8月3日(土)-5
女将の先導で、旅館の中を歩いていく。
再び一階におりたものの、最初に訪れたロビーには向かわず、エレベーター乗り場から奥の方へと向かっていく。
「こちらには、温泉がございます。時間内でしたら、どうぞお使いください」
にこやかに、女将は言う。本当は、そんな温泉なんて呑気につからずに、娘を何とかしてほしいだろうに。
女将が示した方には、なるほど、のれんが二つかかっている。「紳士」「婦人」と書かれた紺と赤ののれんが、ひらひらと揺らめいている。
温泉に入る入り口前を横切り、さらに奥へと進む。すると、いったん宿の外へと出てしまった。スリッパでも行ける、屋外通路だ。屋根と腰までの壁があるので、雨に濡れるということはない。
屋外の左側には生け垣があり、もわっと湯気が立ち昇っている。あちらに露天風呂があるのだろう。逆側である右側には、中庭がある。
真ん中に池があり、赤や白、黒の鯉が優雅に泳いでいる。周りに小川が流れており、さらさらと心地よい水の音が響く。
「すごい中庭ですね」
ほう、と思わず私は息を吐きながら言う。女将は微笑み「恐縮です」と軽く頭を下げた。
思わず出た言葉に、私はあっと口をふさいだが、もう遅い。圭が苦い顔をしてこちらを見ている。
仕事、仕事だもんな。悪かったよ、圭。
それにしても、見事な中庭だ。真ん中の池を囲うように、四つの区分に分かれている。そのうちの一角には見事な朝顔と小さなヒマワリが植えられている。
「四季になっているんですか?」
中庭を眺めながら、私は尋ねる。女将は「はい」と答え、いったん立ち止まる。
「あちらから、春、夏、秋、冬、と、どの季節でも楽しめるようになっております。花や木は、ちょっとずつ変えておりますので、毎回違う顔を見せてくれますよ」
へぇ、と感心しながらぐるりと中庭を見渡した。
(あれ?)
ふと、池の上にかかった橋の上に目を留めた。
何があるわけでもない。橋自体も、別段おかしいところはない、朱色の橋だ。壊れているわけでもなく、かといって新しすぎるわけでもない。
それなのに、なぜか、違和感がぬぐえない。
「悪い。娘のところに連れて行ってくれないか」
小首をかしげていると、圭が口を開いた。女将は「はい」と頷き、また歩を進めた。
「あ、すまない」
私は慌てて圭に謝る。圭は小さくため息をついたのち、肩をすくめる。
「まあ、仕方ないと思うけどさ」
そうだよな、こんなに綺麗な庭だもんな。
私は小さく頷き、女将と圭についていく。
屋外通路を抜け、旅館に戻るドアを通り過ぎ、さらに奥の方へと進んでいくと、小ぢんまりとした家にたどり着いた。
「こちらが、私ども家族の住んでいる、離れになっております」
女将はそう言い、玄関のところでスリッパを取り出した。私は靴を履き替え、ありがたくスリッパを借りたのだが、圭は靴を脱ぎ、さらに靴下まで脱いで裸足になった。
「悪いけど、裸足であがらせてもらう」
「ええ、それは構いませんが。何しろ、散らかっておりまして」
「足の裏の心配なら、しなくていい。それより、裸足で上がるのを嫌がる人もいるから、そっちのが悪い。でも、譲れない」
圭は淡々と女将に告げる。女将は「はい」とだけ頷いた。恐らく、女将が何を言おうとも圭が裸足以外で上がることをしないと、分かったのだろう。
「あの、圭くん。私も裸足になった方がいいかな?」
「要らない。俺だけで、いい」
すう、と圭は息を吸う。そうして、強く踏みしめるように、だむ、と女将の家に上がった。
女将は「こちらです」と言い、圭と私を奥の部屋へと誘った。女将は散らかっていると言っていたが、一切そんな風には見えない。もちろん、旅館の完璧な綺麗さはないのだろうが、一般家庭として十分綺麗に片付いているし掃除もしてある。
我が家とは、段違いである。
奥の部屋に続く襖を、つう、と女将は開いた。畳の部屋に、布団が敷いてある。そこに、少女がすうすうと寝息を立てて眠っている。
どう見ても、普通に眠っているようにしか見えない。
「娘の、有姫です」
圭はうなずき、有姫のそばに座った。掌でそっと、有姫の頭に触れる。
暫く頭に手を置いてから、圭は眉間にしわを寄せる。
「……ない」
「ない?」
「魂が、ない」
「魂って……死んでるってことか?」
驚いて尋ねると、女将が「え」と言いながら口元に手を当てている。
「違う。動揺させるな。魂が、ここにないだけだ。肉体は生きてる。魂も他で生きてる。だから、今は眠っている状態になっている」
「他って……一体どこに」
「遠くはないだろうな。だから、この家から出そうとすると、体が急激に冷え、心臓の音が弱まる」
魂と体が引きはがされそうになるから、ということだろうか。
