暗雲立ち籠める昼下がり
「・・・・・あ、師匠・・・・・おかえり」
扉を開けると、器用に椅子を一本の足だけでバランスよく立たせ、その背もたれの上に逆立ちして腕立て伏せをしている弟子の姿があった。
汗が全身から逆さに滴り、塩辛い滴が口の中へと滑りこんでいるのを拒む気力もなさそうだ。
雨で外での修業が中止になったものだから、室内で鍛錬しているようだ。
毎回、弟子に基礎体力を向上させるためのシンプルな修行を言い渡すと必ずと言っていいほど弟子は不服そうに顔をゆがませる。
理由はもちろんわかっているのだが、そのわけを弟子に話そうとは思わない。
弟子は帰宅した師匠の姿をちら、とだけ見てすぐに鍛錬に集中しようとしたようだが、再び師匠の姿に目をやった。
稲妻まで光るこの大雨の中、全身ぐっしょりとした姿で帰ってきた師匠を不思議そうに見つめている。
ワイシャツ1枚しか着ていないものだから、黒い下着が透けていてかなり寒そうに見える。
「・・・・・・。」
何かを尋ねたそうにしてはいるが、声が出ないほど疲れているのか何も問わない。
女は何も言わずに風呂場へ直行した。
風呂場の手前にある洗面所でいつも着替えるのだが、彼女は洗面所の扉をいつもきちんと閉めない。
扉が少し開いていようと構わず衣服を脱ぎ棄て全裸になるので、いつも弟子はため息をつきながら中をのぞかぬように扉を閉める。
しかし、鍛練中なのか扉を閉めにこなかった。
別に構わない。閉めろと頼むわけではないのだから。
リビングの景色と背中を向けて鍛錬を続ける弟子の姿を、開いた扉の隙間からのぞきながら肌にへばりついたぐしょ濡れの衣服を脱ぐ。
解放感とひどい寒気が身体に訪れ、急いで風呂に浸かる。
何故、こんな微妙な時間に風呂が沸いているのか疑問に思ったが、さすが私の弟子だ、という事にしておく。
「・・・・・・・・・・・んー」
ため息とも言い難い声を発する。
長い髪の毛は湯船に沈み、頭の上でまとめるのも面倒くさい。
何やら真面目な顔で考え事をした後、ざばっと風呂からあがった。
軽く体をふいた後、バスローブを羽織ってリビングに出る。
鍛錬は終わっていたようで、弟子が椅子に腰掛けて一息ついていた。
「ユウ」
弟子の名を呼ぶ。
水を飲みながら、弟子はこちらを見上げた。
濡れた髪の毛から滴る水が鬱陶しく、ようやく彼女は長い髪を上で団子にまとめた。
そして彼女は向かいの椅子に腰掛ける。
いつものようなふざけた雰囲気が見えない珍しい師匠の姿を、弟子は不思議そうに見つめる。
「今日は修行が無かったから、代わりにお勉強の時間」
彼女はそう言ってだるそうに机に両肘をつく。
その際に必要以上に大きな胸まで机に乗っかるが、弟子は気にする素振りも見せず師匠の目だけ見つめている。
弟子はいつも「口を閉じてればただの美人で済むのに」だとか「おとなしくしてれば貰い手だってすぐ現れるのに」だとかぶつぶつ言ってくる。
自分の容姿がずば抜けて素晴らしいのは自分で知っている。
その為に特別努力したわけではないが、本当は人の数十倍もあるはずの筋肉は生まれつきなのか表立って見える事が無く、手足もすらりと細い。
出るところは必要以上に出て、引っ込むところは必要以上に引っ込んでいる誰もがうらやむ肉体。
しかし、さっぱりとして気まぐれな性格の彼女は、その端整な容姿を見せびらかそうとは思わない。
ただ、彼女は決して無欲ではない。
その端整な容姿を、自分の思い通りに物事を動かす為に幾度となく利用してきた。
美人は、得だと彼女は思う。
だがそれ以上には何も求めない為、彼女は弟子の前で全裸になる事も厭わない。
しかし弟子にとっては相当な迷惑らしく、本気で嫌そうな顔をする。
それを彼女はいつも面白がって見ていた。
