『アスファルトの宙』
「━━」
「━━」
ノイズキャンセリングのさざなみの向こうから声が聞こえてくる。ペンを動かす腕がわずかに軋みはじめる。
その一つは憶えのある声のような気がした。
「マヤちゃんは元気にしてますか?」
握ったペンを手放し、イヤホンを外す。そして、誘われるがままに声がする方に足を踏み出した。
「あっ、マヤちゃん。久しぶり。もしかして勉強の邪魔しちゃったかな?」
「え、いや。大丈夫ですけど・・・・・・」
「マヤ、覚えてないの?ほら、昔、よく遊んでもらったお隣の橋本さん家のお姉さん」
「久しぶりです。・・・・・・帰ってきたんですか?」
「あれ?なんか距離を感じるなー。昔はあんなに懐いていてくれたのに。お姉さん、ショックだよ」
ちがう、という声は、笑い合う母とお姉さんを前にかき消されてしまった。
二人はそのままリビングで楽しそうにお茶を飲みながら会話を続ける。
「さくらちゃんってK大学に通ってたよね。うちの子に勉強教えてくれないかしら」
そして未だ状況が飲み込めない私を置いて、
「いいですよ!今年から受験生ですもんね。よろしくね、マヤちゃん」
話がまとまる。
2月、未だ日の上りが遅い季節。
高校2年生の浅野マヤに早咲きの桜が舞う。
「おはよう!」
朝、スーツを着た人、同じ学校の制服を着た人、互いに顔を知らない様々な人が通る最寄りの駅への道のり。
いつもと変わらない道なりに、朗らかで元気な挨拶が飛んでくる。
「おはようございます」
先日から勉強を教えてもらっている幼なじみのお姉さんだ。
「まだ、少し堅いね。マヤちゃんも大人になったってことかな。ちょっと寂しいな」
そう言って、お姉さんは揶揄ってくるが、別に私は、大人になったわけじゃない。ただ、8年前に別れたきり、距離感がわからないだけだ。
「お姉さんは、今日も散歩ですか?」
「そう。私はこれから家に帰るとこ。・・・だけど、マヤちゃんは学校だよね。頑張って!」
お姉さんは私の背中を優しく叩き、送り出した。
「期末テストも近い。放課後を楽しむのも結構だが、今回のテストは今後の進路にも影響してくるからそろそろ気を引き締めろよ。以上、気をつけて帰れよ」
担任の先生による終礼が終わるとともに、生徒達はそれぞれの帰路につく。授業が終わり、騒がしかった教室に静けさが戻ってくる。
「テストだって、やばいよ。ねぇ、勉強している?」
「私も全くだよ。先生も焦ること言うよねー」
「ほんと、それ!・・・あれ?なんで、そんな悠長なの。勉強、していないんだよね?まさか⁉︎私をおいてったりしてないよね!」
帰る準備をする私の席の前で二人の友達が騒ぎ立てる。
「私はしてないって。ただ、マヤは最近、家庭教師をつけたんでしょ」
「えっ!ずるい。この、裏切り者!」
「裏切りって。そんな大したことじゃないよ。昔隣に住んでいた人に勉強を教えてもらってるだけだから」
「それって、K大に行ったお姉さんのことだよね。良かったじゃん。マヤも同じところ目指してたんでしょ」
「・・・なにそれ、最高かよ。やっぱり、裏切り者だー!」
そう言いながら泣きついてくる友達の頭を撫でる。
「・・・・・・」
「ねぇ、そのお姉さんは今はなにしているの?」
「大人なんだから仕事でしょ。きっといいところで働いているんだよ」
「いや、分からないけど・・・・・・仕事は辞めたって言ってた」
「うそ・・・・・・」
「多分、散歩かな?」
「・・・散歩」
「なんか、ごめんね」
一歩引いて、同情の視線を向ける友達。私は曇りガラスが嵌められた教室の引き扉に目を逸らした。
日を重ねるごとに積み重なる机の上の参考書やプリント。その中にはお姉さんが用意してくれたものもあった。
「あっ、そこは━━」
手を伸ばして、そばに座るお姉さんは丁寧に教えてくれる。その度に柑橘系の爽やかで優しい香水の香りが私の思考をはっきりとさせていく。
「・・・・・・どうして?」
「うん?どうしたの。わかりづらかったかな?えーと、」
「お姉さんはどうして私の為にここまでしてくれるの?」
お姉さんは突然の私の疑問に目を開く。だけどすぐに考えるようにゆっくりと口を開いた。
「うーん、それは頼まれたってこともあるけど、私もマヤちゃんに合格してほしい。だから私が出来ることはしようかなって・・・・何か悩みがあるの?」
「そうじゃなくて、私よりお姉さん自身の為に時間を使ってほしいなって・・・・・・」
「そんなこと、気にしなくていいのに。せっかく昔に戻ったと思ったのにな。まだまだ、大人になる必要はないよ。けど━━」
お姉さんは視線を机の上の開かれた教科書から移し、端に置くと、
「そうだね。今日はこのぐらいにして、気分転換もかねて散歩に行こう!」
明るい声で私を散歩に誘った。
「ひんやりしていて、気持ちいいね!朝も好きだけど、この暗くて静謐とした感じもいいよね」
夜の道を小さな街灯の光が照らす。静けさに満たされた空間に鮮明な声が通る。
歩くのが気分転換になるのは分かったけど、この暗さはむしろ━━
「・・・・・・怖く感じるよ。まるで宇宙に放り投げられたみたい」
「はは、それは確かに嫌かも。・・・・・・マヤちゃんはさ、将来どうしたい?」
すると、お姉さんは落ち着いたトーンで聞いてきた。
将来。それを考えるほど、足元の地面が揺らいでいく。暗闇に溶け込んだこの真っ黒なアスファルトの道に沈んでいく。私は、お姉さんと同じように大学に進んで就職する・・・・・・だけど、その後は?
