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がんばってねって言わないで

作者: 小山らいか
掲載日:2026/02/28

「コウちゃん、行ってくるね」

「行ってらっしゃい。今日もがんばってね」

「うん!」

 はずむような足取りで、彼女は家を出ていった。職場で新しく始めるプロジェクトのリーダーをまかされたらしい。仕事熱心な彼女は嬉しそうに、「私、がんばるね」と笑顔を見せた。いつも前向きで、明るい。小さな体いっぱいに、感情を表現する。

 彼女を見送ると、いつものように家事を片づけ、コーヒーを片手にパソコンの前に座る。クライアントとの打ち合わせや取材がなければ、基本的にこうして家で仕事をする。そして彼女が帰ってくる前に、夕食の支度をする。これが僕のルーティンだ。


「仕事のほうはどう?」

 数日後、夕食の席に着くと、僕は彼女に聞いた。「うーん」彼女は首を傾げた。

「すごくやりがいのある仕事なの。楽しいよ。でも、みんなの意見をまとめるのって、なかなか難しいんだね」

 このところ、彼女は残業が続いていた。夢中になるとまわりが見えなくなる性格なのだ。今日も朝早くから出社して、帰りは夜10時を回っていた。それでも、夕食を口いっぱいにほお張りながら、笑顔を見せた。

「ご飯おいしい。いつもありがとう。明日もがんばるね」


「ごめん、明日も仕事になっちゃった」

 土曜の夜。彼女は申し訳なさそうにうなだれた。明日は久しぶりに、二人で古本屋とカフェを巡ろうと約束していた。「私、すごく楽しみにしてたのに」

「仕方ないよ。でも、体は大丈夫?」毎日帰りが遅い彼女が心配だった。

「全然大丈夫。私、昔から体だけは丈夫なの。心配しないで」

 彼女はおどけて、元気よくファイティングポーズを作ってみせた。

 そして翌朝。

「コウちゃん、行ってくるね」

「行ってらっしゃい。今日もがんばってね」

 いつものように、小さな背中を見送る。


「仕事はうまくいってる?」

 彼女がプロジェクトリーダーになって1か月が経った。相変わらず残業が続き、彼女の顔にもちょっと疲れが見える。

「うん、何とか。もうちょっとなんだ。いろいろやりたいことがあってね。でも……」

 珍しく、彼女は途中で話をやめ、肩をすくめた。

「うん、大丈夫。私、もうちょっとがんばるから」


「……ただいま」

 今日も夜10時を回って、彼女は帰ってきた。

「おかえり。ご飯食べる?」

 すると彼女は力なく首をふった。

「ごめん。……食欲がないの」放り出すように荷物を床に置く。

「大丈夫? さすがに疲れたよね。お風呂に入る?」 

 彼女は黙って頷くと、バスルームへ向かった。

「どう、少しだけでも食べられそう?」

 戻ってきた彼女に声をかける。すると、彼女はソファに座り、肩を落とした。

「……何かあった?」

 うつむいたまま、唇をかみしめている。ふいに、その目から涙がこぼれ落ちた。

「……どうしたらいいか、わからないの」

 ――そんなに私のやり方が気に入らないなら、遠野さん、ひとりでやればいいじゃない。

 自分の理想を必死に伝えようとする彼女に、仲間のひとりは言った。もう、あなたのやり方にはついていけない。すると、他の数人も同じ反応をした。彼女は完全に孤立していた。それでも、諦めず必死に食い下がった。もう少しで届く。あともう少し――。

 そんな彼女に追い打ちをかけるように、ひとりが強い口調で言った。「私、このプロジェクトを降ります」彼女がいちばん頼りにしていた同僚だった。

「なんか疲れちゃった。私……間違ってるのかな」

 そっと彼女の背中にふれた。彼女は静かに小さな肩を震わせていた。


 翌朝、彼女は無言で玄関へ向かった。

「行ってらっしゃい、今日も……」

「言わないで」力のない声で、僕の言葉を遮った。

「お願い……がんばってねって言わないで」そう言い残して、扉の向こうに彼女は消えた。

 コーヒーを片手に、パソコンの前に座る。ふと、キーボードを打つ手が止まる。

 ――がんばってねって言わないで。

 そんなことを言う彼女は初めてだった。いつも元気いっぱいで、よく笑い、よく怒る。感情表現が苦手で内にこもるタイプの僕でも、彼女といると少しだけ明るい人間になれるような気がした。「がんばってね」僕の言葉に、彼女は何を感じていたんだろう。

 ――彼女は、大丈夫だろうか。

 パソコンの前でぼんやり考える。なんとなく仕事が手につかず、時間だけが過ぎていった。1日が、ひどく長く感じられた。

 夜10時を過ぎた。彼女はまだ帰ってこない。

 玄関に意識を向けながら、何度も時計に目をやる。朝、疲れた様子で出ていった小さな後ろ姿が蘇る。

 ――もし、このまま、彼女が帰って来なかったら……。

 何の根拠もなく、ふとそんな考えが浮かんだ。いいようのない不安。いやいや、そんなことあるはずがない。でも……。心の中で何度否定しても、一度浮かんだそれは消えない。

 思わず立ち上がり、玄関へ向かおうとした。そのとき、鍵の開く音。

「ただいま」

 彼女が玄関に入ってきた。駆け寄って、思わず抱きしめた。「え、コウちゃん……どうしたの?」彼女は僕の顔を見上げた。

「……ごめん」

 驚いている彼女から手を離し、ふらふらとソファに座った。体中から力が抜けていくように感じた。彼女は僕の横に座り、背中にそっとふれた。

「心配……してくれたの?」

 彼女はもう一度、みんなに自分の気持ちを話した。誰かを傷つけたり、嫌な思いをさせたりしたくない。でも、譲れない部分もある。もう少しだけ、自分と一緒に前を向いて進んでほしい。お願いします。彼女はそう言って、深く頭を下げた。

「……みんな協力してくれるって。一緒にがんばろうねって言ってくれたの」

 疲れの残る顔で、彼女は笑った。

 こんな小さな体で、どこからそんな力が出せるんだろう。本当にすごい。

「コウちゃんも、いつも応援してくれてありがとう」

 もう一度、そっと彼女を抱きしめた。

「明日は、また『がんばってね』って、言ってくれる?」

 腕の中で、甘えるように彼女は言った。「……うん」僕は腕に少し力をこめた。 


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