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第1回 / 魔王の徴税と聖域の喪失



「お前のために、お母さん死ぬ気で貯めたんだからね」


 食卓に置かれたのは、スーパーの半額シールが限界まで重なり、もはや元の値段が判別不能になった茶色い惣菜の群れ。そして、私の給与振込口座の通帳だった。


 母、美代子は、それを聖遺物でも崇めるかのような手つきで撫でている。その指先には、私が一ヶ月間、上司の嫌味を耐え抜き、残業という名の削り合いで得た結晶が付着していた。


「……貯めた、っていうのは、私の給料から勝手に引き出した二十万のことかな?」


 私は、割り箸を割る。パキィ、という乾いた音が、静かなリビングに響いた。


「言い方が悪いわよ、ひじり。これは『家庭内共同基金』。あなたが将来、立派な魔導師……じゃなかった、お嫁さんになるための投資なの。親が管理してあげないと、あんたみたいな世間知らずはすぐに悪い男に騙されるんだから」


 出た。

 この家における絶対不変の教義ドグマ

「親の搾取は、子のための投資」。


 私の母は、自分が異世界の慈悲深い聖母か何かに転生していると勘違いしている節がある。ただし、その聖母は娘のキャッシュカードの暗証番号を、誕生日の逆回しという安直な推測で突破する。セキュリティ強度はスライム以下だ。


「投資ね。じゃあ、その投資の運用報告書を見せてよ。私の口座残高が、なんで『四百円』になってるのかの説明もセットで」


 私が通帳を指差すと、母の顔が劇的に歪んだ。

 それは、物語の序盤で勇者に城を追い出される寸前の、小物臭漂う魔王の表情そのものだ。


「四百円!? 残したじゃない! 喉が渇いた時に自販機でジュースが二、三本買える優しさを残したじゃない! なんて感謝の足りない子なの! 誰がここまで大きくしたと思ってるの!」


 きた。必殺技「産みの苦しみ・ノスタルジー」。

 この攻撃を受けると、一般的な子供は「罪悪感」という名のデバフをかけられ、思考停止に陥る。

 

 だが、今の私は違う。

 昨夜、深夜三時。ブルーライトに照らされたスマホの画面で、私は見つけてしまったのだ。

 異世界召喚ならぬ、現代日本における最強の召喚術を。


「お母さん。その二十万、先週、パチンコ屋の『魔王城エヴァンゲリオン・咆哮編』に消えたよね?」


 美代子の動きが止まった。

 箸でつまんでいた、衣の剥げたコロッケが皿の上に帰還する。


「な、なんで……」


「財布の中に、換金所のレシートと、新装開店のチラシが入ってた。あ、あと、コートにガッツリタバコの匂いが染み付いてる。うち、誰もタバコ吸わないよね?」


 私は淡々と、鑑定スキル(ただの観察)の結果を告げる。


「う……うるさいわね! あれはストレス解消よ! 聖を育てるためのストレスを、少し発散しただけ! お母さんが元気じゃないと、この家庭というギルドは崩壊するのよ!」


 理論の飛躍が、もはや光速を超えている。

 この魔王、自分の贅沢を「組織の維持費」と言い張りやがった。


 私は冷めたコロッケを口に運ぶ。

 味がしない。いや、怒りのスパイスが効きすぎて、もはや砂を噛んでいるようだ。


 二十三歳。社会人二年目。

 手取り十八万。

 実家に入れている五万。

 それ以外に、勝手に引き出される「魔王への献上金」の総額、累計四百万。


 私は立ち上がり、自分の部屋へ向かった。


「ちょっと! 話は終わってないわよ! 明日の朝ごはん、納豆しかないんだから、コンビニで買ってきなさいよ! あんたのポケットマネー……四百円あるでしょ!」


 背後で魔王が吠えている。

 四百円で親の朝飯まで調達しろとは、この魔王、経営難も極まっているらしい。


 部屋に入り、扉に鍵をかける。

 このボロアパートの薄いベニヤ板一枚が、今の私の唯一の「聖域」だ。


 私はベッドに潜り込み、スマホを取り出した。

 ブラウザの履歴から、お気に入りに登録したページを開く。


『日本国憲法 第十三条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』


 声に出して読んでみる。

 まるで、いにしえの封印を解く呪文のように、胸の奥が熱くなった。


 異世界の聖剣はない。

 一振りで国を滅ぼす魔法もない。

 

