ようとすれば、きっと力ずくで止められます。以前、一人暮らしのチラシを見ていただけで、母は包丁を持ち出して『死んでやる』と叫びました。私は、あの家から逃げてもいいんでしょうか。それは……親不孝にはならないんでしょうか」


 私の指先が、膝の上で細かく震える。

 長年の飼い慣らし(支配)は、理屈だけで解けるほど甘くはない。


 その時、これまで沈黙を守っていた「守護騎士」が動いた。

 九条の隣に座っていた、短髪で屈強な体格の女性、児童相談所から派遣されたケースワーカーの後藤さんだ。彼女は、まるで重戦車のような安心感を持って、私の手の上に自身の温かい手を重ねた。


「聖さん、いいですか。あなたが感じているのは親への愛情ではなく、生存本能による『恐怖』です。親が子供に死をチラつかせて支配するのは、教育ではなく虐待、それも極めて悪質な精神的暴力です。あなたは逃げるのではなく、自分という『国家』の主権を取り戻しに行くんです。そのための盾として、私たちがいます」


 後藤さんの声は、低く、力強かった。

 彼女は、虐待という名の戦場を何度も渡り歩いてきた歴戦の騎士だ。


「……主権の、奪還」


「そうです。後藤さんの言う通り。あなたはまず、一時保護所という名の『聖域』へ転移していただきます。同時に、私からお母様へ『受任通知』を送付します。これ以降、お母様があなたに直接接触しようとすれば、それは法的な手続きを無視した強行軍となり、我々が全力で叩き潰す口実になります」


 九条が、不敵な笑みを浮かべる。

 彼の背後にある六法全書が、神々しい後光を放っているように見えた。


「作戦名は『エクソダス(出実家)』。決行は明日の早朝、魔王がパチンコ疲れで爆睡している隙を狙います。後藤さんがトラックを用意し、警察官が不測の事態に備えて近隣で待機します。あなたは最低限の荷物と、その通帳、印鑑、健康保険証だけを確保してください。それ以外は捨てても構わない。失うもの以上に、得るものの方が大きいんですから」


 トントン拍子に話が進んでいく。

 昨夜まで、私は四百円の残高を見つめて絶望していた。

 それが今、法と行政という名の「最強のパーティー」が私のために編成され、魔王討伐のカウントダウンが始まっている。


「……そんなに、大ごとにしていいんですか? ただの親子の喧嘩だって、誰かに笑われませんか?」


「聖さん、今のあなたの発言を翻訳しましょうか?」


 九条が身を乗り出した。


「『魔王が村を焼いているけれど、これは家庭内の焚き火だから、騎士団を呼ぶのは申し訳ない』と言っているのと同じですよ。滑稽だと思いませんか? 火が放たれたなら、消火器と消防車を呼ぶのは国民の義務であり、権利です」


 九条の毒舌が、私の迷いを切り裂いていく。

 

「……分かりました。私、やります。奪い返したいんです。私の、これからの人生を」


 私がそう告げた瞬間、相談室の空気が変わった。

 九条はペンを走らせ、何枚かの書類を私の前に滑らせる。


「では、受任契約を。費用は法テラスの立て替え制度を利用します。あなたは月々、無理のない範囲で返済していけばいい。……おめでとう、聖さん。今日からあなたは、あなたの人生の『あるじ』です」


 九条の指先が、書類の「依頼人」という欄を指した。

 

 私は、震える手でボールペンを握り、自分の名前を書き込んだ。

 それは、ただの名前ではない。

 魔王の所有物ではない、一人の人間としての「真実の名前」を刻む儀式だ。


「よし。これで契約成立です。さて、後藤さん。騎士団(警察)への根回しと、聖域シェルターの確保、不備はありませんね?」


「万全です。明日の朝六時、指定の地点に白のバンを回します。彼女の荷物一式を積み込んだら、そのまま住民票の閲覧制限の手続きに直行します」


 後藤さんの力強い頷き。

 二人の専門家が、私のために命を吹き込むように動き出す。

 

 帰り際、九条が呼び止めた。


「聖さん、最後に一つ。お母様は明日、きっと泣いて、喚いて、あなたの罪悪感を刺激する言葉を吐くでしょう。『育ててやった恩を忘れたのか』『私を見捨てるのか』とね」


 私は足を止め、振り返った。

 

「その時は、こう答えなさい。『私は恩を忘れたのではなく、あなたが私の未来を奪った事実を、法が記録しただけだ』と。……まぁ、実際にはそんなこと言わずに、無言でバンに乗り込むのが一番スマートですがね」


 九条の皮肉めいたアドバイスに、私は初めて、小さく吹き出した。

 

「……はい。私、一度も振り返らずに、聖域へ行きます」


 外に出ると、夕暮れの空が広がっていた。

 明日の朝になれば、私はこの見慣れた街を、あるいは「家族」という名の概念を、永遠に捨てることになるだろう。


 怖い。

 それでも、胸の奥にある「法」という名の灯火が、私を鼓舞している。


 家に帰ると、美代子がリビングのソファで寝落ちしていた。

 テーブルの上には、空になったビールの缶と、パチンコ屋の景品らしき安っぽいお菓子が散乱している。

 

 かつてはこの姿を見るだけで、私は「お母さんを支えなきゃ」と、強迫観念に似た使命感を抱いていた。

 

 だが、今は違う。

 

 私は静かに、自分の部屋へ入り、クローゼットの奥からリュックを取り出した。

 

 健康保険証、年金手帳、そして残高四百円の通帳。

 これら、私の「命」を、一つずつ丁寧に詰め込んでいく。

 

 魔王の城で、最後の夜を過ごす。

 

 明日。

 私は、私を召喚する。

 

 新しい世界の、一歩先へ。


 だが、この時、私はまだ知らなかった。

 魔王が隠し持っていた「扶養照会」という名の、最後の呪い……、

 そして、この家の奥深くに眠る、さらに根深い「契約」の正体を。


 決行まで、あと六時間。

 静寂を破るのは、美代子の不快な寝息と、私の高鳴る鼓動だけだった。


 チェックメイトまで、あと二話。

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