不服の侭
音を立てないよう、静かに戸を開ける。
冷たい風が、少し肌寒い。
芝生には朝露が降りていて、裸足で踏むと冷たく濡れる。
朝日はまだ頭さえも見えていない早朝。
こんな清々しい朝は初めてだ。
何しろ今までろくに朝日というものを見た事が無かった。
前まで部屋には窓というものがなかったし、陰気臭い牢のようなところで朝も昼も夜もわかるはずがなかったようなところにいたのだ。
少し冷たい新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。
大きく深呼吸して、ユウは果樹園に続く小道を歩いた。
まだ薄暗いので、色鮮やかで新鮮な果物がどれかわからず苦戦していると、ひょこっとユウの両足の間からこちらを見上げる兎が一匹いた。
おそらく昨日の兎だろうか。
辺りを見渡すと昨日と同じくやはり近くにもう二匹いた。
「ミュイ」
何を言っているのかわからないが、兎はブルーベリーを摘んでユウに差し出した。
他の二匹の兎も次々とブルーベリーを持ってくる。
くんくんと嗅いでひょいと顔をそむけるブルーベリーもあることから、新鮮なものを選んでくれているのだろうか。
「あ・・・ありがとう」
思わずお礼を言ってしまった自分に、あとから少し恥ずかしくなった。
兎なんかにお礼を言ってもわかるはずがないのに。
すると、ユウは入れるカゴがないのに気がついた。
それに兎は気づいたのか耳をぴょこんとたて、ブルーベリーをユウに手渡してさささっとどこかへ走って行った。
もしかしてカゴを持ってきてくれるのだろうか。
なんとも賢い兎だろうか。
しばらくするとユウの予想通り、兎は数匹リスとアライグマを連れてカゴを押してきた。
ユウはその光景に、思わずふふっと笑みをこぼしてしまった。
「サンキュ」
ユウはカゴを受取り、その後日が昇るまで動物達とブルーベリーとラズベリーを摘んだ。
「師匠?入るよ?」
何度ノックしても返事が無いので、ユウは師匠の部屋の扉を開けた。
あの性格からして自分の部屋だけは結構豪華だったりするのだろうと予想していたが、見事に予想ははずれた。
窓にカーテン、ベッドに机ぐらいしか家具は無い。
朝日が差し込んで部屋が明るくなってる分にはいいが、そのせいで部屋の埃がとても目立って見えた。
俺の部屋とそう変わらないじゃないか。
しかし、机の上に数十冊ほど積み重ねられている本には埃は無く、最近どこかから持って来て置いているのだろう。
「師匠」
師匠は毛布に頭からくるまり、壁の方を向いていた。
ユウは大きくため息をつき、師匠の肩を大きく揺らした。
「師匠、朝ですよ」
「んー」
毛布の中から眠たそうな声が聞こえる。
それでも微動だにせず、ユウはさきほどよりも強く揺らした。
「師匠!」
「うあい」
師匠はようやくこちら側に寝がえりをうち、よっこらと上半身を起こす。
その際に毛布がはらりとめくれ落ち、ユウはその姿に思わずぎょっとした。
「ちょっ、一体どんな格好で寝て・・・」
「だいじょぶだいじょぶ、着てるからちゃんと。下着」
「ちゃんと服も着ろって言ってんだよ!」
ユウは大きくため息をつき、肩が露出している師匠に毛布をなげかけた。
すると師匠は再び毛布にくるまり、こてっと寝たのでユウはやはり毛布をとりあげた。
本当に服は着ておらず、下着しか着ていない。
ユウは目に手をあてて深くため息をついた。
「いつもこんな格好?」
「これが私のスタイルよ」
何が誇らしいのか、師匠はふふんと笑って言った。
ユウは再びため息をつく。
「早く服着て顔洗って、もう朝食できてるから」
「あらー、有能ね」
ユウはとりあげた毛布を持って庭に出て、物干しざおに放るようにかけた。
すると狐とアライグマがすかさず出てきて、しっぽで毛布をぱんぱんとはたいている。
その様子をユウは目を丸くして突っ立って見ていた。
「ああ、家事は動物達が手伝ってくれるわよ。あなたが呼びかけさえすれば」
「呼びかけって・・・・どうやって」
ユウはそう言いながら部屋へ戻り、さきほどつくったブルーベリージャムのトーストとラズベリーヨーグルトを師匠の前に出した。
師匠は「おお!」と歓声をあげ、スプーンをヨーグルトに近づけた。
