表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/20

8月3日(土)-4

 温泉宿、春花に到着したのは、午前十時。出発からきっちり二時間後であった。

 途中で45分の休憩をはさみつつも、予告通りに到着したのは、さすがとしか言いようがない。


「すごいですね、片桐さん。本当に十時に着くなんて思いませんでした」

「いえ、途中の休憩が一時間半でしたら、予定到着時刻がずれるところでございました」


 にこやかに言う片桐さんに、私は感心する。おそらく、最初に到着時間を告げた時から、彼の頭の中には圭の休憩時間が入っていたのだ。それを踏まえての二時間。

 特段飛ばしたとも思わなかったし、遅いとも思わなかった。

 すごい運転技術だ。


「それじゃ、行くか」


 圭が荷物片手に春花に向かう。私も慌てて後を追う。片桐さんは「お気をつけて」と声をかけたのち、車へと向かっていく。


「なあ、圭くん。片桐さんは、宿に泊まらないのかい?」

「片桐を拘束するわけにはいかないだろ? 片桐には片桐の仕事がある」

「今から帰る方が大変じゃないかい?」

「それがあいつの仕事だろ?」


 きょとんとして、圭が言う。

 確かに、片桐さんはドライバーという職業だ。運転をし、連れてい来ることが仕事なのだから、ここで果たすべき仕事はないのだろう。


 だが、なんというか、せっかく来たのに。


 戸惑う私を察し、圭は小さくため息をつく。


「あのな、おっさん。片桐にとってさ、運転は仕事だし、おっさんが思うほど苦じゃないんだ」

「だが、運転って結構疲れるじゃないか」

「そりゃ疲れるだろうけど、それが仕事だろ? あと、片桐は生粋のドライバーだ。俺がものを食べるのと同じ感覚なんじゃないかな」

「ものを食べるのと同じって」

「食べることも、体力気力を使うじゃん。俺にとっての食べることと、片桐の運転することはほぼ同じようなもんだ」


 ううん、と私は唸る。言いたいことは分かる、ような気がするが。


「要は、気にするだけ無駄ってこと。下手すると、片桐にとっての運転は、俺らにとっての呼吸と同じかもしれないから」


 そのレベルまで出されると、何も言えない。

 一応、納得はできないが納得をするようにした私を見、圭は歩きだす。すると、中から着物を着た女性が、私たちに向かって来るのが見えた。


「いらっしゃいませ」


 頭を下げる女性に、圭が名刺を渡す。それを見た女性は、一瞬はっとした表情を浮かべたのち、すぐににこやかな表情へと変えた。


「ようこそおいで下さいました。お部屋にご案内いたします」


 落ち着いた大きな引き戸を、からからと女性は開く。すると、広々とした美しい空間が中に広がっているのが見えた。


 ふわ、と木の香りがする。

 フロントのところにはきちっと着物を着た、美しい男女が背筋を伸ばして立っている。端に置かれた大きな鉢には、心が和むような草花が主張しすぎることなく飾られている。

 決して、豪華絢爛、というわけではない。落ち着いた雰囲気に、心がほっとするような空間。それでいて、一つ一つが丁寧な飾られ方をしている調度品。


 不思議と「帰ってきた」と思わせられた。


 決して実家は、こんなに上品で高い家ではない。小ぢんまりとした、どこにでもある家だ。

 それなのに、この雰囲気が、空気が「帰ってきた」と思わせるくらい、ほっとさせてくれる。

 見事としか、言いようがない。


「お荷物、預かります」


 従業員らしき男性が手を差し出したが、圭がそれを「いや、いい」と断った。


「あまり大したものはないですし、自分で持ちますから」


 な、と私の方にも圧をかけてきた。私も、こくこくと頷く。

 というか、ちゃんと敬語使えるんだな、圭。

 従業員は「かしこまりました」と頷き、下がる。さすがだ。


「お部屋は二階、桜でございます」


 エレベーターホールに向かいながら、女性が言う。女性の後に続きながら、桜とやらに向かっていく。歩くたびに、ふわふわとした絨毯の触感が心地よい。

 部屋は二階の一番奥にあり、入り口も引き戸になっていた。からからと音をさせながら開けたのち、女性は中に入るよう促した。

 圭は遠慮なく部屋に入っていくので、私も後に続く。中に入ると、ふわ、とイグサの香りがした。


 中に入ると、窓一面に広がる美しい風景に圧倒された。

 山と川が織りなす、自然豊かな風景は、一枚の絵画のようだ。そして部屋。きょろきょろとざっと見ただけで、私が今住んでいる部屋よりも広く美しいことが分かる。


 もう二度と、泊まれないかもしれないから、目に焼き付けておかなければ。


 ぽかんと口を開けていると、後ろからからからという音が聞こえた。女性が戸を閉めたのだ。

 圭は荷物を置き、座椅子に腰掛ける。私も同じように、座椅子に座らせてもらった。座布団が、ふかふかだ。


「申し遅れました。私が依頼いたしました、女将でございます。この度はご足労頂き、ありがとうございます」


 女将はそう言い、頭を下げた。改めて見ると、顔立ちが整った、上品な美しさを携えた人だ。


「桂木だ。こっちは、助手」


 私を指して、圭が言う。先程までの丁寧な口調は、もうない。


「畏まりました。こちらの部屋は、解決していただくまで好きに使っていただいて構いません。一部の従業員にも話を通してあります。ですが、できれば、他のお客様に気づかれないようにしていただけると、大変助かります」


 女将が頭を下げた。


「善処する。まずは、話を聞かせてほしい」


 圭の言葉に、女将は「はい」と答えて口を開く。


「私の娘、有姫のことです。この旅館を経営している主人と共に、5歳になる有姫を可愛がっているのですけれど、一週間前から目を覚まさないのです」


 5歳の娘さんが、一週間も! それはさぞ、気が気でないだろうに。


「病気、ではないんですよね?」


 私が尋ねると、女将はこっくりと頷いた。


「医者に見せたのですが、原因は不明だそうです。ただ、眠っているだけと」

「病院には、行かれたのですか?」

「それが、家から連れて出ようとすると、急激に体が冷え、心臓の音が弱まるのです」


 圭の表情が変わる。ぴん、と張りつめたような。


「つまり……この家から出れない。家の中にいる分には、眠っているだけ」


 圭の問いに、女将はうなずく。圭は立ち上がり「じゃあ」と口を開く。


「その娘に、会わせてもらえないか?」


 女将は頷き、また引き戸の方へと向かった。圭もそれに続く。

 私も慌てて立ち上がり、女将の圭に続くのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