報告書番号:00101:「宮城事件」(きゅうじょうじけん)
“STOLEN PEACE: IJA HARDLINERS STAGE COUP”
Emperor Reportedly Under House Arrest as War Continuation Faction Seizes Power
- Daily World Report, Aug. 16, 1945
「奪われた平和:日本帝国陸軍強硬派が謀反」
天皇は軟禁されたとの情報、戦争継続派が権力を奪取
- デイリー・ワールド・レポート 1945年 8月16日付
1945年8月15日、天皇陛下による終戦宣言の大詔放送、いわゆる「玉音放送」が行われなかった。
前日の夜から翌未明にかけて、本土決戦を訴える一部の帝国陸軍強硬派将校達が放送に使われるはずだったレコード盤を奪取し、天皇陛下を軟禁するという謀反が起きたためだ。
これが後の「宮城事件」(きゅうじょうじけん)である。
本来、放送があるはずだった当日に、予定が中止される放送がされると、事態を知らない多くの帝国陸海軍将兵を始め、帝国政府や議会、そして日本国民に大きな衝撃と動揺が走った。
この事があった翌日、ソ連指導部は宮城事件の発生と日本国内の混乱を知り、「日本の帝国主義による抑圧された人民を解放する」との名目で、一方的に日ソ不可侵条約を破棄し、日本上陸を目標に、ウラジオストク港から進軍を開始する。
ソ連の条約破棄と進軍に対して、慌てた日本政府と帝国軍幹部は、遅れて「玉音放送」を行ったが、既に動き出してしまったソ連軍には意味がなかった。
8月18日、北海道の網走で日本軍との交戦が開始され、翌8月19日、新潟での日本軍との交戦が開始する事となった。
ソ連軍は、太平洋戦争で捕虜にした元日本兵達を日本上陸の為の突撃兵と利用し、このため、数多くの日本人捕虜が死傷した。
さらに、一部の突撃兵には不良弾薬等を持たせ地雷原に突撃させる等の運用がされた為、その残虐性に日本人は不安と恐怖を抱く事となった。
8月23日、ソ連軍が新潟上陸を果たす。日本の大半の都市が焦土と化し、日本軍の戦力は脆弱になった上、宮城事件の影響で、現場は激しい動揺と混乱を起こし、著しく低下した日本軍の士気では、抵抗も呆気ないものだった。
これにより、新潟はソ連の支配下となり、ここを拠点として東北地方の日本海側を始め、長野、山梨方面に進軍していく事となる。
この頃から、帝国政府や帝国陸海軍に対する、太平洋戦争の大敗等による国民の鬱憤や不満等を利用した日本国内の共産主義勢力の動きが活発化していく事となる。
8月27日、ソ連軍は網走に上陸し北海道侵攻を開始する。この事により帝国陸軍は戦力を分散する事を余儀なくされ、ソ連を前に一機に苦境に立たされる事になる。
9月上旬、ソ連軍の進軍は日本海側では長野県の諏訪湖付近まで進展しており、また北海道では根室港を押さえるなど進撃が止まらず、このままでは天皇および、皇族の身の安全が確保出来なくと考え、親皇派近衛将校による進言により、彼等は関西以西への退避を余儀なくされる。
同時期、米国政府もソ連の日本上陸に衝撃を受けており、この状況に頭を悩ませる事となる。日本の親米派帝国議員による残存日本軍兵力と連携で、日本防衛に協力をしてほしいとの申し出があったが、「つい先日まで敵であった、日本人共を助けるのは癪だが、日本全体が赤化してしまうのは、もっと不味い」と米国政府および米国議会も対応に苦慮していた。
また、欧米ではソ連軍の日本人捕虜突撃作戦についての報道がなされ、これに対し米国政府が非人道的戦争犯罪行為として非難。
英仏等の西側諸国も賛同する形で、それに後押しされた米国世論も「忌まわしい日本人を助けるのは癪だが、防共の緩衝地帯の確保のため」として、西日本支援への米国世論が形成されてゆく。