しかし、最近は無関心を装う事にしたらしく、彼女が胸の谷間をぼりぼりとかいても弟子は一切触れてくれなかった。
「勉強って?」
真面目なこの弟子は、すぐに食いついてきた。
この弟子は、鍛練や勉強が大好きだ。
それを彼女は知っている。
「魔法のお話よ」
弟子は興味深々に師匠の話を聞いている。
「あなたにはまだ、魔法を教えていない。魔法を始める前に、知っておかなければならない事があるわ」
弟子は相槌も打たず、真剣に聞いている。
糞真面目だなあ、と彼女は思わず微笑む。
「禁忌について、ね」
思わずユウはドキッとした。
それが、師匠に感づかれたかどうかはわからない。
師匠が、ユウが禁忌魔術呪文集を持っている事を知っているのかどうかはわからないが、ユウは動揺を必死に隠した。
「魔法を扱う者として、禁忌は必ず知っておかなければならないわ」
師匠が禁忌について話すのは、ユウに魔法を教える気になったからだと思いたい。
ユウはにじむ変な汗を、自然を装うように拭った。
「もちろん、お金を作ったりするのは経済に乱れを生じさせるため重罪にあたり、時を操るなどの禁術なんかは言うまでもないわね」
ユウは頷く。
すると師匠は、小さく息をついた。
「人が最も犯してはならないと言われている罪であり、魔法の中では禁術中の禁術」
そのあとに続く言葉を、ユウは知っていた。
「死者蘇生」
ユウは唾を飲み込む。
師匠の声はいつものおふざけも、だるそうな無気力の欠片も見えず、ただ落ち着いていた。
「何故、死者蘇生が禁術なのか、わかる?」
「・・・・人の道理に反する行為だから」
師匠は微笑む。
その微笑みが何の意味を示すのか、ユウにはわからなかった。
「それが、世の中の人々が口を揃えて言う理由ね」
師匠は、微笑み続けている。
師匠が微笑むときはたいてい何か悪い事を企んでいるときなので、真面目な微笑みにユウは少し困惑した。
「私は、道理だとかそんなもの、どうでもいい。道理とは、物事がそう在るべき道筋、人が行うべき正しい道。そう在るべき?行うべき?そんなもの、誰がいつ決めた?低能な者どもが勝手に思い込んでいるただの言い伝えに過ぎない。死者が蘇るなんて、素晴らしいと思わない?」
ユウは、頷けなかった。
何を言っていいのかわからず、ただ戸惑う。
それを見て、師匠はまた微笑んでいた。
「家族や友人や愛する人を亡くして、会いたいと思うのは当然。会えるのなら、会いたい。簡単な事だわ。何故、それがいけない事なの?」
師匠はふと、ユウが先程まで飲んでいた空のガラスのコップを手に取った。
そして、突然床にたたきつける。
もちろん、ガラスは原形を少しも留めず粉々に砕け散った。
ユウは、何がしたいのかわからずに、ただガラスの欠片を見つめていた。
「ガラスが割れた。どうしようもできない。でも」
そう言って師匠がパチンと指を鳴らす。
すると、粉々に散った破片が机の上に集まり、再び元のコップの形へと戻った。
「元に戻せる。これと同じだとは思わない?割れたガラスを元に戻す事は、一度死んだ者を、蘇らせるという事と変わらない」
師匠の言うことは、師匠の言葉とは思えない事ばかりで、ユウは相槌も打てなかった。
しかし、師匠が普通の師匠でない事ぐらいはわかっている。
ただ、黙って聞いていた。
「少なくとも、私はそう思っていた」
何故、過去形なんだとユウは不思議に思う。
師匠が微妙に微笑みながら、窓の外を見つめた。
「私と似たような考えの者が、過去に何人もいたのは知っているでしょう?死者蘇生の魔法を発動させ、でも成功した例は一度たりとも存在しない」
「・・・・・そして、発動させた者は、天罰をくらった。一人の例外もなく、生きている者はいない」
「天罰、ね」
やっとユウがのどの奥からしぼりだした言葉に、師匠は笑う。