ユウはすかさず師匠のスプーンを手でさえぎる。
「いただきます、は」
「おう、いただきます」
師匠は手を合わせていただきます、と言ったあと、ユウの顔を見上げにんまりと笑った。
そしてトーストをかじる。
「おおーっ、何あなた要領がいいわね」
「俺、あんまおいしいものとか食べた事ないからよくわかんないけど・・・昔、任務で村に潜伏して過ごしてたときとかにカフェとかでそういうの出たから」
「へえー、よく覚えてたね」
ユウも向かい側に腰を下ろし、トーストを頬張る。
これが予想以上に美味しかったので、我ながらこれはすごいなと思った。
すると、師匠がトーストをかじりながら空いている左手の指をひょいとあげた。
すると、たちまちカップが2つとことことこちらへ歩いてきた。
「飲みもの忘れてるわよ」
カップはなみなみ注がれたミルクを波立たせながらユウの目の前で立ち止まった。
こんな器用な魔法は見たことが無く、ユウはまじまじと動かなくなったカップを見つめた。
「午後、昼食の後修行かな」
師匠はつぶやくように、窓の外を見ながら言った。
ユウはそんな師匠の顔をじっと見つめて思わず微笑んだ。
「ああ」
最初は全く乗り気じゃなかった弟子入りも、この女性の実力が判明してからは教えてほしい事が盛りだくさんとある。
一体何を教えてもらえるのか、楽しみでしかたない自分がいる。
「ホットミルク、おかわりは?」
「ん」
師匠はトーストを口いっぱいにつめこんで、カップをユウに差し出した。
ユウは今にもスキップしそうな軽い足取りでミルクを注ぎにキッチンへと歩いた。
「この木が折れるまで、延々と蹴る。これが最初の課題」
「・・・・・・は?」
ユウは冗談だよ、師匠が言うのを待つかのように上目で師匠を見上げた。
だが、師匠はにこりとも笑わずこちらを見下ろしている。
「魔法じゃないの?」
「魔法じゃないよ」
「何で蹴り?」
「基礎身体能力及び基礎体力の増幅」
「あのさ」
ユウは深くため息をつき、呆れたように、はたまた苛ついたように師匠に言った。
「俺が今まで仕事としてずっと戦ってきたの知ってるだろ?基礎体力なんて、今さらつけるものなんかじゃ」
「うっせーな」
あぁ?とせっかくの美しい顔を躊躇なく歪ませ師匠は不機嫌さを微塵も隠さず表に出す。
ユウは少し怯んだが、それでも退きはしなかった。
「俺はまだまだ弱いけど、あんまりなめてもらいたくない」
正面切ってユウは言う。
師匠はいかにも不機嫌そうに頭をかく。
「不服だね」
そう言って師匠は指をぱちんと鳴らした。
すると、ユウの目の前にあった課題の木の隣に丸々同じ木がぽんと現れた。
「別にやりなくなきゃやらなくていい。別に私は炊事、洗濯、掃除、まあとにかく家事をこなしてくれさえすればあなたが強くなろうとならまいと文句ないから」
「俺は師匠に教えてほしいと思ってるよ。でも、俺が教えて欲しいのは魔法であって、木が簡単に折れる技術じゃない」
師匠ははっと蔑むように笑って、前髪をかきあげた。
「まあ、この木蹴ってみなよ」
ユウは納得いかないような表情を見せたが、ここで一発で折ってしまえば師匠も納得するだろうと思ったのか、渋々木に向きなおった。
そして蹴りを入れる構えを見せた。
師匠はその様子を横目で見ている。
バンッ
軸のぶれない綺麗で完璧な蹴り。
しかし、木は大きく揺れてざわめくだけでびくともしなかった。
「この木はとっても頑丈よ。嵐の日も竜巻の日もきっと倒れないでしょうよ」
そう言って師匠は右肩にまとめられた髪を肩の後ろへはらいのけた。
そしておもむろにコートのポケットに手をつっこみ、ふっと木の方を向いたかと思うと、さきほどユウが蹴った木に思いきり蹴りを入れた。
バキッ
さっきはびくともしなかった木が、なんともあっけなく簡単に折れてしまった。
師匠はポケットに手をつっこんだまま、唖然としているユウを一瞥してすたすたと家の方へ戻って行ってしまった。
ユウは目の前に残されたもう一本の木をじっと見つめて、拳を握り締めた。
やってやろうじゃねーか。
海に夕日が沈む瞬間を、家の屋根の上から見届けた師匠はよっこらせと上半身を起こした。
師匠の隣ではリスも一緒に昼寝を楽しんでいたようで、師匠が起きたのに気づいて眠たそうな眼をぱちぱちさせていた。
