エピローグ 総理演説
国民の皆さん。
あの日、私が「帯刀」を命じてから、二年が経とうとしています。
正直に言いましょう。
二年経って、皆さんの生活は、劇的に変わりましたか?
おそらく、変わっていないでしょう。
朝起きて、仕事に行き、家族と夕飯を食べる。
悩みの種は相変わらず職場の人間関係だったり、来月の生活費だったりする。
腰に刀があるからといって、給料が上がるわけでもなければ、急に人生がバラ色になるわけでもない。
むしろ、重たいし、邪魔だし、電車で座るのにも一苦労だ。
肩も凝る。
「総理、いい加減にしてくれ」と、ぼやいている方の顔が目に浮かびます。
しかし、それでいいのです。
私は、この国をユートピアにしたかったわけではありません。
ただ、日常の風景の中に、「一本の鉄」を通したかった。
それだけです。
不思議なもので、最初はあれほど異物だった刀が、今ではすっかり皆さんの背広姿や作業着姿に馴染んでいる。
日常は続いています。
しかし、その日常の「底」にあるものが、少しだけ変わったことに、お気づきでしょうか。
ふとした瞬間の、立ち振る舞い。言葉を選ぶ際の一瞬の間。
これまで私たちは、便利すぎる社会の中で、ふわふわと浮き足立って生きてきました。
ですが今は、腰の重みが物理的に私たちを地面に繋ぎ止めている。
日本人が本来持っていた、謙虚さ、真面目さ、あるいは「慎み」といった感覚。
それらは、教わって身につくものではなく、こうした日々の「重み」によって、身体の奥底からじわりと思い出されるものです。
刀を持っても、人は急に聖人君子にはなれません。
相変わらず腹も立てば、愚痴もこぼす。
けれど、一線を越えそうになった時、腰の冷たい鉄の感触が、ふと我に返らせる。
「今の自分は、この刀を持つに値する人間か」と。
その自問自答の繰り返しだけが、この複雑で不安定な現代社会において、唯一の揺るぎない「支柱」となるのです。
そして何より、私がこの政策で本当に見ているのは、今の私たちではありません。
私たちを見ている、子供たちのことです。
今の大人たちは、「刀のない時代」を知っています。
軽かった時代、言葉だけで責任を取った気になれた時代を知っている。
だから、帯刀の重みに戸惑い、時に煩わしく感じる。
それは仕方のないことです。
しかし、今、私たちの背中を見ている子供たちは違います。
彼らにとって、大人の男とは「刀を差しているもの」です。
「力を持っているのに、決して抜かない人」です。
「重たいものを黙って背負い、毎日真面目に働き、家族を守る人」です。
この風景を見て育つ子供たちが大人になった時、彼らの精神構造は、私たちとは全く違うものになっているでしょう。
彼らは、理屈ではなく肌感覚として、「強さとは自制心のことだ」と知っている。
「自由とは、規律の上にしか成り立たない」と知っている。
かつて私たちが失ってしまった、歴史という縦軸に繋がれた「日本人の背骨」を、彼らは生まれながらにして持っていることになります。
それは、今日明日に結果が出る話ではありません。
十年、二十年、あるいはもっと先。
彼らが社会の主役になった時、初めてこの「帯刀令」の意味が完成するのだと、私は考えています。
ですから、国民の皆さん。
今日からも、変わらぬ日常を続けてください。
重たい刀を腰に差して、満員電車に揺られ、理不尽なことに頭を下げ、それでも歯を食いしばって、真面目に生きてください。
派手な成果などなくていい。
その「我慢強い背中」を見せることこそが、次の時代への最大の教育であり、この国の未来を創る唯一の方法なのです。
私は、皆さんのその「変わらぬ日常」を、心から信じています。
地味で、重たくて、でも、どこか誇らしい。
そんな日本を、これからも共に、一歩ずつ歩んでいこうではありませんか。