1945年9月中旬、諏訪湖付近で日本軍残存兵による防衛戦が続くも、ヨーロッパ戦線を終えたソ連軍は日本占領に注力しはじめる。
時を同じくして、米国内でも日本赤化に対する危機感が世論が大勢となり、米軍は渋々ながら日本軍との連合を組む事を決める。
1945年9月下旬、帝国軍内部でも、当初、米軍との連合を組む事に反対していたが、ソ連軍の進撃による日本防衛の為にはやむを得ないとの意見が大勢となり、西日本の日本兵を中心とする日米連合軍が成立する事となった。
1945年10月、米軍艦隊が大阪、神戸に上陸、ぎこちないながら日米合同軍が結成され、これにより西日本の防衛力が強化される事となった。
同時期、ソ連軍は東京湾、横須賀を掌握し、ソ連海軍の日本拠点として運用を始める。
1945年11月、日本軍の諏訪湖防衛線が崩れ、ソ連軍が天竜川を南下。
同時期、日米連合軍は近畿地方の防衛線を完成させ、さらなる東側の防衛線拡大に注力。
ソ連海軍は、新潟、静岡を拠点として、米海軍は舞鶴、名古屋を拠点として展開する事となる。
ただし、両軍は大規模な直接対決を恐れ、両軍の目立った対決や攻撃は無かった。
1945年12月上旬、ソ連軍が静岡県浜松市を制圧し、糸魚川東部、諏訪湖東部、天竜川の防衛線が完成する。さらなる西部制圧を目指す
同時期、日米連合軍は糸魚川西部、諏訪湖西部、愛知県全域の防衛線が完成。
残るは、空白地帯の浜名湖周辺の領有を争いとなった。
1945年12月24日、ソ連軍が浜松から名古屋に向かって進軍、それに反応して日米連合軍も浜名湖方面に展開していく。
浜名湖を巡って大規模な戦闘が発生。
これが、後に「流血のクリスマス」事件と呼ばれる事となる。
1946年年明け、双方の損耗や疲弊が激しく、両軍が停戦合意する事となり、これにより、日本が東西に分断される事が決定付けられた。
(なお、東西日本の具体的な国境線は「糸魚川市(糸魚川市は東日本側)・姫川・青木湖・木崎湖・高瀬川・犀川・奈良井川・塩尻駅・田川・みどり湖・横河川(旧中山道地点を基点)・諏訪湖・天竜川・阿多古川合・長石川・灰ノ木川・都田川・浜名湖」を結ぶ線
また、富山県入善町付近や野尻駅周辺、都田川以西の浜名湖北部(現実の浜松市部分)等は、「国連停戦監視団」の監視地域として東西の緩衝地となる。
停戦後、東日本側は「日本人民共和国」として建国。暫定首都として仙台、北海道はソ連の直接的関与が強く、日本人民共和国の領土ではあるものの、実質的にソ連の半自治区と化していく。
(戸籍が本州と北海道で別れ、本州側と北海道の間の移動では「渡航許可証」が必要)
また、西日本側は、大日本帝国の後継として「日本国」として暫定首都を大阪に、主に米国を中心に西側諸国の支援を受け、西太平洋の防共の要と化す。
そして沖縄は米国の統治下に置かれる事となる。
かつての首都であった東京は、連合国の下、国際共同管理下に置かれるが、後に、米ソの意見の隔たりから、東京も隅田川を基準に東西に分断されたが、日本の東西両陣営は東京の主権を譲らず膠着状態に。
(「西東京市」の東側の境界線は隅田川、西側の境界線は、現実の「東京環状八号線」を基準(1927年に発表した「大東京道路網計画」が元)に、北は国道122号線を新河岸川、南は国道466号線から多摩川結ぶ線を、おおよそ基準したもの)
日本人民共和国側の勢力は、ソ連等の東側諸国の協力の下「人民革命軍」として改組され、
日本国側の勢力は、欧米等の西側諸国の協力の下「日本国防軍」として改組される。
そして、この結果、世界からの日本の評価、特に欧米からは、畏怖と脅威を見られていた「極東にある新進気鋭の帝国」から、自ら大国達に喧嘩を売った挙句、自分の手で喧嘩の始末するどころか、ソ連の侵略で喧嘩相手だった米国に泣き付き、結果、嘲笑と軽蔑の対象である「極東という場末の分断国家」という形に、急速に変わっていくのであった。