「わかってるんでしょう?その魔法を発動させた者に訪れるのは死。でも、ただの死ではないけどね」
ユウは少し首をかしげる。
師匠はそれを横目で見ていた。
「死者に飲み込まれるの。それがどういう事なのか飲み込まれた事ないからわからないけど、でもそれは永遠のとてつもない苦痛を伴う」
永遠の苦痛。
絶対死んだ方がましだろう。
ユウが苦い表情をしていると、師匠の顔から微笑みが少し消えた。
「でも、例外なく生きている者はいない、っていうのは間違いね」
ユウは言葉の意味がわからず、眉をひそめる。
師匠は笑ったが、頬がひきつっていた。
「だって、生き残った者がいるもの」
ユウは驚愕し、目を見開く。
そんな事は聞いた事が無い。
師匠は悪戯に笑った。
「あなたの目の前にね」
ユウは唖然とした。
師匠の言う事が飲み込めない。
ただ、師匠は笑っている。
「母を、蘇生した」
師匠は窓の外を眺めている。
沈黙する静かな部屋に、大雨の音が響く。
決して新しくない小屋に叩きつける強い雨粒の音が激しい。
「両親を蘇生するつもりで、まずは母から蘇生した。様々な書物を読み漁って、そして今までの愚か者達が行ってきた死者蘇生に誤りがあるのを見つけた。だから、私の魔法は完全なものであり、絶対成功すると確信していた」
妙に生々しいその語り口は、とても冗談には思えなかった。
ユウは硬直したまま、ただ師匠の話を聞いていた。
「そして、失敗した」
師匠の右のこめかみが、ぴくぴくとひきつっているのが見えた。
この事を語るのに慣れていないのだろう。
その時の事を、思い出しているのだろうか。
「蘇生したのは、人間だった。成功したと思った。でも、それは母ではなかった。できあがったのは、母の姿にそっくりの、誰かだった」
想像することができないほど、師匠の表情が苦々しかった。
いつも余裕に満ちている師匠のあんな表情を見た事はなかった。
「そして私が生み出した人間は、私に襲いかかってきた。私は戦おうとしたができなかった」
師匠は苦笑した。
「情が動いたんじゃない。いくら私が生み出したからと言って、そこらの小説のように自分がアレの母親だなんてこれっぽっちも思わなかった」
小説ではありそうな話だ、と思った。
しかし、あのただの気まぐれで人を殺しかねない師匠が、情に動くはずなど到底無い。
「内臓を、全部失くしていた。意識が途切れる前に一瞬息ができなくなって、血を吐いた事を覚えてる」
内臓が無くなったという事に、どうやって気付いたのだろう。
想像できるはずのない次元の違う話に、ユウはついて行けなかった。
「ハイ、お勉強は終わり」
やけにすっきりしない終わり方で、師匠は無理やり締めくくった。
気付けばユウは、手が震えている。
足も震えている。
全身が恐怖で震えていた。
師匠の話に恐怖したのだろうか。
師匠に恐怖したのだろうか。
わからない。
「・・・・・ごめ・・・・・なさい」
やっと絞り出た小さな声も、震えていた。
唇が、震えている。
「ちゃんと元あったところに返しておいてね」
きっと禁忌魔術呪文集の事を言っているのだろう。
師匠はそう言って、自分の部屋へとすたすたと行ってしまった。
まだ震えがとまらない中で、ユウの頬に、理由のよくわからない涙が伝った。
最初から師匠にはばれていたんだ。
「やっと晴れたぜ」
気付くと、目の前の机の上にチャールズという名のリスが立っていた。
チャールズの小さな指が指差す方向を見ると、ついさきほどまで大雨が降っていたのに今ではからっと晴れている。
動物達が森から出てくるのが見えた。
チャールズはにかっと笑った。
「殺されなくてよかったな、お前」
その言葉に思わずユウは笑う。
「そうだね」
ユウは頬を拭った。
今からでも洗濯は間に合う。
外にいる動物達に窓から声をかけ、ユウは洗面所へかけて行った。