8月3日(土)-3
車に乗り込むと、既に圭が乗っていた。傍らには、先程ガラス越しに見た山盛りの土産物が入った紙袋が置いてある。
「相変わらず、よく食べるね」
「気になるものは気になる時に、処理したい方だから。俺」
ああ、良かった。やっぱり早めに集合しろの話はない。
ちゃんと、五分前集合が許される仲になれたらしい。
「あと3分ほどありますが、出発しましょうか」
「はい、宜しくお願いします」
車はゆるやかに発進する。圭は早速、土産物の紙袋をがさがさと漁っていく。
「そういや、おっさんも何か買ったんだな」
「会社用のお土産に。こういうのは、気が付いた時に買っておかないと、忘れちゃう気がして」
「いいんじゃない? なんなら俺が食べてやるし」
いや、それは遠慮したい。
暫く進むと、片桐さんが静かに「桂木様」と声をかける。
「例のトンネルに入ります」
「相変わらずか?」
「はい、土地柄として、祓いきれない場所のようです」
「なら、仕方ないか」
はあ、と圭はため息をつく。不穏な会話だ。
「おっさん、さっき俺が言ったこと、覚えてるか?」
「ええと、下っ腹に力を入れるとかいう」
「それ。後、もう一つ。絶対に、俺や片桐の名を呼ぶな」
「え、ああ」
私は返事するものの、いまいちよくわかっていない。どうしてか聞きたいが、二人の雰囲気がそれを許さない。
「じゃあ、やるか」
圭は、ティッシュで手を拭いてから、ぱん、と手を叩く。
いや、違う。叩く、ではない。まるで神社で打つ……。
――柏手。
一つ叩くだけで、音が車内に響き渡る。耳の奥まで、じいん、と震えているかのようだ。
「この車は、現の車。過ぎ去るだけの、邪魔せず車。異なる次元の存在を、介入させぬ車なり」
――ぱんっ!
再び、圭が柏手を打つ。後頭部座席でジャンプしているわけではないのに、なんとなく、ぶわん、と車全体が揺らいだ気がした。
「トンネルに入ります」
片桐さんの静かな声と共に、車はトンネルへと入っていく。
なんてことはない、トンネルだ。私も何回か、車で通ったことがある。その時は、ちょっと長くて薄暗いトンネルだな、としか思ったことはない。
特段珍しくもなんともない。ただのトンネル。
しかし、先程の片桐さんと圭の会話から、既にこのトンネルがただのトンネルとは言い難いのだろうことは予想がついた。私にはそういった能力はないのだが(厄付と圭に言われたが、未だに実感はない)能力がある圭が動いているのだから、間違いない。
(そういえば、初めて圭くんの能力を使う様子を、見るのかも)
柏手を打ちながら、小難しいことを口にしていたな、と私は思い返す。
(ええと、確か、この車は、現の車、だっけ)
私は圭が先程言っていたことを思い返す。ざっくりといえば「この車は普通の車だから」だったか。
(そんなことを、なんで言うんだ?)
私が小首をかしげ、ふと窓の外を見ると、誰かが立っているような気がした。
事故でもあったのか、電話をかけようとして端の通路にいるのか、はたまた点検の人か。
(いや、違う)
私の背に、つう、と汗が滴る。どれだけ目をぱちぱち開け閉めしても、その人物がぼんやりとした輪郭をたどるだけで、はっきりと見えることがない。そうしてまた、車が走っているというのに、いつまでもその人物の大小が変わらない。
思わず「ひっ」と声を上げそうになるが、なんとか耐える。そうして、ぐ、と私は腹に力を入れた。最近、ちょっぴり、ほんのちょっぴり気になっている、下っ腹の肉がぷるぷると震えだすほどに。
ぼんやりとした人物は、ゆるりゆるりと動いている。柏手を打ったままの状態だった圭が、小さく舌打ちをしながら「捕らえられたか」と呟いた。
「重き心は、空へと還る」
――ぱんっ。
今一度、圭が柏手を打つ。すると、ゆらゆらと動いていた人物が、ぴくり、と震わせたように見えた。
「軽き心は、地へと還る」
トンネルはまだ続いている。車は走っている。緩やかすぎて分かりにくいが、速度が出ている。それでも、あのぼんやりとした人物は同じ大きさで、震えている。
「汝、空か地へと還り給え。還りし証に、光と成れ」
――ぱんっ!