「ねえ、チャールズ。今何時?」
「今夕日が沈むの見てたんじゃないのかよ。多分7時すぎだぜ」
「あいつ何してる?」
「夕飯の支度も風呂焚きの準備も忘れてひたすら木を蹴ってるよ」
思わず声をあげて笑う。
さきほどの夕陽の余韻がまだ僅かに残っているオレンジと青の混ざり目の空を眺めながら、師匠は組んでいる長い足をほどいて立ち上がった。
「頑張ってんねえ」
「ひどい奴だな、お前も」
リスはぽりぽりとアゴをかきながら呆れて言った。
師匠は悪戯な微笑みを浮かべて、屋根から飛び降りた。
ダンッ
ダンッ
ダンッ
一定の間隔で連続した打撃の音が丘の上から聞こえてくる。
見に行こうかとも思ったが、やめて家の中へ入った。
「とめに行ってやんないのかよ」
「チャールズがなぐさめてあげて」
師匠はそう言ってほほ笑んで、扉を閉めた。
チャールズはため息をついて、四本の足で丘へと走った。
息切れが激しい。
心臓の鼓動が耳を澄まさずとも聞こえる。
額から汗が地面に滴り落ちる。
あれから何度蹴ったのだろう。
何時間蹴り続けたのだろう。
とうに日は落ち、もう月が島を照らしていた。
そしてあいかわらずユウの目の前には木が根を地にはったまま立っている。
蹴り過ぎて木の皮が削れ、白い部分が見えている。
木はこれだけしか擦り減っていないのに、ユウの足は真っ赤に腫れあがれ流血している。
それでもこんな無様な姿でのこのこ帰りたくはないと歯を食いしばって蹴り続けたが結局これだ。
くそっとユウはつぶやいた。
あきらめない。
負けたくない。
「あら、おかえり」
師匠は本からふと目をあげた。
汗だくで呼吸の荒いユウに、久々に微笑みかける。
ユウは顔を思いきり不機嫌にさせてずかずかとキッチンへ行った。
「木は?」
「立ったままだよ。あいかわらず」
見なくても、背中を向けたままでも今師匠が悪戯に微笑んだんだとわかった。
歯軋りをして鍋の中に切った人参とジャガイモを投げるように放り込む。
「それじゃ、どうしてここにいるの?まだ木は立ったままなんでしょ?」
師匠の挑戦的な返事に、ユウは顔をしかめた。
木が折れるまで帰ってくるなってか。
ユウはそれでも拳を握り締めて、玉ねぎを高速で切っていた。
「わかってるよ。夕飯作るのと風呂焚きに帰ってきただけだよ!」
その言葉にあら、と師匠は微笑む。
ユウは気づいていなかったが、その微笑みは悪戯な微笑みではなく、優しい微笑みだった。
バンッと乱暴に師匠の前にシチューを差し出す。
師匠は無邪気な笑顔を見せ、いただきますと言った後何とも美味しそうにシチューを口に運ぶ。
ユウは元々自分の分など作らず、師匠に夕飯を出したあと急いで家の裏に回り、薪をかまどの中へ放り込んでパチンと指を鳴らして風呂の準備を始めた。
とたんに小さな火が指からかまどの中へと飛ぶように燃えた。
まだこんな小さな火を扱うのに少し力加減がわからないが、教えるよりも慣れた方がいいと師匠は言った。
師匠は本当に俺に教える気があるのだろうか?
木筒にふーっと息を吹き込み、炎が燃え盛るのを確認してからユウはふと横を見た。
少しユウと距離を置いて、アライグマが二匹、こちらをじーっと見ていた。
師匠は呼びかければ手つだってくれると言っていた。
でも、呼びかけるってどうやって?
「あのー」
アライグマはじっとこちらを見つめている。
ユウは恥を捨て、思い切って話しかけてみた。
「手伝って・・・もらえない?」
木筒をそっと差し出してみる。
アライグマは差し出されたそれをじーっと見つめたあと、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
そしてそっと木筒を手にとってそれを覗いたりしてじーっと見つめている。
そしてユウの方をちらっと見たあと、かまどに木筒の穴を向け、アライグマは思いきりふーっと息を吹き込んだ。
ユウはそれを見て思わず笑い出した。
「上手い上手い。じゃ、そんな感じであと頼んでいいかな」
アライグマはこくんとうなずく。
ユウは何かおかしくて、ははっと笑いながらその場を後にした。
向かうのはもちろん木のある丘の上。
絶対に折ってみせる。あんな木。
ユウは拳を握りしめ、強く意気込んだ。