8月3日(土)-1
無事、有休の申請も通り、12連休が始まった。
いつもならば布団の中でごろごろしながら「あーそろそろ起こるか、いや、寝るか」みたいなやりとりを自分の中で行うのだが、今日は違う。
普段通り、6時半にせっとした目覚ましで起床し、身支度を整える。
「温泉か」
ちらりと一泊用の荷物を見、私は呟く。
何年ぶりだろうか、温泉なんて。大学時代の友人と、社会人になりたての頃に行ったくらいか。
ここ最近では、温泉を思い立っても、せいぜい近所にあるスーパー銭湯にいって満足していた。
一日、だらだらと風呂に入ったり寝転んだりご飯を食べたり寝転んだり……と、怠惰な時間を過ごせるものだから、つい。
「どこの温泉なんだろう。もっと詳しく聞いておけばよかったかな」
私は呟くが、直後に「いやいや」と思い直す。
行き先が分からないとわくわくするし、行く途中の話題になっていいかもしれない。何しろ、圭と私は出会ってからまだ二日しか経っていない、浅い関係性なのだから。
私は家の中をぐるりと見まわし、戸締りと忘れ物がないかを確認した。狭くて決して綺麗とはいいがたい我が家だが、何かあったらショックを受ける。愛着はしっかりとあるのだから。
「よし、行ってきます」
無人の部屋に私はいい、鞄を手に出かけた。もちろん、鍵をしっかりかけておくのも忘れない。
一泊とはいえ、家を留守にするのだ。
□ □ □ □ □
待ち合わせのドーナツ屋前に着いたのは、約束した時間の五分前だった。社会人としてのマナー、五分前集合は完璧だ。
ふと見ると、既に圭が立っていた。軽そうなボディバッグをかけ、こちらをじろりとにらんでいる。
「おはよう、圭くん。って、遅かったかい?」
「遅いね。俺、もう五分前に来てた」
「五分前って言うと、約束の時間の十分前だけど」
「お互いそんなに知った仲じゃないから、約束の時間より早め早めに来るのが当然だろ?」
「いや、初めて聞いたけど」
「俺の中ではそうなの」
そうか、それなら仕方がない。
私はとりあえず「遅くて、ごめん」と謝っておく。
「それで、どこの温泉に行くんだい? 電車で行くなら、駅に行かなきゃ」
「車で行く」
「車? 圭くん、運転できるのかい?」
「運転は、してもらうんだよ。ほら、あれに乗って」
圭はそう言うと、つい、と離れたところに停まっている車を指さす。白いセダン、ちょっと高そうな車だ。
「……誰が運転するんだい?」
「おっさん、やりたい?」
「いや、なるべくならしたくない」
「なら、やっぱりやってもらうか。運転手に」
圭はそう言うと、車の方へすたすたと歩いていく。私は慌てて追いかけ、同じく車へと近づいた。
車に近づくと、勝手に後部座席の扉が開いた。タクシーのようだ。
「それじゃ、よろしく」
「はい、かしこまりました」
運転席の方から、落ち着いた声がする。当然のように乗り込んでいく圭に促され、私も車へと乗りこむ。
「おはようございます。ええと、宜しくお願いします」
声をかけながら乗り込むと、運転席に座っている初老の男性から「はい、かしこまりました」と返答があった。
さながら、執事のようだ。
「ええと……圭くんは、どこかのおぼっちゃまか何かなのかい?」
「はぁ?」
「いや、だって、お抱えの運転手さん、とかなんだろう?」
「んなわけないだろ? この人は、うちの会社のドライバーだよ。俺個人なわけがない」
「はい、左様でございます。ドライバーの、片桐、と申します」
運転手の片桐さんは、そういってくすくすと笑う。ちょっと、恥ずかしい。
「それでは、出発いたします。途中でサービスエリアに寄り、到着予定は二時間後でございます。ただし、何かありましたらいつでもお申し付け下さい」
「うん、よろしく」
簡素に圭が答え、車が緩やかに発進する。
滑らかな走り出した。私は一応、車の免許は持っており、仕事周りでも使っているため、それなりに運転はできると思っている。だが、今乗っている車の乗り心地は、段違いだ。
つう、と滑っているような感覚がある。
車がいいのもあるかもしれないが、やはり片桐さんの運転技術が高いのだろう。
「それで、圭くん。今日はどこに行くんだい?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