より一層強い音が、車内に響く。私の鼓膜が、びりびりと震える。全身にその振動が伝わり、私の体全体が震えているかのようだ。
力を入れ続けている下腹部に、ついには息苦しささえ感じるような気がしたその時、ぱあ、と淡い光が辺りを包んだ。そうして、一瞬のうちに光は消える。
一瞬だった。
それは間違いない。それでも、私にとっては、長い長い一瞬だったようにも思える。
「……お見事でございます」
片桐さんが、静かに言葉を紡ぐ。圭は「いや」とだけ答え、ふう、と息を吐きだした。
「応急処置だ。またいつ出てきてもおかしくないし、俺はそっちの専門じゃないから、これくらいしかできない」
「専門じゃないのに、あれだけできれば十分でございます」
二人の不思議な会話に呆然としていると、圭が気づき、にやりと笑う。
「もういいよ、おっさん。多分、あそこまでひどいのはもうないから」
私は、はあ、と大きく息を吐きだす。下腹部に力を入れ続けるのは、なかなか大変だということが分かった。
「あれが何か、聞いてもいいのかい?」
「あ、やっぱり見えたのか。さすが同調」
う、と私は言葉に詰まる。褒められても、嬉しくない。
「あれは、ここら辺の土地やトンネル内で事故った時に、亡くなった人達の集合体。あのままだったら、その地について動けなくなる」
「地縛霊ってことかい?」
「そうだな。でも、まだ厄にはなってないから、喰えない。車も走ってるし、この車も介入しないと約束させての走行をしているから、喰らうという行為はできなかったから」
「最初に言っていた呪文みたいなやつだね」
「呪文、まあ、そうか。呪文、か」
くすくすと圭が笑う。いや、だって、そういう言葉しか出ないだろう。
「だから、還る手伝いをした。俺には、喰らうか手伝いするかしかできない」
「還るって、どこに? 天国とか?」
「天国とか、極楽とか、あの世とか、地獄とか。よくわからないけど、そういうところなんじゃない?」
えらく曖昧だな。
不満そうな私に気づき、圭が「だってさ」と言葉を続ける。
「俺には、そういう死者が行く場所が本当に存在しているか、知らないからさ。だけど、あのまま留まるのはよくないということは分かる。おっさんだって、見てしまっただろ? だから、向こうは認識されたと思い、存在を確立しようとした」
「その言い方だと、私が見なかったら、何も無かったみたいだ」
「みたいもなにも、その通りだよ。おっさんは見た。亡くなった人の集合体を、認知した。それであれは自らの存在を確立した。だから、俺は還る手伝いをした。それだけだよ」
「もし私が見なかったら」
「この車は普通の車なんだから、素通りする」
圭は、ううん、と伸びをする。
「きりがないんだよなぁ。ああいうのって、こういう吹き溜まりみたいなところにすぐ集まるし、かといって放っておきすぎると認知できる人間が増える。やっぱり、この道路を管理する会社と定期契約したい」
「そうすると、桂木様の仕事が増えますね」
「俺じゃないって。もっとうまくやる奴がやるんだって」
「圭くんの他に、いるのかい?」
「当たり前じゃん。俺一人で全部請けてたら、俺、過労死するわ」
「そんなに忙しいのかい?」
特殊な仕事だと思っていたから、そんなにたくさん仕事があるものだと思ってもみなかった。私が驚いていると、圭は軽くむっとする。
「そんな状態なら、俺、この仕事で食っていけないだろ」
「まあ、そうだね。食費、すごそうだもんな」
傍らに置いてある土産物袋を見て、私は言う。
「とりあえず、おっさん。あんまり目を合わせるなよ。俺の仕事が増えるからさ」
私はこっくりと頷き、はあ、と小さくため息をついた。
心霊体験をしたことがなかったから、一度くらいはしてみたいとはしゃいでいたのは本当だ。だが、正直、一度で十分だ。
もういい。あんな体験は、一度でいい。
「おっさん、下っ腹。忘れないで」
圭から声を掛けられ、私はびくっと背筋を伸ばす。
その様子を見て、圭がにやりと笑ったのを、視界の端でとらえる。
私は今一度ため息をついたのち、ぐ、と下腹に力を入れた。
もしかすると、帰る時には下腹のウエストが減っているかもしれない。3センチほど。