霧の中の孤島
気づくともう頭上には青空が広がっていた。
雲の流れが速い。
今日は少し風がある。
眠りから目覚め、あたりの様子を見まわすと昨夜と同じくまだ小舟の上で波に揺られていた。
二、三人しか乗れないほど小さな小舟は、魚がぴちゃんと飛びはねば簡単に船の中に入って来られるほど海面が近い。
小さなランプしか明かりの無い夜の海は、恐怖でしかない。
最も、今まで暗闇で暮らしてきたユウにとっては恐怖という存在を恐怖に感じる事は無かったが、ランプと月明かりが映り揺らめく海面を覗きこむと、鏡の様に映る自分の姿の下で凶暴で残忍な何者かがこちらを見上げているようでどうも落ち着かなかった。
ただ「ついてこい」と言われるがままついていき、長い間舟の上で揺られる事になったユウは正直言ってまだ女性を信用したわけではなかった。
女性は舟に乗ってから、一言も言葉を発していない。
沈黙が、海の怪しさを引き立てる。
瞼が重かったが、こくんと首が落ちそうになる度に海に落ちてしまいそうで、そしてこちらを見上げる得体の知れない何者かに喰われるような気がして眠る気にはなれなかった。
だが、気がつくといつのまにか朝がきていた。
目の前には昨夜と同じく女性が座っている。
昨夜と同じく、じっと水平線しか見えない南の方を見つめている。
寝ていないのだろうか、と思いながら女性の横顔を見つめていたら、女性がふとユウが起きた事に気づいた。
何か言われるかと思ったが、女性は微笑みもせず今度は反対側の海を見つめた。
そのとたん、あっというまに辺りが霧で包まれた。
何が起こったのかとユウは女性の見つめる北の方に目をこらしたがそこには霧しか見えなかった。
「この霧は、何だ?」
ユウの問いに、女性が答える気配は無い。
もしかして女性の罠にかかったのか、とユウは表情には出さぬよう思考を巡らせた。
この霧からして、それは十分に考えられる事だった。
おそらくこの霧は特別な魔法がかかった霧で、魔法をかけた者が許す者以外の侵入を拒み、身を隠すための霧だ。
そんなもの、身を隠す必要があるものしか使うはずがない。
つまり、この女性は<悪い奴>の可能性がある。
すると、霧の中にうっすらと何かが見えだした。
それは徐々に濃くはっきりと見えるようになり、そしてそれが小島だと気付くのにそう時間はかからなかった。
乗っていた小舟に繋がっているロープを橋にくくりつけ、橋に降りた女性に続いてユウも降りた。
着いたのは小さな小さな孤島。
大きく息を吸うと、芝生や木々や花々の匂いに混じって潮の香りがする。
耳を澄ませば、穏やかに揺れる波の音がする。
ユウは見た事の無い慣れない風景に、物珍しそうにじっと辺りに見入っていた。
海面から陸までは数十メートルもあり、可愛らしい小島にしては不釣り合いな断崖絶壁で出来ている。
そして今いるこの小さな橋は一本の小道につながっており、その小道からはずいぶんと急勾配な坂で上へと続いている。
小道以外の地面はほとんど芝生で埋まっており、道際には野花が咲いている。
急な坂を登りきるとそこからは緩やかな小道が芝生が広がる広場の向こうにある木造の家へ続く道と、果物畑へ続く道の二つに分かれる。
そして芝生の広場の向こうには小さな森が見え、ここからでは遠くてよく見えないが小動物が森からこちらを見ている。
初めて見る少年に興味を持っているのだろうか。
そして女性についていくと、木造の二階建ての小屋の前へついた。
一見ログハウスのような外見で、孤島のわりには結構綺麗な家だった。
そして外には物干しざおがあり、薪が積み重なってある。
この孤島は女性の感じとは裏腹にどこか全体的にメルヘンチックな風景だった。
「あー疲れた。あー眠い。私、寝るわ」
「はあ?」
そう言うと女性は小屋の扉を開いて大きな欠伸をしながら小屋の中へ入って行った。
放置され小屋の前にどうしていいかわからず棒立ちしている少年に、再び小屋の扉が開いて女性が言った。
「探検でもしてきたら?この島小さいから一日あれば回れるでしょ」
そして再び小屋の扉がしまる。
ユウはしばらく閉まったその扉を見つめた後、おずおずと後ろを振り返った。
森からこちらを見る小動物達と目が合った。気がした。
見たところ、わかるのは兎に鹿、栗鼠に狐程度だった。
しかし、じーっと微動だにもせずユウを見つめている。
