8月2日(金)
会社に出社すると、上司がさっそうと近づいてきた。
「昨日は、直帰したとか」
「はい、帰社しても終業時間に間に合いそうもなかったので」
「もう少し効率よく回れなかったのかね?」
「すいません。クライアントとの話が盛り上がりまして」
私はそう言いながら、取りまとめた話を上司に報告する。発注を受けるという結果を出していたので、上司からの嫌味はそこで打ち止めとなった。
ふん、と鼻を鳴らしたのちの「今後は気を付けたまえ」付きで。
(いつもより、短い気がするな)
私は時計をちらりと見る。いつもならば、もう少し長いように思う。何しろ、上司は嫌味を言うときくらいしか人と会話しないのでは、と思うほど、嫌味を言うのが好きなのだ。多分。
事務員さんに言付けたことも、追加で嫌味がくると思っていたのに、拍子抜けだ。
(これ、昨日、厄を食べてもらったからか?)
子供の頃に自分内ではやっていたファンタジーの世界を彷彿とさせる、違う世界の話。昨日、圭と別れた後も軽く興奮していた。
漫画や小説、ゲームやアニメといった、フィクションの世界で広がっていた世界に似ている、と。
心霊現象だと言っていたので、どちらかというと「あなたの知らない怖い世界」みたいな、ホラーに近いのだろうが、そういったものを「喰らう」とか「ひきつける」とか言われると、どうしても胸が躍る。
いわゆる中二病。
片目が疼いたり、額に第三の目が開いたり、手の甲に紋章が現れたりする、例のあれ。
(もちろん、私もちょっとは体験したわけで)
私は過去を思い出し、頬を赤くする。
訳もなく名前の端につけた、十字架。
カッコイイ使い魔を召喚するなら、こんな魔方陣を書いて呪文を唱える。
周りの友人は知らないだけで、自分は密かに闇の世界に呼ばれている……などなど。
今思えば「大丈夫?」と突っ込みたくなる。いや、むしろ「すべて忘れて」とお願いしたくなる。
幸いなのは、今のようにスマホが主流ではなかった事と、家族友人にばれなかったことだ。謎の使命を受けているので、誰かに話すと命を狙われてしまう、という設定だった。危なかった。
謎の設定を付けた自分だけは、ほめてやりたい。
「あの、大丈夫でしたか?」
事務員さんが、こそ、と声をかけてきた。昨日、電話を受けてくれた女性だ。
「はい。いつもの事ですし……それよりも、私の直帰を伝えたせいで、ご迷惑をかけていませんか?」
「大丈夫ですよ。それこそ、いつもの事ですし」
ふふ、と彼女は笑う。左手に輝く結婚指輪が、同僚としての気遣いなのだと念を押してくる。
いや、期待してもいないが。分かっている、分かっているとも。
「営業さんは大変なんですから、直行直帰をうまく使ってくださいね」
悪戯っぽく彼女はいい、自らの机に戻っていく。私も「はい」と返事をしたのち、椅子に座って仕事に入る。
手帳を開き、明日のところに「8時にドーナツ屋前」と書いてある。
(あの夜、メッセージが届いたんだよな)
渡した名刺に書いてあったメアドに、簡素な文章で。
「明後日、8時にドーナツ屋前に集合。よろしく」
メッセージの書き込みが、面倒なのかもしれない。若い子はラインが主流だし、長文は書かない傾向にあるという。だから、メールメッセージというものが煩わしいのかもしれない。
以前、部下とラインでやり取りした際、息もつかせぬスタンプと短文の波に驚いたことがある。何しろ、こちらが何かメッセージを送る前に、相手のものが表示されるのだ。
スタンプと短文によるメッセージに、判断力と行動力のよさが感じられて、なんだかおもしろくなった。
ならばと私も挑戦しようとしたが、これができない。スタンプ一覧を見ると、最初から多種多様なスタンプが並んでおり、その一つ一つを確認していくと膨大な時間を要するのだ。
しかも、動作があるものまで存在するため、相手への返事としてどれが最適なのかという答えを導き出すのに時間がかかりすぎてしまう。
私は、潔く文章で返した。一応、スタンプの事もほめておいた。
それはさておき、圭と約束をしてしまっている以上、明日はよほどのことがない限りその約束を果たさなくてはならない。
ついでに、昨日計画した「有休いっぱいとっちゃって、だらだら過ごしてやるぞ」案件実行のため、有休の申請を行わなくては。
申請書に記入し、タイミングを見計らう。
提出先は総務だが、上司にも報告がいく。どうせいくのなら、機嫌がいい時がいいのだが。
ちらりと上司を見ると、心なしか楽しそうに電話をしているのが見えた。どうやら、得意先から良い条件での発注を受けたようだ。
(今がチャンスか?!)
私は立ち上がり、総務部長に申請書を提出する。総務部長は朗らかに笑い「盆前はほとんど申請してないし、大丈夫ですよ。楽しんでくださいね」と返してくれた。
いい人だ。
私は礼を述べ、机に置いてあるビジネスバッグを掴む。
ご機嫌な電話が終わった後、人のいい総務部長から報告を受ければ、そこまで機嫌も損ねまい。ついでに、嫌味を言おうとしてもその当人がいなければ、ヒートダウンできるはずだ。
「よし」
スケジュール帳を確認し、ボードに出先を書き込み、自社を後にする。
アポは11時。余裕を持ったスケジュールは、きっと大切なことだ。
たとえ、アポ先が40分あればいけるところで、現在の時刻が9時半過ぎだとしても。
「楽しみだなぁ、温泉」
点滴だろうが栄養剤だろうが、どうだってよくなってきた。何しろ、明日から温泉旅行なのだ。
この際、厄付とか厄喰らいとか、いったん忘れておけばいい。
とりあえず、今日くらいは。