「状態は分かった。次は、背景を知りたい」
圭はそう言い、女将に向き直る。
「一週間前、と言ったな。一週間前……いや、ここ一か月くらいで、何か変わったことがなかったか、教えてほしい。どんな些細なことでもいい。それこそ、急にお菓子が好きになったとか、そういう心に留まっただけの事でもいい」
圭が告げると、女将は口元に手を当てたまま、考え込む。どことなく、顔が青い。
無理もない。この体に魂がない、と告げられたのだ。しかも、合点がいく説明までされたのだ。
「……友達が、できた、と」
「友達?」
「一か月前でしょうか。急な発熱で、保育園を休むことになったんです。その日はお客様も多く、私も主人も有姫につきっきりで看病することができなかったため、従業員の手も借りつつ、様々な人間で看病をしていました。ですが、どうしても間が空いてしまいまして」
女将が再び考え込む。詳細に、その時の様子を思い出そうとしているのだろう。
「確か、夕方だったと思います。ついててくださった仲居さんと私が交代したのですが、こちらに来る途中にお客様に会いまして、少し話をしました。思いのほか長くなり、慌ててこちらに来たのを覚えています」
□ □ □ □ □
女将は慌てて家に上がる。体に変わりはないか、水分は取れているか、寂しがってないか。気が気ではなかった。
「有姫、大丈夫?」
そっと襖をあけた。もしかしたら、眠っていたかもしれないから。
「おかあさん」
有姫の嬉しそうな声がした。起きていたのだ。
女将は有姫に近づき、そっと額に手を当てる。まだ微熱はあるのかもしれないが、ずいぶん熱が下がっている。
「お腹は空いてない? 喉は?」
「うん、ちょっと、喉がかわいた」
女将はコップにスポーツドリンクを入れ、起き上がった有姫に渡す。有姫はぐびっと一気に飲み干した。
「もう一杯、飲む?」
「ううん、もういい」
有姫はそう言うと、再びごろんと横になる。
「おかあさん、また仕事?」
「ごめんね。もうちょっとしたら」
女将は胸が締め付けられる。客商売の、辛いところだ。子どもが元気な時はいいが、病気の時は仕事に行くのが心苦しい。
「大丈夫よ。有姫、お友達、できたから」
「お友達?」
「うん。だから、さみしくないよ」
有姫はそう言って、そばに置いてあるクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
(ずっと一緒にいるぬいぐるみだけど)
女将は不思議に思ったが、嬉しそうな有姫に「まあいいか」と思い直した。
夢の中でぬいぐるみと遊んだり、話したりしたのかもしれない。それで、新たなお友達だと思い込んでしまったのかもしれない。
「お名前は、なんていうの?」
女将の問いに、有姫はにっこりして答えた。
「しいちゃん」
どことなく聞いたことがある名前だと、女将は思った。保育園にいるお友達で、そういう名前の子がいたのかもしれない。自分は、保育園のお友達を、全員把握できてないのだから。
「しいちゃんと、一緒にいてね。もし何かあったら、電話してね」
女将はそう言い、有姫のそばにあるキッズケータイをちらりと見た。1番に登録してある電話番号は、旅館の電話だ。必ず誰かが取れるし、番号で従業員はすぐ察してくれる。
有姫はこっくりと頷き、目を閉じた。愛娘の姿に離れがたさを感じつつも、女将は「いってくるね」と声をかけてから離れを出たのだった。
□ □ □ □ □
話し終え、女将は「それからなんです」と続けた。
「保育園での話には、しいちゃんは出てこないんです。ですが、この家で一人遊びをしているときは、ほぼ出てきていました。それで、クマの名前をしいちゃんにしたんだ、と」
女将はそう言い、有姫の傍らで寝かされている、クマのぬいぐるみを手に取った。
「ちょっと、貸してくれないか」
圭はそう言い、クマのぬいぐるみを手に取る。そうして、何かをつまんだ。
目には見えない、何か。私の目には、何も映らない。
圭はそのつまんだ何かを、口へと持って行く。そうして「なるほど」と小さく呟いた。
「このクマに、そのしいちゃんとやらがいたっぽいな。しいちゃん、しいちゃんね……」
圭はそう言いながら、女将に向き直る。
「さっき、なんとなく聞き覚えがあるって言ってたよな。それ、思い出せた?」
女将は少し考えたのち、首を横に振った。
「じゃあ、思い出したら教えてほしい。あと、そうだな……この家の周りを、ぐるっと回ってみていいか?」
「はい、もちろんです」
女将は答え、立ち上がった。圭もクマを有姫の隣で再び寝かせ、ぽん、と有姫の頭に手を当てた。
「待ってろよ」
ぽつり、と小さな声で、有姫に言った。決意を秘めたように。