気まずい。
「・・・・・・・あー・・・えっと」
遂に耐えられずユウは目をそらした。
そしてユウはとりあえず小動物達は気にしない事にして、小道をたどっていくことにした。
まずついたのは果物畑。
ラズベリーやブルーベリー、木にはリンゴや見た事の無い果物までなっている。
すると、オレンジの木の陰から三匹の兎がこちらをじっと見ていた。
さきほどよりも至近距離で、今度こそは目をそらすわけにはいかなかった。
すると、三匹の兎が互いに何か話している。ように見える。
もちろん、何を話しているのかさっぱりだったがやはり、人間のように何かを話しているように見えた。
そのとき、一匹の兎が他の二匹の兎に背中を押されてぴょんと前へ飛び出した。
その兎は少しおろおろと戸惑っていたが、ついに腹をくくったのかユウの目の前へ飛び出してきた。
「ミュ、ミュミュイ」
兎が突然、何かを喋り出した。
器用に後ろ脚二本で立ち、身ぶり手ぶりで何かを話している。
だが、全く言葉がわからない。
もちろん、兎の言語など到底理解できるはずがないのだが。
「あ、えっと・・・」
今まで殺人しかしてこなかったと言っていい程の生活を送ってきたユウは、目の前にいる兎に非常に戸惑っていた。
変にメルヘンなこの状況に、出会った事もないしまさか出会う事になるとは考えもしなかった。
すると、兎はユウに背中を向け、右手をひょいとあげてとっとこと走り出した。
ついてこいと?
ユウは困惑したまま、兎を無視するわけにもいかず、とぼとぼと兎について行った。
その後、兎の後ろをついていくと、他の動物達も勇気をだしたのかユウに接触してきた。
まず森の小道を歩いていると、木の陰から鹿が二匹出てきた。
そしてまた歩いていると、木の枝からリスが顔を覗かせ、そっと鹿の背中の上へと乗った。
気づけばいつの間にか、ユウの後には小動物達の列ができていた。
後ろでは心なしか、動物達が自分についてひそひそ話をしているように思えた。
だが、そんなはずはないとユウはとりあえず気にしない事にした。
森の小道はとても美しく、木漏れ日が眩しくて木々のざわめきが耳に心地よく入ってきた。
草木をすりぬけて通ってくる風は涼しく、枝葉を揺らして去っていく。
暗く陰気な牢屋同然のところで寝食し、新鮮な外の空気を吸う時は誰か人を殺す時。
太陽の光など浴びる事もなく、浴びたとしても光など感じる事の無かった世界。
そんな生活を送ってきたユウは今、堂々と光を目にし、この体で浴びている。
たった一日で何が起こり、今どうして自分はここにいるのかと、まるで夢ではないだろうかと何度も疑う程だった。
「うっわ、何?パレードでもやってんの?」
振り返るとそこには女性がいた。
眠そうに頭をかきむしりながら、しわくちゃのカッターシャツ姿で立っている。
「いやー、眠ろうと思ったんだけどさ。腹減ったなって思って」
相変わらず眠たそうな口調で女性は言った。
そして女性は動物達の方へ振り向き、目の前の鹿の頭をなでた。
「あ、このコはユウって言って今日からここ住むから。ま、仲よくしてやって」
女性がそう言ったとたん、動物達はそれぞれの鳴き声で女性に返事を返した。
その光景には目を疑ったが、女性は馴れた感じで再び動物達に話しだした。
「多分しばらくは出かけないわね。このコの面倒もあることだし。え、何でこいつがここに住む事になったか?ま、それは明日にでもゆっくり話すわ」
まるで女性は動物達と会話をしているようだった。
そのあと、女性は人間の言葉で動物達に別れを告げ、それを動物達も理解したのかあとをついてこようとはしなかった。
ユウは女性の後姿を見ながら、小道を歩いていた。
「動物って、人間の言葉わかるの」
「いや?私が動物にわかるように喋ってただけ」
「え、でも人間の言葉普通に喋ってたじゃねーか」
「あなたも動物だから私の言葉が理解できるだけでしょ」
むうとユウはふくれっ面になってみせた。
すると女性は悪戯に笑って言った。
「あなたが今まで住んでいた世界とは全く文化も常識も違うから、そのギャップに戸惑っているのよ。直に慣れるわ。あせらなくても」
「・・・・・・ここ、地球だろ?」
「ええ、地球よ」
「なんか、やけに現実離れしたメルヘンチックなところだよな」
「そうかしら。あなたが今まで住んでいた世界があまりに陰気くさすぎただけじゃない?」
