第六話:気配と羽根と、いつもと違う一日
昨夜は、結局あれから何も起こらなかった。
しかし、あの言いようのない胸騒ぎと、石段に残された二枚目の羽根、そして不思議な香りの記憶は、ほのかの中で消えることなく燻っていた。だからだろうか、今朝はコッコの元気な「朝コッケー!」よりも早く、自然と目が覚めてしまった。
空はまだ薄暗い。隣で眠るコッコの寝顔は穏やかだが、ぴくりと耳(にあたる部分の髪)が動く。何かを感じ取っているのかもしれない。
ほのかはそっと布団を抜け出し、社務所の引き出しから昨日しまい込んだ一枚目の羽根を取り出した。そして、石段の下で拾った二枚目の羽根と並べてみる。深い藍色、七色の光沢、ひんやりと温かい感触。やはり同じものだ。
「ほのか、起きたコケー? お腹すいたコケー?」
いつの間にか起きていたコッコが、目をこすりながら近づいてきた。
「おはよう、コッコちゃん。ねぇ、これをもう一度見てみてくれる?」
ほのかが二枚の羽根を差し出すと、コッコは一瞬興味深そうに目を向けたが、すぐに顔をしかめて数歩後ずさった。
「やっぱ、やだコケ。なんか……ぞわぞわする……」
そう言って、自分の腕をさすっている。昨日よりも明確な拒否反応だ。
「そう……。分かったわ」
無理に見せるのはやめておこう。ほのかは小さな桐の箱を探し出し、二枚の羽根をそっとその中に収めた。この羽根は、一体何なのだろう。そして、持ち主は何者なのだろうか。
その日は、いつも通りの日常を過ごそうと努めた。
朝ごはんを食べて、境内の掃き掃除。コッコは相変わらずミミズを探そうとしたり、蝶々を追いかけたりしていたが、ふとした瞬間に動きを止め、じっと森の奥や、神社の入り口である石段の方を見つめることが何度かあった。
「コッコちゃん、どうかしたの?」
「……んーん、なんでもないコケ。……風の音、へんコケ?」
そう言うコッコにつられるように、ほのかも耳を澄ませる。しかし、聞こえるのはいつもの木々の葉ずれの音だけだ。それでも、一度気になり始めると、些細な物音がやけに大きく聞こえたり、風もないのに軒下の風鈴がちりんと鳴ったような気がしたりして、落ち着かない。
(昨日のことで、神経質になってるだけよね……)
自分に言い聞かせるが、胸のざわめきはなかなか消えてくれなかった。
お昼ごはんの準備をしていると、台所に漂う味噌汁の香りに混じって、ふわりと微かな香りがした。昨日嗅いだ、あの甘くてスパイシーで、薬草のような不思議な香り。
「……!」
ほのかが手を止めると、隣で配膳の手伝い(という名のつまみ食い阻止)をされていたコッコも、くんくんと鼻を動かした。
「……あ! この匂い! 昨日と同じコケ!」
「コッコちゃんも分かる?」
「うん! ちょっとだけしたコケ! お花じゃない……なんか……」
二人で顔を見合わせる。しかし、その香りはすぐに掻き消えてしまい、後にはいつもの台所の匂いが残るだけだった。気のせいだったのだろうか。いや、でもコッコも感じたのだから……。
午後はさらに落ち着かなかった。
拝殿の鈴が、また微かに鳴った気がした。縁側で本を読んでいても、背後に誰かの気配を感じて、何度も振り返ってしまう。そのたびに、そこには誰もいないのだけれど。
コッコは縁側を行ったり来たり、時折、空の一点を睨むように見上げて「うー……」と低い唸り声を上げたりしている。明らかに何かを警戒している様子だ。
「大丈夫よ、コッコちゃん。私がそばにいるから」
そう言って頭を撫でてやると、少しだけ落ち着いたようだったが、それでも不安げな表情は消えない。
陽が傾き、夕暮れの茜色が境内を染め始めた頃。
ほのかは社務所の窓から、何気なく外を眺めていた。石段、鳥居……いつもと変わらない風景。そう思いかけた時、ふと鳥居の朱塗りの柱に、見慣れないものがあることに気づいた。
近づいてよく見てみると、それは爪で引っ掻いたような、数本の細い傷跡だった。昨日までは、確かこんなものはなかったはずだ。鳥か、あるいは小動物の仕業だろうか?
そう思いながら視線を下に落とした、その時。
「……!」
ほのかは息を呑んだ。
鳥居の柱の根元、地面の上に、また一枚、あの七色に光る羽根が落ちていたのだ。
しかも、今度はただ落ちているだけではなかった。風に飛ばされないようにか、あるいは、わざとそこに置いたことを示すように、小さな丸い石が、羽根の上にちょこんと乗せられていた。
「……やっぱり……誰か……」
拾い上げた三枚目の羽根。ひんやりと温かい感触が、手のひらに伝わる。これはもう、偶然ではない。何者かが、この神社を訪れている。そして、この羽根を意図的に残していっている。
一体、誰が? 何のために?
敵意があるようには感じられない。むしろ、何かを伝えようとしているような……?
分からない。分からないけれど、確かなことは、自分たちの穏やかな日常に、未知の存在が静かに介入してきているということだ。
社務所に戻ると、コッコはすでに疲れたのか、縁側で小さく丸くなって眠っていた。けれど、その寝息はいつもより少し浅く、時折身じろぎをしている。
ほのかは、三枚目の羽根をそっと桐の箱にしまった。箱の中で、三枚の羽根が互いに引き寄せられるように、微かに光を放った気がした。
「これから、どうなるのかしら……」
静まり返った社務所に、ほのかの小さな呟きが響く。
鶏石神社に漂う、見えない来訪者の気配。
それはまだ、はっきりとした形を見せないけれど、すぐそこまで近づいている予感がした。ほのかとコッコの明日は、もう昨日までと同じではないのかもしれない。
静かな夜が、再び二人を包み込んでいく。胸騒ぎを抱えたまま。