わたしは・・・・・・・・・・・・ッ!
息が詰まりそうになる手前、メントールのスーッとした湿布の香りが鼻を突いた。
顔を上げるとお姉さんが私の頬にふんわりと手をかざしていた。
「そんなに難しく考えなくていいよ。私はね、作曲家になりたいんだ。だから、今楽器の勉強しているの。どう?かっこいいでしょ」
そう言って、お姉さんは道の真ん中でギターを弾くふりをする。
その姿はとても楽しそうだった。
「マヤちゃんが私に憧れた気持ちも、今の私を心配になる気持ちもわかるよ。確かにこの道のように先は真っ暗かもしれない。でもね━━」
帰宅後
机に向き合った私は、端に置かれた一冊の本を手に取った。
『僕らは息を吸うことができるんだ。このアスファルトの宙で 』
彼女の声を抱いて。
編集点
・湿布の匂いを自然に忍ばせる
・息の描写を一瞬だけ入れる
・余計な説明を削る
初稿
「あ━━、懐か━━どう━━の?」
「はい━━━━実は━━」
ノイズキャンセリングのさざなみの向こうから声が聞こえてくる。ペンを動かす腕がわずかに軋みはじめる。
その一つは憶えのある声のような気がした。
「マヤちゃんは元気にしてますか?」
握ったペンを手放し、イヤホンを外す。そして、誘われるがままに声がする方に足を踏み出した。
「あっ、マヤちゃん。久しぶり。もしかして勉強の邪魔しちゃったかな?」
「え、いや。大丈夫ですけど・・・・・・」
「マヤ、覚えてないの?ほら、昔、よく遊んでもらったお隣の橋本さん家のお姉さん」
「久しぶりです。・・・・・・帰ってきたんですか?」
「あれ?なんか距離を感じるなー。昔はあんなに懐いていてくれたのに。お姉さん、ショックだよ」
ちがう、という声は、笑い合う母とお姉さんを前にかき消されてしまった。
二人はそのままリビングで楽しそうにお茶を飲みながら会話を続ける。
「さくらちゃんってK大学に通ってたよね。うちの子に勉強教えてくれないかしら」
そして未だ状況が飲み込めない私を置いて、
「いいですよ!今年から受験生ですもんね。よろしくね、マヤちゃん」
話がまとまる。
2月、未だ日の上りが遅い季節。
高校2年生の浅野マヤに早咲きの桜が舞う。
「おはよう!」
朝、スーツを着た人、同じ学校の制服を着た人、互いに顔を知らない様々な人が通る最寄りの駅への道のり。
いつもと変わらない道なりに、朗らかで元気な挨拶が飛んでくる。
「おはようございます」
先日から勉強を教えてもらっている幼なじみのお姉さんだ。
「まだ、少し堅いね。マヤちゃんも大人になったってことかな。ちょっと寂しいな」
そう言って、お姉さんは揶揄ってくるが、別に私は、大人になったわけじゃない。ただ、8年前に別れたきり、距離感がわからないだけだ。
「お姉さんは、今日も散歩ですか?」
「そう。私はこれから家に帰るとこ。・・・だけど、マヤちゃんは学校だよね。頑張って!」
お姉さんは私の背中を優しく叩き、送り出した。
「期末テストも近い。放課後を楽しむのも結構だが、今回のテストは今後の進路にも影響してくるからそろそろ気を引き締めろよ。以上、気をつけて帰れよ」
担任の先生による終礼が終わるとともに、生徒達はそれぞれの帰路につく。授業が終わり、騒がしかった教室に静けさが戻ってくる。
「テストだって、やばいよ。ねぇ、勉強している?」
「私も全くだよ。先生も焦ること言うよねー」
「ほんと、それ!・・・あれ?なんで、そんな悠長なの。勉強、していないんだよね?まさか⁉︎私をおいてったりしてないよね!」
帰る準備をする私の席の前で二人の友達が騒ぎ立てる。