そうなのかもしれない、とユウは半分渋々と納得した。
そして小屋の前へと辿り着いた。
女性はキイと軽そうな木製の扉を開け、中へ入って行く。
少し躊躇したものの、ユウも女性に続いて中へ入った。
そこまで広くもないが、女性一人が生活するには広い家だった。
キッチンとリビングが同じ空間にあり、女性一人のはずなのにダイニングテーブルと4つのイスがあった。
他の部屋らしきところへと続く扉が三つあり、二階へと続く階段が見える。
「・・・一人暮らし?」
「そうよ。何?独り身かって聞いてんの?」
「いや、別に」
「座ってな。適当に」
ユウは言われるがまま、少し戸惑いながらもイスに腰かけた。
女性は手慣れた手つきでキッチンで何かを作っているようだった。
初めての感覚に、ユウは自分がかなり戸惑っている事に気づいていた。
「よっと」
女性はシュッとユウに向かって皿を投げた。
慌ててユウは料理を落とさぬように皿をキャッチした。
女性は調子に乗ったのか、次々と料理を投げてくる。
「ちょっと、投げんなよ」
「まあまあ。さて、いただきます」
女性はフォークとナイフをユウに手渡し、ユウの向かい側の席へ腰をおろした。
目の前に出されたのは、ベーコンエッグとフレンチトースト。
女性はベーコンエッグをまるで子供のように口いっぱいに含んで、何かが足りない事に気づきぱちんと指を鳴らすと2つホットミルクが現れた。
ユウは、もぐもぐと食べ進める女性を前に、まだナイフとフォークを持てずにいた。
もちろん、あんな生活をしていてもナイフとフォークぐらい使い方は知っている。
ただ、戸惑っていた。
エル・ドラゴでのユウの部屋は地下にあった。
湿気が多く陰気で、昼もろうそくを灯さないといけないほど薄暗くて年中じめじめしていた。
夏は熱気がこもって蒸し暑く、冬は外ほど寒くは無かったが毛布一枚しか無かったので毎年手と足にひどい霜やけができるほど底冷えした。
見た目も設備もほとんど地下牢同然の場所で、ユウは逃げ出さないようにずっと監視されていた。
そのため部屋は格子で仕切られていて、任務以外で部屋から出る事は許されない。
また娯楽も何も許されず、家具はベッドとトイレしか無い。
することなど鍛練しか無く、ユウはただ毎日黙々と自分の身体を鍛えていた。
もちろん、食事も運ばれてくるだけで部屋の中でベッドに腰かけて食べる。
毎日毎日同じメニュー。
玄米、豆と芋と菜っ葉の汁に茶。
たまにおかずもあったが、あってもなくても変わらないに等しいものだった。
「食べないの?」
ユウはハッとしたように女性を見上げた。
女性は聞いたものの返事を求めてはいないらしく、再び食事に集中していた。
嗅ぎ慣れない不思議な食欲をそそる香ばしい香りに、無意識にユウはフォークとナイフを手にしていた。
そしてユウはフォークをベーコンエッグに伸ばした。
その瞬間、ユウの目の前にナイフの刃が向けられた。
一瞬、何が起こったかわからずに硬直した。
女性の鋭い目線がユウを睨みつける。
「・・・・・・いただきますは?」
「い、いただきます」
「はい、よろしい」
女性は何事も無かったかのように再びフレンチトーストにかじりついた。
ユウは困惑したまま、とりあえずベーコンエッグを口に入れた。
美味しい。
まず、味よりも先に口の中に広がったのは中まで通っている暖かさ。
あの冷えたご飯とスープとは何もかもが違うように思えた。
「昼からはさ、とりあえずあなたのすべき事を一通り教えるわ」
「・・・・俺、今日からここに住むの?」
「はあ?何を今さら」
最後の一口を口に放り込み、女性ははっと吐き捨てるように笑う。
ユウはフォークでベーコンエッグを一口、口に入れた。
温かいものを口に入れたのは数年ぶりで、じんわりとその温かみが体中に広がっていくようだった。
感動しているのか、ユウはなるべくその感情を顔に出さないように努力した。
「あなた、私の弟子になるんでしょ?」
「誰もなるなんて一言も言ってない」
「あ、そう」
女性はふいとどこかを向き、ホットミルクを一気に飲み干す。
本当に、この女性は最初会った時の第一印象と現在の印象とかなり変わった。
最初は淑女を思わせる気品漂う上品な女性だったが、今では口調も態度も乱暴で身勝手だ。
「じゃ、ついておいで」
女性はガタンと大きな音をたてて立ち上がった。
