8月13日(火)-2
ドーナツ屋の前で、圭は「よ」と言いながら手を挙げた。
「久しぶり、おっさん。あれから何もなかった?」
「何もないよ」
あえていうのならば、あっという間に時間が過ぎて行ったことだろうか。
圭は私を見て、ぷっと噴き出す。
「つか、何でスーツなの? 仕事でも行ってた?」
「君が、偉い人と会わせるって言うから」
私服で良かったらしい。
それでも、社会人としてはスーツで会う方がいいのではないか、と思い直す。
私の判断は、きっと間違ってないはずだ。多分。そうであってほしい。
圭は「じゃ、行くよ」と言うと、歩き始めた。
「ここから近いのかい?」
「近い。すぐそこのビル」
圭が差す方には、大きなビルがそびえたっている。ホテルのような、綺麗なビルだ。商業施設やオフィスなどが多数入っている、総合ビルだ。
圭は躊躇もなく自動ドアをくぐり、奥の方にある「関係者以外立ち入り禁止」と書いてある扉の方へと向かう。扉横には何らかのセンサーがあり、そこに圭が手を当てると、扉の鍵が開く音が響いた。
「指紋センサーなんだ。おっさん一人じゃ入れないから、もし何か用があったら、そこのインターフォンで呼んでくれたらいいから」
センサーの横に、インターフォンが設置してある。
「ここって、このビルに入っているオフィスやお店の人が入るところだろう? インターフォンを押しても、どこにつながるか分からないじゃないか」
「このインターフォンは、うちの会社にしか通じないようにできてる。というか、この扉自体もそう。他の会社の人は、あっちを使うから」
圭が差す方には、オートロックマンションの入り口のような自動ドアがある。
「別なのか」
「そう、別。ここは、華の持ってるビルだから」
「華?」
「社長? とかそういうの」
やはり、ふわっとしている。
そうか、華さん、と言うのか。女性だろうか。
「自己紹介は、本人にしてもらった方がいいだろ」
圭はそう言い、扉の向こうにあるエレベーターへと向かう。
扉の向こうに、エレベーター。なんだか、不思議な光景だ。
圭は「開く」のボタンを押し、エレベーターに乗り込む。中には開閉ボタンと、扉のところにあったセンサーしかない。
圭はセンサーに顔を近づけ「閉める」ボタンを押した。
「さっきは指紋認証で、今度は網膜認証?」
「一応、そうなってる。目が使えないときは、手でもいいんだけど、俺は面倒だから顔を近づけてる」
エレベーターは静かに動き出した。体感的に、下へと向かっている。表示もないし、階層ボタンもないから、一体どこに向かっているかが分からない。
とりあえず着ておこう、とスーツの上着を着ていると、エレベーターが止まり、扉が開いた。
扉の向こうは、だだっ広い空間だった。マンションやホテルのロビーに近いかもしれない。円形にぐるっと広がり、扉がいくつもついている。
「すごいところだね」
「あっちが居住エリア。そこが多目的エリア。んで、こっちが会社エリア」
ざっくりと圭が扉を指して教えてくれる。
「居住、ということは、圭君はここに住んでいるのかい?」
「便利じゃん」
「そうだろうけれど」
親や兄弟はいないのかな、と思ったが、別にいいかと思い直す。
務めている会社に住めるのならば、通勤時間がかからなくていいじゃないか。
圭は会社エリアの扉を開ける。受付カウンターがあり、座り心地が良さそうなソファがあり、奥の方にデスクが置かれている。会議室や込み入った話をするような応接室もありそうだ。
ごくごく一般的なオフィスに見える。
「突然お呼びだてして、申し訳ございません」
カウンターの裏から、女性が現れた。
綺麗な人だ。
顔の作りが整っているのはもちろんなのだが、さらりと長い黒髪も、上品なしぐさも、心地よく感じるような声も、どれも綺麗な人だ。
私は思わず、頬を赤らめる。
「あ、あの、初めまして」
私はそう言いながら、名刺を差し出す。それを受け取り、彼女もまた名刺を渡してくれた。
株式会社 浄華 代表取締役社長 鈴駆 華。
そう、名刺には書いてある。
それを見て、今一度華嬢を見る。
うーん、女性の年は分からないとは言うものの、こんなに大きなビルを持ち、一癖ありそうな会社を経営している社長という肩書を持つとは思えないほど、若く見える。26,7歳くらいだろうか。
とはいえ、年齢を聞くのは大変失礼だ。好奇心をぐっと抑え込む。
「どうぞ、こちらへ」
華嬢はそう言い、奥にある応接室へと誘った。こちらのソファも、ふわふわしてそうだ。
勧められるがままに、ソファに座る。
なんという……これはなんという心地よさ。尻を包み込まれているかのようだ……!
「コーヒーで、よろしいですか?」
「あ、はい。すいません、いただきます」
「俺、オレンジ」
「自分でとってきてもいいのよ?」
「いや、おっさんのついでだろ?」
「全く、もう」
華嬢はそう言いながら、応接室を後にする。彼女自ら入れてくれるというのだろうか。
ちょっと、どきどきする。
「おっさん、落ち着け」
「え、な、何が?」
「華が綺麗だからって、浮かれてるから」
「い、いや、そんなことは……あるけれど」
私が言うと、圭は肩をすくめて「やれやれ」とこぼす。
圭にはわからないのだ。あんな美しい人がそばにいることの、素晴らしさを。
自社を思い起こし、比較する。確かに可愛らしい女性社員はいるけれど、華嬢のようにすべてが綺麗な人というのは見たことがない。綺麗なオフィス、ふわふわのソファ、綺麗な社長、通勤時間ゼロの住居、ふわふわのソファ……。羨ましくて仕方がない。
「お待たせしました」
華嬢はそう言い、再び応接室に現れた。
ローテーブルにコーヒーカップを置く所作も美しく、私はまたうっとりした。
隣に座る圭に「口、開いてる」と指摘されつつも。