きょとんと圭が返す。聞いてないが、言った気にはなっていたようだ。
「椿温泉の、春花っていう温泉宿」
「しゅ、春花? 本当に?」
思わず前のめりになる。シートベルトがピンと伸びるのを感じる。
そんな私に圭は驚いたように「なんだよ」と返す。
「いきなり何なんだよ。びっくりするじゃん」
「だ、だって、春花って、高級温泉宿じゃないか。予約は半年待ち、料理も温泉も最高で、サービスはもう帰りたくないという客が出るほどだとか」
「……そうなんだ」
「死ぬ前に一度くらいは行ってみたかったところなんだ。すごいなぁ、思いもよらなかった」
「そりゃ、良かったな」
苦笑交じりに圭が言う。圭はあまり楽しそうな雰囲気はない。やはり、仕事として赴くからだろうか。
そう考えると、私ばかりはしゃいでしまっては申し訳ない気がする。
「まあ、おっさんは俺に厄を提供する役目もあるし、それくらいいい思いをしてもいいんじゃない? 万が一があっても、死ぬ前には行けることになるし」
「なんだか、さらりと不審なことを言わなかったかい?」
「え、どれ?」
「万が一って」
私が突っ込むと、圭は「ああ」と言って笑う。
「依頼内容的に、死ぬことはないとは思うんだけどさ。ほら、こういうのってたまーに俺の想像を超えてくることがあるんだよ。そうした場合、おっさん大丈夫かなって」
「大丈夫、とは」
「だって、おっさんは厄付だろ? 厄がいっぱい引き寄せられるだろ? そのくせ何の対処もできないだろ? 俺が喰らうくらいでさ」
その通り、その通りだけれども。
「とりあえずは楽しむことだけ考えてりゃいいんじゃない? 俺は、ほら」
圭は手を伸ばし、私の肩辺りを掴み、それを口元に持って行く。「喰らうだけだから」
肩が軽くなる。
ああ、二日前に喰らわれたというのに、また厄とやらがついていたのか。
「圭くんは、やっぱり仕事だから、温泉宿が楽しみには思えないのかい?」
「うーん、まあ、あんまり。温泉自体がそこまで好きじゃないし。それよりも今は、サービスエリアのフードコートの方が楽しみ」
「フードコートか……確かに、あれはちょっとわくわくする」
「いいよな、その土地の名物が一堂に集まってる感じ。土産物も小さいやつなら全種類買って食べてもいいしさ。外に出てる露店とかも、いい感じなんだよなぁ」
今度は違う意味でさらりとすごいことを言っていた。
全種類? 全種類って言ったか、圭。
「圭くん、朝ごはんは?」
「食べてきたけど。あのドーナツ屋で」
また大量なんだろうな……。
私は二日前に見た、トレイ上にできていたドーナツの山を思い出す。
「圭くんは、大食いなんだな」
「大食いって言われると分からないけど、厄とはまた違うところで腹が減る」
それを、大食いというのでは。
「それでも、太ってないよね」
「自分じゃ分からないんだよな。標準体型っていうのが、いったい何を基準としているか分からないし、だからと言ってそれに合致するからどうだって感じだし、別に本人と周りが困らないのなら、体型なんてどうだっていいと思ってる」
なるほど、それならば大食いと言われてもピンとこないのかもしれない。
私はそっと、自らの腹をさする。
私は、こんなにも、ちょっぴり出ている腹を気にするのになぁ。
「お二方とも、もうすぐサービスエリアでございます。いかほど休憩時間を取りましょうか」
片桐さんが声をかける。いつの間にか入っていた高速道路の標識に、サービスエリアの表記が見える。
「30……いや、45分」
圭が私に何も告げずに答える。別に構わないが。
「かしこまりました」
片桐さんは特に何も言うことなく、承諾する。
それにしても、45分。休憩時間にしてはなかなかに長い。
だが、トイレだけではなく、食事や土産物を見るのならば、仕方ないか。
私は土産物を全種類買う圭を想像する。レジの人はさぞびっくりするんだろうな。
「なんだよ、おっさん。いきなりにやにやしやがって」
はっとして口元抑える。
いかんいかん、つい顔に出てしまったようだ。
「いや、その、楽しみだなって」
「そういうことにしといてやる」
――ばれたかな?
私がそう思っていると、ゆるりと車が停車した。
サービスエリアに着いたのだ。