ユウはベーコンエッグを食べ終えたばかりで、急いでフレンチトーストをミルクで喉の奥へ流し込んでそのあとを追った。
女性はキッチンへと移動し、フライパンを戸棚から取り出した。
「メニューは自由。でも私の気に入らないものつくったら承知しないから」
ユウは女性が何を言っているのかわからず、とりあえず口を挟まずただ女性の言う事を聞いていた。
女性は間を置くことなく早口でどんどん話を進める。
「あなたがどういう生活をしてきたのかわからないけど、とにかくこの島にはガスも電気も通ってはいない。魔法の使えない市民がガスとか電気だとかいう科学文明で生活している事は知っているわよね?そういうの私、嫌いなのよ。だから火は自分で起こして」
女性はパチンと指を鳴らした。
するとボッと一瞬で炎が立つ。
ユウは目を見開いた。
今まで魔法というのは戦闘でしか使わず、戦闘でしか使う事のないものだと思っていた。
こんな生活面でも使うことがあるのか。
「あなた、もしかして戦う事でしか魔法を使った事無かったりする?」
突如図星をつかれてユウはうろたえた。
女性は微笑みもせず、返事を待たず話を進めた。
「戦闘用の魔法しか知らないのなら、細かい生活での魔法は意外に難しいものよ。こんな小さな火、起こしたこと無いでしょう」
「いや、敵を追って洞窟や暗い通路へと入りこんだときに辺りが見える程度の小さな火をつけることならあった」
「けど、火加減なんてもの知らないでしょう」
火加減?
聞き慣れない単語にユウは眉間にシワを寄せる。
それに気づいているのか、しかし女性は話を進める。
「料理した事がないなんて、言い訳だから」
さらりと言い捨て、女性は「次」と言ってキッチンを去った。
つまり、今度から俺に飯の支度をしろと?
無理だ。
しかし、女性はもうすでに家の外だった。
ユウはあわててそのあとを追った。
「洗面所に置いてあるカゴの中の物と、キッチンとトイレに置いてあるタオル、それから一週間に一回はマットやクッションも。布団は月に一、二回洗うだけで普段は干すだけ」
どうやら今度は洗濯の話らしい。
壁にたてかけてあった大きな桶を女性はパチンと指を鳴らして呼び寄せた。
「火と違って、水というものは簡単には出せない。攻撃用の水はともかく、綺麗で純粋な水を求めるなら」
すると女性は森の方を指差した。
思わずユウもそちらに目をやる。
「森に入って少し行ったところに川がある。そこで汲んでこい」
面倒臭そうだな、と思いながらユウはため息をつく。
それに気づかなかったのかはたまた気づかぬフリか、女性はすたすたと家の中へ入っていった。
ユウはやっと終わったか、と思ったが次の瞬間バンッと勢いよく扉があいた。
「次で最後よ」
まだあるのか、とでも言いたそうな面持ちでユウは再びため息をついて家の中へ入っていった。
すると女性は箒とモップと雑巾を手に立っていた。
ユウが来ると、その全てを無言でユウに手渡した。
「次は掃除。範囲は主に全部。床、テーブルの上、窓からカーテンまで隅々まで。以上の事を午前中までに済ませる事」
「午前中?」
無茶だ、とばかりにユウはため息をついた。
今度は完全に無視で女性は言うだけ言って、一階の一番奥の部屋の扉を開けてふとこちらを振り返った。
「ココ、私の部屋ね。あなたの部屋は二階の一番奥」
そう言って女性は扉を閉めようとしたが、ユウがそれを遮った。
「あ、あのさ」
「あ?」
不機嫌な顔でこちらを振り向く。
その直後に女性は大きな欠伸をして見せた。
どうやらこの女性は眠いときはかなり不機嫌なようだ。
「名前、まだ教えてもらってないけど」
「ああ・・・・呼び名?」
女性は頭をかいて、しばらく考えた様子だったが面倒臭そうに言った。
「師匠とでも呼んで」
それだけ言ってさっさと女性は部屋の中へと消えた。
ユウは大きくため息をついた。
冗談じゃない。
誰もまだあんな奴の弟子になるなんて一言も言っていない。
それに、ただ乱暴に雑用を押しつけられただけとしか思えない。
おそらくあいつは俺を弟子ではなく、ただの召使いとして連れてきたのではないだろうか。
誰かこんなとこに居るか。
雑用を押しつけられるぐらいだったら、一人で生きていく方がましだ。
どこかの盗賊ギルドにでも所属して、戦って働く方がまだいい。
ユウは乱暴に家の扉を閉め、その場を去った。




