プロローグ
朝靄がまだ木々の梢に淡く絡みつく、そんな早い時間。
緑深い山あいに抱かれるようにして、鶏石神社は静かに息づいている。古びた石段は苔むし、境内には大きな欅の木が影を落とす。その名の通り、ここは古くから鶏を神聖な生き物――豊穣をもたらし、夜明けを告げる吉兆の使いとして祀ってきた、少しばかり寂れた神社だ。
巫女の月代ほのかは、いつものように白衣と緋袴の裾を捌きながら、箒を手に境内へと足を踏み出した。高齢の祖父に代わり、この神社のあれこれを一人で切り盛りするようになって久しい。
ひんやりとした朝の空気。鳥たちの穏やかなさえずり。そして、境内の隅にある鶏小屋から聞こえてくる、いつものコッコたちの鳴き声。
今日も昨日と同じ、静かで穏やかな一日が始まるはずだった。少なくとも、数分前まではそう信じて疑わなかった。
「…………ん?」
掃き掃除の手をふと止め、ほのかは首を傾げた。
いつもなら、もうとうに活動を始めているはずのニワトリたちが、妙に静かなのだ。それに、何か違和感がある。空気の揺らぎ、とでも言うのだろうか。
訝しみながら鶏小屋へと近づいた、その時だった。
「ほのかー! 朝コッケー!! おはようコッケー!!」
鼓膜を突き破らんばかりの、元気いっぱいの声。
それは明らかに人間の少女の声だったが、語尾に妙な、しかし聞き覚えのある響きが混じっていた。
驚いて顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
鶏小屋のすぐそばに、小さな女の子が立っていたのだ。
年は十歳くらいだろうか。寝癖なのか、ぴょこんと跳ねた栗色の髪の毛の束が、まるで小さなトサカのように見える。朝日に透ける肌は健康的な小麦色で、くりくりとした大きな瞳が好奇心に輝いている。
問題は、その服装だ。いや、服装と呼べるのかすら怪しい。明らかに神事に使う白布の一部と思われる布を、申し訳程度に体に巻き付けているだけなのだ。
ほのかが呆気に取られて固まっていると、女の子は太陽のような笑顔を向けてきた。そして、なぜか両腕をバタバタと、まるで羽根を動かすように振り回している。
「……え? えっ? だ、誰……あなた?」
ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。近所の子が迷い込んできた? いや、この辺りにこんな子はいないはずだ。そもそも、この登場の仕方は異常すぎる。
女の子は、きょとんとした顔で小首を傾げたかと思うと、足元の地面を興味深そうに指でつんつんとつつき始めた。何かを探しているような仕草。ミミズでも探しているのか。
その、あまりにも見慣れた仕草に、ほのかの脳裏にある可能性が雷のように閃いた。まさか、とは思う。ありえない。けれど。
「……も、もしかして……コッコ、ちゃん?」
神社のニワトリたちの中でも、とりわけ人懐っこく、食いしん坊だった名古屋コーチンの名前。恐る恐る口にすると、女の子はぱっと顔を上げ、満面の笑みで力強く頷いた。
「そうコケ! わたし、コッコ! 今日から人間コケ! よろしくコケ!」
そう言って、ぺこりとお辞儀をする。その拍子に、頭のアホ毛がぷるんと揺れた。
「…………。」
ほのかは、目の前の現実(?)と、頭上の青空を交互に見上げた。
どうやら、自分の静かで穏やかだった日常は、今この瞬間、けたたましい「コッケー!」の音と共に、終わりを告げたらしい。
これは、緑豊かな田舎の神社で繰り広げられる、おっとり巫女さんと、元ニワトリのちょっと(かなり?)変わった女の子の、騒がしくも温かい、そしてお腹の空く日々の物語。
始まりはいつも、突然に。そして、だいたいお腹が空いているのだ。たぶん。