8月3日(土)-4
温泉宿、春花に到着したのは、午前十時。出発からきっちり二時間後であった。
途中で45分の休憩をはさみつつも、予告通りに到着したのは、さすがとしか言いようがない。
「すごいですね、片桐さん。本当に十時に着くなんて思いませんでした」
「いえ、途中の休憩が一時間半でしたら、予定到着時刻がずれるところでございました」
にこやかに言う片桐さんに、私は感心する。おそらく、最初に到着時間を告げた時から、彼の頭の中には圭の休憩時間が入っていたのだ。それを踏まえての二時間。
特段飛ばしたとも思わなかったし、遅いとも思わなかった。
すごい運転技術だ。
「それじゃ、行くか」
圭が荷物片手に春花に向かう。私も慌てて後を追う。片桐さんは「お気をつけて」と声をかけたのち、車へと向かっていく。
「なあ、圭くん。片桐さんは、宿に泊まらないのかい?」
「片桐を拘束するわけにはいかないだろ? 片桐には片桐の仕事がある」
「今から帰る方が大変じゃないかい?」
「それがあいつの仕事だろ?」
きょとんとして、圭が言う。
確かに、片桐さんはドライバーという職業だ。運転をし、連れてい来ることが仕事なのだから、ここで果たすべき仕事はないのだろう。
だが、なんというか、せっかく来たのに。
戸惑う私を察し、圭は小さくため息をつく。
「あのな、おっさん。片桐にとってさ、運転は仕事だし、おっさんが思うほど苦じゃないんだ」
「だが、運転って結構疲れるじゃないか」
「そりゃ疲れるだろうけど、それが仕事だろ? あと、片桐は生粋のドライバーだ。俺がものを食べるのと同じ感覚なんじゃないかな」
「ものを食べるのと同じって」
「食べることも、体力気力を使うじゃん。俺にとっての食べることと、片桐の運転することはほぼ同じようなもんだ」
ううん、と私は唸る。言いたいことは分かる、ような気がするが。
「要は、気にするだけ無駄ってこと。下手すると、片桐にとっての運転は、俺らにとっての呼吸と同じかもしれないから」
そのレベルまで出されると、何も言えない。
一応、納得はできないが納得をするようにした私を見、圭は歩きだす。すると、中から着物を着た女性が、私たちに向かって来るのが見えた。
「いらっしゃいませ」
頭を下げる女性に、圭が名刺を渡す。それを見た女性は、一瞬はっとした表情を浮かべたのち、すぐににこやかな表情へと変えた。
「ようこそおいで下さいました。お部屋にご案内いたします」
落ち着いた大きな引き戸を、からからと女性は開く。すると、広々とした美しい空間が中に広がっているのが見えた。
ふわ、と木の香りがする。
フロントのところにはきちっと着物を着た、美しい男女が背筋を伸ばして立っている。端に置かれた大きな鉢には、心が和むような草花が主張しすぎることなく飾られている。
決して、豪華絢爛、というわけではない。落ち着いた雰囲気に、心がほっとするような空間。それでいて、一つ一つが丁寧な飾られ方をしている調度品。
不思議と「帰ってきた」と思わせられた。
決して実家は、こんなに上品で高い家ではない。小ぢんまりとした、どこにでもある家だ。
それなのに、この雰囲気が、空気が「帰ってきた」と思わせるくらい、ほっとさせてくれる。
見事としか、言いようがない。
「お荷物、預かります」
従業員らしき男性が手を差し出したが、圭がそれを「いや、いい」と断った。
「あまり大したものはないですし、自分で持ちますから」
な、と私の方にも圧をかけてきた。私も、こくこくと頷く。
というか、ちゃんと敬語使えるんだな、圭。
従業員は「かしこまりました」と頷き、下がる。さすがだ。
「お部屋は二階、桜でございます」
エレベーターホールに向かいながら、女性が言う。女性の後に続きながら、桜とやらに向かっていく。歩くたびに、ふわふわとした絨毯の触感が心地よい。
部屋は二階の一番奥にあり、入り口も引き戸になっていた。からからと音をさせながら開けたのち、女性は中に入るよう促した。
圭は遠慮なく部屋に入っていくので、私も後に続く。中に入ると、ふわ、とイグサの香りがした。
中に入ると、窓一面に広がる美しい風景に圧倒された。
山と川が織りなす、自然豊かな風景は、一枚の絵画のようだ。そして部屋。きょろきょろとざっと見ただけで、私が今住んでいる部屋よりも広く美しいことが分かる。
もう二度と、泊まれないかもしれないから、目に焼き付けておかなければ。
ぽかんと口を開けていると、後ろからからからという音が聞こえた。女性が戸を閉めたのだ。
圭は荷物を置き、座椅子に腰掛ける。私も同じように、座椅子に座らせてもらった。座布団が、ふかふかだ。
「申し遅れました。私が依頼いたしました、女将でございます。この度はご足労頂き、ありがとうございます」
女将はそう言い、頭を下げた。改めて見ると、顔立ちが整った、上品な美しさを携えた人だ。
「桂木だ。こっちは、助手」
私を指して、圭が言う。先程までの丁寧な口調は、もうない。
「畏まりました。こちらの部屋は、解決していただくまで好きに使っていただいて構いません。一部の従業員にも話を通してあります。ですが、できれば、他のお客様に気づかれないようにしていただけると、大変助かります」
女将が頭を下げた。
「善処する。まずは、話を聞かせてほしい」
圭の言葉に、女将は「はい」と答えて口を開く。
「私の娘、有姫のことです。この旅館を経営している主人と共に、5歳になる有姫を可愛がっているのですけれど、一週間前から目を覚まさないのです」
5歳の娘さんが、一週間も! それはさぞ、気が気でないだろうに。
「病気、ではないんですよね?」
私が尋ねると、女将はこっくりと頷いた。
「医者に見せたのですが、原因は不明だそうです。ただ、眠っているだけと」
「病院には、行かれたのですか?」
「それが、家から連れて出ようとすると、急激に体が冷え、心臓の音が弱まるのです」
圭の表情が変わる。ぴん、と張りつめたような。
「つまり……この家から出れない。家の中にいる分には、眠っているだけ」
圭の問いに、女将はうなずく。圭は立ち上がり「じゃあ」と口を開く。
「その娘に、会わせてもらえないか?」
女将は頷き、また引き戸の方へと向かった。圭もそれに続く。
私も慌てて立ち上がり、女将の圭に続くのだった。