第六章 国家と個人
高校に入って、一か月が過ぎた。
桜はもう散り、通学路の欄干には乾いた花びらがこびりついている。
制服の左腰に、黒い鞘が並ぶ光景にも、もう誰も驚かなくなっていた。
刀を帯びた男子たちが駅前を歩く姿は、すっかり街の風景の一部になっている。
遥も、朝、鏡の前で帯を締める手つきが自然になった。
いつのまにか「帯刀」は、生活の動作のひとつになっていた。
学校の授業にも、武士道の時間が加わった。
教科書の最初のページには文部科学省の印が押され、《武士道概論Ⅰ》と印字されている。
教師は静かな声で読み上げた。
「――武士道は、忠義と義務の上に築かれた倫理にして、国家の存立を支える精神的基礎である」
教師は続けて言った。
「この言葉は、明治期の思想家による定義ですが、今なお私たちに通じます。武士道とは、個人が国家と調和するための“道”なのです」
まるで古典文学の講義のような静かな教室だった。
しかし、遥にはその言葉のどれもが、身体のどこかをくすぐるように感じられた。
模造刀の重さ、鞘の感触、竹刀を振った夜の冷たい空気。
それらが、ひとつの“体系”に分類され、教科書の中に閉じ込められていくような違和感があった。
体育とは別に剣道の授業も導入された。
竹刀を構え、面を打ち、礼をする。
だが、先生は技よりも心を説いた。
「剣の道は相手を斬るためではない。自分を整えるためにある」
その言葉は、かつての武術指導員の言葉と重なった。
それでも、遥の胸には小さな棘のような疑問が残った。
――整えるって・・・自分のため、誰かのため?何のため・・・
放課後、同じクラスのダイチと校門を出た。
「なあ、今日の授業のあの言葉、どう思った?」
「武士道概論で先生が言ってた“忠義と義務の上に築かれた倫理”ってやつか」
ダイチは首をかしげた。
「俺、あの本の英語版、ちょっと読んだことあるんだ。“duty and loyalty”って書いてあったけど、あれは“国家への忠誠”より、“人としての誠実さ”の話だったはずだぞ」
遥は驚いて顔を上げた。
「翻訳で、意味が変わってるってこと?」
「うん。あの先生の言い方だと、“個人は国家に従うべき”って聞こえるけど、新渡戸はむしろ“心の中にある法”を守れって言ってた気がする」
ダイチの声には、かすかな苛立ちが混じっていた。
「俺たち、武士道を習ってるんじゃなくて、“都合のいい武士道”を教わってるのかもな」
その言葉に、遥は黙った。
何かを守るためでも、争うためでもないのに、刀を持たされている。
それが、この国の“日常”になっていることが、少しだけ怖かった。
休日、二人でユウイチのもとを訪ねた。
研ぎ場には淡い光が差し込み、鉄の匂いが漂っていた。
ユウイチは相変わらず無口で、黙々と刃を磨いていたが、顔を見るなり目尻をゆるめた。
「すっかり高校生の顔になったな」
「最近、学校で“武士道”の授業があるんです」
遥が言うと、ユウイチは手を止めた。
「授業で教わる“道”もある。けどな、自分で見つける“道”はもっと長い」
ダイチが興味深そうにうなずく。
そのあと、ユウイチの紹介で鍛冶場の刀鍛冶とも話すことになり、二人は少しずつ職人たちの世界を知っていった。
火を入れる音、鋼の赤い光、金槌の律動。
そこには、学校では教えてくれない“生きている刀”があった。
その帰り道、駅前の大型モニターにニュースが映し出された。
《帯刀令の改定案、内閣全会一致で可決へ》
《全高等学校への模造刀の配布が完了》
キャスターの声は落ち着いていた。
反対意見や批判的なコメントは流れない。ただ、「国民の順応が進んでいる」という説明だけが続いた。
「……一貫してるよな、あの政府」
ダイチが苦笑する。
「でも、逆にすげぇとも思う。あれだけ批判されても、揺れないっていうか」
遥も頷いた。
それは、怖さと同時に、妙な納得でもあった。
もはや誰も、刀を持つ理由を問わない。
それが“当たり前”であることが、何よりも強い支配なのかもしれない。
夜、机の上に刀を置き、遥は静かに見つめた。
自分が刀を持つのは、命令だからではない――そう思いたかった。
けれど、もし明日、帯刀令が廃止され、刀を「手放せ」と言われたら、きっとためらうだろう。
その迷いの中に、自分という“個”の小ささを感じた。
国家と個人、その境界線の上に、自分が立っているような気がした。
まるで鍔の上に、静かに立っているように。




