8月5日(月)-2
離れをノックすると、中から女将が出てきた。そうして私たちを確認すると「よかった」と言いながら、口元を手で押さえる。
「何か、あったのではと心配しておりました……!」
何もなかったわけではないが、随分心配させてしまったようだ。私は、はは、と小さく笑う。
「どうぞ、中へ。お疲れでしょう」
女将はそう言いながら、私たちを離れの中に促す。遠慮なくお邪魔する。
「有姫は?」
圭が尋ねると、女将は首を横に振る。圭は「迷ってるのか?」と呟き、靴と靴下を脱いだ。
また、スリッパをはかずに裸足で上がるらしい。私は、スリッパをお借りするが。
「連れ帰ったのは間違いないけど、ここまでは連れてきてないからな。どっかで迷ってるのかもしれない」
「連れ帰っ……有姫を、ですか?」
女将が動揺しながら尋ねてくる。圭はうなずき、有姫の眠ってる部屋の襖を開けた。
有姫は眠っていた。あの異空間で見た時と、同じ顔だ。
「迷子になってる場合じゃないだろ? 有姫」
圭は有姫のそばに座り、そっと掌を頭に乗せた。そうして静かに、有姫へと話しかける。「帰る場所はここだろ?」
しばらく有姫の頭に触れていると、有姫の目がゆっくりと開いた。ごく自然に、今迄ずっと眠っていたとは思えぬ穏やかさで。
「ううん……あれ?」
有姫はゆっくりと体を起こす。ぼうっとした頭で、ぐるりと辺りを見回した。
「お家? 夢?」
「有姫!」
女将は叫び、有姫を抱きしめる。有姫は不思議そうに小首を傾げ、抱きしめる母親に「おはよう」といって笑った。
「どうしたの? お母さん」
「よかった! 本当に、よかった!」
女将は何度も繰り返し、有姫を強く抱きしめた。抱きしめられた有姫は、少し照れながら、それでもまんざらでもなさそうに笑う。
「有難うございます」
女将は有姫の無事を確認し、次に圭に向き直って頭を下げた。圭は「よかった」とだけ答える。ちょっと照れているようだ。
「お二人が二日も姿を消されたので、何かあったのかと心配していたのですけれど」
「え、二日?」
私は慌てて、スマホを確認する。
8月5日(月)の表示だ。
この旅館に訪れたのが3日だったから、女将の言う通り、二日間私たちは行方不明になっていたことになる。
「まあ、少ない方だな。一週間とかじゃなくてよかった」
圭はほっとしたように言う。
いやいや、私は全然ほっとできない。私の12連休が、既に2日も削られてしまっている。しかも、全く意識のないところで。
動揺する私に、圭は「やれやれ」と言わんばかりに肩をすくめる。
「異空間だって言っただろ? 時間の流れも変わってるんだ。そうじゃなければ、しいちゃんがこちらに来てどっと疲れたり、有姫が一週間も眠り続けて平気なわけがない」
「一週間?」
圭の言葉に、有姫が小首を傾げる。圭は「あ」と言いつつ、有姫に向き直る。
「ちょっと長く寝ていたんだよ、お前。長い夢を見ていたから、体がすごく疲れているはずだ」
「ながい、ゆめ」
いまいち理解できていないのかもしれない。何しろ、まだ有姫は小さいのだ。
「有姫!」
圭と有姫が話していると、離れの玄関が勢いよく開いた。入ってきたのは、すらりとした長身の男性だ。
彼は靴を脱ぐのももどかしそうに離れに上がり、有姫を強く抱きしめた。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
「お父さん、おはよう」
有姫の言葉で、納得する。彼は有姫の父親で、女将の夫だ。
「先程、連絡したんです。お騒がせしております」
目元の赤い女将がそう言って笑う。女将の言葉に、父親ははっとして私と圭に向き直る。
「お恥ずかしいところをお見せしました。私はこの『春花』の主人を務めております」
主人はそう言い、頭を下げた。
「一応、確認作業をさせてもらいたいんだけど、いいか?」
圭が尋ねると、主人は「もちろんです」と言って頷いた。
「この旅館は、家族経営になるんだよな? それで、主人と女将、どちらの生家だ?」
「私です。妻が、嫁いできてくれました」
「ならば、小さいころ、よく一緒に遊んでいた友達を覚えていないか? 『しいちゃん』という」
「しいちゃん? 娘のぬいぐるみの……」
主人は言いかけ、はっとする。「しっちゃん」
主人の気付き呼応するかのように、女将が「ああ」と声を上げる。
「あなた、言っていたじゃない。自分にも、同じような名前の友達がいたって」
「いた。しっちゃん、だ。しいちゃんって間延びしないから、似ているけど違うって思っていて」
女将が言っていた、聞き覚えのある名前というやつか。
「そうだ、何回か話したことあったんだよな。しっちゃんに教えてもらったことを、君に話した時に」
つかえていたものがとれ、女将がすっきりした顔をした。いろんな意味で、良かった。
「お父さんも、しいちゃんを知ってるの?」
「ああ。昔、一緒に遊んでいたんだ。でも、気付いたらいなくなってたっけ」
懐かしむように主人が言う。
「もうそいつは、いない」
ノスタルジーに浸るような雰囲気の中、圭がきっぱりと断言した。
「その代わり、もうこういう事態が起こることはない。昔からいた友人はもういないけれど、友人に引きずり込まれることもない」
圭の言葉に、主人と女将が顔を見合わせ、頷きあった。
その言葉で、察したのだろう。有姫の眠り続けた原因と、その対処が行われたということを。
「一応、医者には見せた方がいい。あと、俺たちにも何か食べさせてくれたり、休ませてくれたりしてくれると、助かるんだけど」
圭が言うと、主人と女将はにっこりと笑う。
「もちろんです」
「お荷物はまだ、桜のお部屋に置いております。どうぞ、ごゆるりとお休みくださいませ」
圭は私の方を見て、にやりと笑った。何事かと思うと、そっと耳打ちしてきた。
「死ぬ前に一度は来るどころか、満喫できそうでよかったじゃん」
「なっ……」
なんてことを言い出すんだ。
私が軽くむっとすると、圭はくすくすと悪戯っぽく笑った。
先程までの緊張感は、どこにもない。有姫が目覚め、気にしていたこともすっきりし、いつもの調子に戻ったのだろう。
――気にしていたこともすっきり?
私は気づく。気になっていたことが、もう一つ残っている。
「そういえば、池の上にかかっていた橋なんですけれど」
私が言うと、主人と女将が「ああ」と頷き、口を開く。
「昨日、大きな亀裂が入っているのを見つけまして。危ないし景観も悪くなるので、撤去したのです」
「撤去しようとしたら、見るも無残に壊れまして」
口々に言う二人に、圭は「そっか」とだけ頷いた。
きっと、お二人は気づいているだろう。圭が関わっていることに。それでも何も言わない。それでいいような気がする。
「有姫、お腹空いたー」
和やかな空気の中、ぐう、と有姫のお腹の音が響くのだった。