はちがつー4
静まり返った空間で、私は有姫が目を閉じて倒れているのを確認した。慌てて近付くと、呼吸はきちんとしている。意識だけを手放しているようだ。
ちらりと圭を見ると、圭は「うるさかったからな」と答えた。
黙らせたいなら、意識を奪うのが確かに手っ取り早いだろうけれど。
しいちゃんは、口だけを閉じて圭を睨んでいる。寂しいと連呼していたのに、今はただ恨めしい表情を圭に向けているだけだ。
「お前、一人なんだろ」
静かに、圭が告げる。
「一人で寂しいから、呼び寄せたんだろ。今まで何人、同じことをしたか知らないけど。それで毎回、いつからか来なくなったんだろ」
圭の言葉に、しいちゃんは「そうだ」と頷く。唇を強くかみしめている。
痛そうで、辛そうだ。
「ある時、門ができているのに気づいた。そっと覗くと、そちらの世界が見えた。だから、時折遊びにいっていた」
しいちゃんは静かに語り始めた。
□ □ □ □ □
いつからこの場所にいたのか、知らない。
気づけば意識がこの場所にあり、自らの体がここにあり、自分というものを感じ取っていた。
辺りをぐるりと見まわしても、特に何もなく、誰もいない。
疑問も不満もなく、飛んだり跳ねたりして過ごしていた。
ある時、門があることに気づいた。鳥居だ。
不思議に思い、鳥居をくぐる。すると、見たこともない色彩と光景が溢れかえっていたのだ。
思わず走り出そうとしたが、ふわふわと体が浮いて安定しない。どうにかできないかとあたりを見回すと、明るい声が聞こえた。
そちらに向かうと、人形が転がっていた。便利そうだと中に入ると、ずし、と自らが固定されたのが分かった。これは使える。
動きにくい体で動いていると、明るい声が「あ」と聞こえた。
「しいちゃん、動けるの?」
しいちゃん、と呼ばれた瞬間、己がまた固定されたのが分かった。これで完全に「しいちゃん」へとなった。
話をしたり、遊んだり。時間があっという間に流れていく。
そうして過ごし、しいちゃんはずっとここにいたい、と思うようになる。ずっとずっと、この場所にいたい、と。
だが、しいちゃんの視界がぐるりと反転したかと思うと、またいつもの場所に戻ってしまっていた。
「なんで」
しいちゃんは震える声で言い、再び先程の場所に行こうとした。だが、体が思うように動かない。
重くて、怠くて、起き上がることさえ許されない。
しいちゃんは仕方なく休むことにし、また再び動けるようになるまで待った。
動けるようになれば、また鳥居をくぐって遊びに行く。またあの明るい声と遊んだ。そして、視界を反転させる。
何度も繰り返していくうち、反転する時間と動けるようになるまで休む時間が分かってくるようになった。
「もっとずっと、一緒に遊びたい」
しいちゃんは休みながら思い、気付く。
あちらの世界に自分が行くから、強制的に戻されるのだ。ならば、あちらに来てもらえばいいじゃないか、と。
次に動けるようになった時、しいちゃんは鳥居をくぐって遊びに行く。そうして誘う。
「こっちで、遊ぼう」
明るい声の主は「いいよ。でも、日が暮れるまでね」と頷き、一緒に門をくぐった。無事に来れた。
走ったり、飛んだり、撥ねたり。
心行くまで遊んだのち、明るい声は「あ、時間だ」と告げる。空が赤く染まっている。
「じゃあ、またね、しいちゃん!」
鳥居をくぐり、去っていく。しいちゃんは「またね」と手を振る。
なんて便利なんだろう、としいちゃんは思った。あちらに行くのも楽しいけれど、こちらで遊ぶのも楽しい。何より、自分がいきなり戻されることがないのだから。
それから、しいちゃんは何度もあちらにいったり、こちらに来てもらったりして、楽しく過ごした。
そうして必ず「またね」と言って、別れていた。
ところが、ある日、しいちゃんは鳥居をくぐれなくなってしまった。壁のようなものがあるように、何度ぶつかってもくぐれないのだ。
そうして、それからは明るい声の主に会うことはなかった。
ただの、一度たりとも。
□ □ □ □ □
「何人の子どもと、それを繰り返したかなんて、覚えていない。だが、約束をしているのに、ある日を境にいけなくなる。こちらにも来ない」
しいちゃんは、こぶしを握り締める。「私は、一人になる」
「お前という存在を、嘘にされたんだろうな。だから、門は揺らぐ。門が揺らぎ、お前を疑えば、もう交われない」
「それでも、私は、寂しい。またねと約束したのに、次は来ないかもしれない。あちらに行けないかもしれない。それならばいっそ」
「来た時に、帰れなくすればいいって?」
こくり、としいちゃんは頷いた。にこ、と笑って。
「そうすれば、私は、寂しくない」
私は背筋をぞくりと震わせた。
感情は理解できる。寂しいのは辛いだろうし、一人で過ごすのは苦しいだろう。だから、つい帰さないようにしてしまったというのは、分かる。
分かるが、その背後にある「親が心配する」「本人が帰りたがる」という事情を無視してしまっているのが、怖い。しいちゃんには、自分と相手の子しかいない。相手の子の背後にいる人たちの存在は、どうだっていいのだ。
純粋といえば、純粋だ。
「寂しくないようにしたいなら、もう一つ案があるぜ」
圭はそう言い、にやりと笑った。
「俺に、喰われればいいんだ」
しいちゃんがぴくりと眉を動かし、それから鼻で笑った。
「馬鹿にしているのか?」
「していない。俺は至極、まじめだ」
ふう、と圭は息を吐きだしてから、ぷらぷらと手を振った。今から捕まえてやるぞ、という予告のようにも見える。
「お前、ここで俺らが有姫を連れ帰ってもさ、同じことを続けるだろ? 一人は寂しい、なんて戯言を吐いて」
「私を喰らうって? 私を、どうやって喰らうというのだ?」
「さっきも少し喰らってみたが、俺は、お前を、喰らえる」
え、いつの間に。
いつの間に、圭はしいちゃんをつまみ食いしたのだ。……え、つまみ食い? その表現あっているのか?
ちょっと表現方法に、自信はないけれど。
「喰われたくはない」
「だろうな。だが、お前をこのままにはしておけないし、俺がお前を喰らえるってことは、お前は厄だ」
圭は笑う。不敵に、そして冷たく。
「厄なら、俺が喰らう。俺は、厄喰らいだからな」
美しく笑う圭の目が、金に光った。