「私はしてないって。ただ、マヤは最近、家庭教師をつけたんでしょ」
「えっ!ずるい。この、裏切り者!」
「裏切りって。そんな大したことじゃないよ。昔隣に住んでいた人に勉強を教えてもらってるだけだから」
「それって、K大に行ったお姉さんのことだよね。良かったじゃん。マヤも同じところ目指してたんでしょ」
「・・・なにそれ、最高かよ。やっぱり、裏切り者だー!」
そう言いながら泣きついてくる友達の頭を撫でる。
「・・・・・・」
「ねぇ、そのお姉さんは今はなにしているの?」
「大人なんだから仕事でしょ。きっといいところで働いているんだよ」
「いや、分からないけど・・・・・・仕事は辞めたって言ってた」
「うそ・・・・・・」
「多分、散歩かな?」
「・・・散歩」
「なんか、ごめんね」
一歩引いて、同情した視線を向ける友達。私は曇りガラスが嵌められた教室の引き扉に視線を逸らした。
日を重ねるごとに積み重なる机の上の参考書やプリント。その中にはお姉さんが用意してくれたものもあった。
「あっ、そこは━━」
手を伸ばして、そばに座るお姉さんは丁寧に教えてくれる。その度に柑橘系の爽やかで優しい香りが私の思考をはっきりとさせていく。
「・・・・・・どうして?」
「うん?どうしたの。わかりづらかったかな?えーと、」
「お姉さんはどうして私の為にここまでしてくれるの?」
突然の私の質問にキョトンとするした表情を浮かべたお姉さんはすぐに考えるようにゆっくりと口を開く。
「うーん、それは頼まれたってこともあるけど、私もマヤちゃんに合格してほしいから私が出来ることはしようかなって・・・・何か悩みがあるの?」
「そうじゃなくて、私よりお姉さん自身の為に時間を使ってほしいなって・・・・・・」
「そんなこと、気にしなくていいのに。せっかく昔に戻ったと思ったのにな。まだまだ、大人になる必要はないよ。けど━━」
お姉さんは視線を机の上の開かれた教科書から移し、端に置くと、
「そうだね。今日はこのぐらいにして、気分転換もかねて散歩に行こう!」
明るい声で私を散歩に誘った。
夜の道を小さな街灯の光が照らす。静けさに満たされた空間を鮮明な声が通る。
「ひんやりしていて、気持ちいいね!朝も好きだけど、この暗くて静謐とした感じもいいよね」
歩くのは気分転換になるけど、この暗さはむしろ━━
「・・・・・・怖く感じるよ。まるで宇宙に放り投げられたみたい」
「ふふ、それは確かに嫌かも。・・・・・・マヤちゃんはさ、将来どうしたい?」
すると、お姉さんは落ち着いたトーンで聞いてきた。
将来。それを考えるほど、足元が揺らいでいく。暗闇に溶け込んだこの真っ黒な道に沈んでいく。私は、お姉さんと同じように大学に進んで就職する・・・・・・だけど、その後は?
私は━━━
息が詰まりそうになる手前、メントール系のスーッとした香りが鼻を突いた。
「ッ!」
顔を上げるとお姉さんが私の顔にふんわりと手をかざしていた。
「そんなに難しく考えなくていいよ。私はね、作曲家になりたいんだ。だから、今楽器の勉強しているの。どう?かっこいいでしょ」
そう言って、お姉さんは楽しそうにギターを弾くふりをする。
「マヤちゃんが私に憧れた気持ちも、今の私を心配になる気持ちもわかるよ。確かにこの道のように先は真っ暗かもしれないし、どこに繋がるかも分からない。でもね━━」
帰宅後。
机に向き合った私は、端に置かれた一冊の本を手に取った。
『━━僕らは息を吸うことができるんだ。このアスファルトの宙で』
彼女の言葉を抱いて。