 でも、ここには「法」がある。

 

 魔王(親)が振りかざす「感情」という名の不合理を、無機質な「条文」で切り裂くことができる世界だ。


「……見てなよ、クソババア。いや、魔王様」


 私は、画面をスクロールする。

 そこには、昨夜予約した「無料法律相談」の完了通知メールが届いていた。


 場所は、駅から徒歩五分の雑居ビル。

 名前は「法テラス」。


 なろう小説なら、ここでギルドの受付嬢が「冒険者登録ですね?」と微笑んでくれるシーンだろう。

 

 現実はもっと地味だ。

 おそらく、疲れ果てた公務員か、理屈っぽい弁護士が、パイプ椅子に座って私の話を聞く。


 それでもいい。

 私は、四百円の残高を握りしめて、魔王討伐のパーティーを組む。


 翌朝。

 私は、魔王がまだいびきをかいて寝ている隙に、家を出た。

 

 ポストには、督促状が数枚。

 美代子が私の名前で勝手に作ったクレジットカードの請求書かもしれない。


 これまでは、これを見るたびに心臓が縮み上がり、自分が悪いのだと自責の念に駆られていた。

 「私がもっと稼げば」「私がもっと我慢すれば」。


 だが、昨夜読んだ「魔導書(六法全書)」は、私に新しい視点をくれた。


「……あ、これ、『有印私文書偽造』と『同行使』だわ」


 口に出すと、驚くほど冷静になれた。

 感情を排除し、事実を法の名の下に整理する。

 それだけで、あんなに怖かった母が、ただの「刑法に抵触する可能性のある中年女性」に見えてくる。


 駅までの道、私はコンビニに寄らなかった。

 四百円は、私の大切な初期装備の資金だ。


 電車に揺られながら、私は「サバイバー」たちのブログを読み漁る。

 彼らは皆、壮絶なクエストを乗り越えていた。

 

 親権を停止させ、戸籍に閲覧制限をかけ、居場所を秘匿し、新しい名前のように「新しい人生」を生きている。


 それは、魔王を倒した後のエピローグのようだった。


「……よし」


 目的地に到着した。

 古びた雑居ビルの三階。

 窓ガラスに貼られた「法テラス」の文字。


 一歩踏み出す。

 自動ドアが開く音が、ダンジョンの重い石扉が開く音に聞こえた。


 受付には、予想通り、愛想がいいとは言えない、眼鏡をかけた中年男性が座っていた。


「……予約していた、佐藤聖です。児童虐待、および経済的搾取についてのご相談で伺いました」


 受付の男性は、一瞬だけ目を見開いた。

 そして、淡々と、しかし確かに、冒険者の導き手のようなトーンで言った。


「こちらへ。担当の弁護士が、奥の『結界……失礼、相談室』でお待ちです」


 ……今、このおじさん、結界って言おうとしなかった?


 いや、気のせいだろう。

 ここは現代日本だ。


 私は、パイプ椅子の並ぶ廊下を歩く。

 突き当たりのドアを開けると、そこには一人の男が座っていた。


 三ピースのスーツを完璧に着こなし、机の上には、鈍器のような厚みの六法全書。

 

 男は、私を一瞥すると、冷徹な笑みを浮かべた。


「ようこそ。親権という名の呪いを解きに来た、勇者候補さん」


 私は確信した。

 

 このパーティー、性格は最悪かもしれないが、レベルはカンストしている。


 さあ、反撃のターンだ。

 魔王美代子、あなたの支配する「偽りの平和」は、今日ここで、法の裁きによって執行停止となる。


 チェックメイトまで、あと三話。

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