はちがつー3
私は、ゆるりとテントのようなものに近づく。
しいちゃんは何度も「やめろ」とか「近づくな」とか、必死になって叫んでいたが、圭が「いいから」と制した。
「いいから行け、おっさん。こいつに構わなくていい」
「でも」
いいのかな、と戸惑う私に、圭は「ふん」と鼻で笑った。
「ここで迷う必要があると、全然思わないんだけど?」
圭に言われ、私も「そうか」と納得した。何しろ、中には有姫がいるかもしれないのだ。
しいちゃんの叫びをバックコーラスに、私はテントの外側から「有姫ちゃん」と声をかける。反応はない。
「おっさん、触れ」
「大丈夫かな?」
戸惑うと、圭の眉間に皺が寄る。
「大丈夫じゃなかったら、その時考えればいいだろ?」
なんだろう。全く安心できないのに、仕方ないな、と思わせる妙な説得力がある。
私は恐る恐る、テントの表面に手を伸ばし、触れた。
ぼよん、とした感触がある。風船の表面のような。ちょっと気持ちいい。
大丈夫そうだと判断したので、ぼよんぼよんと揺らすように触れてみた。テントは何度も揺れる。空気を入れている途中の、ふわふわドームのような。
だんだん楽しくなってきた。
「圭くん、これ、すごくない? なんていうか、すごくない?」
「なんていうかって、何なんだよ」
「弾力が、すごい」
「見りゃ分かる!」
ぶっと圭が噴き出す。ただしいちゃんだけが、悲痛そうな表情を浮かべている。
「いい加減に……」
そう口を開きかけた瞬間、ぱん、と風船がはじけるような音が響いた。思わず、ぴょん、と飛び上がってしまった。
「わっ、びっくりした!」
ぶっと再び圭が噴き出す。
「飛ぶなよ、おっさん!」
「だって!」
はぁはぁ、とドキドキする心臓を落ち着かせるために、深呼吸をする。何度か繰り返したのち、ようやく落ち着いた私は、割れたものの中を確認した。
中には、女の子がいた。もちろん見覚えがある。
離れの布団で眠っていた少女、有姫だ。
「有姫ちゃん」
私は声をかけてから、有姫に近づく。有姫は「ううん」と軽く唸ってから、ゆるりと目を開いた。
「おじちゃん、だあれ?」
うう、やっぱり私は、おじさん、なの、か……。
軽く傷つきつつも、仕方ないと己を納得させ、有姫に向き直る。
「有姫ちゃんが帰ってこないから、お母さんとお父さん、旅館の人たちが心配しているよ」
「そうなの? でもまだ、帰る時間じゃないよ?」
「帰る時間は、決まっているの?」
「うん。5時になったらね、お客さんが増えるから」
普段は旅館内や周りで遊んでいるのだろう。有姫にとって、この場所もそういった遊び場の一つなのだ。
「5時はもう、過ぎているよ」
「そうなの? しいちゃん、もう過ぎてるんだって」
有姫はそう言って、しいちゃんの方を見る。しいちゃんはまだ圭に掴まれたままだ。それでも有姫の顔が向けられたのもあり、眉間の皴はなくなっている。
「ずっと一緒にいてくれるって、言ったじゃない」
しいちゃんが、震える声で言う。有姫は小首を傾げる。
「でも、いっつも5時までだよ。お母さんが、5時までだよって」
「ずっと、一緒だよって」
「しいちゃんとずっと一緒にいるけど、5時までだよ」
震える声のしいちゃんと、不思議そうな声の有姫。
圭は「ふうん」と頷き、掴んだままのしいちゃんの腕をねじり上げた。
「お前、そういう契約結んで、それを違反したって言ってるの?」
しいちゃんが唇を噛む。図星なのだ。
「あれだろ、指切りとかしたんだろ? だから、契約って言いたいのか。相手の意思と契約の強さをアンバランスにしやがって」
「黙れ」
「有姫は5時まで一緒にという意味で、お前は永遠に一緒という意味で契約を結んだ。そして、お前は一方的に違反したと言って、閉じ込めたのか」
子供同士の、よくある会話だ。
今日はずっと一緒に遊ぼうね、という言葉の中には「決めた時間の限り」が入っている。保育所で、色んな友達と色んな遊びをしていた有姫には、それが当然のように分かっている。
だが、しいちゃんはそこを分からないふりをして、永遠に、という言葉としたのだ。
「……帰ろうと、したのか」
違反、という部分がいまいち分からなかった私も、気付く。
おそらく、一緒に遊んでいる途中で、有姫は時間を尋ねた。5時になっていたら、帰らないといけないから。それを、しいちゃんは違反だと言ったのだ。
帰ろうとするのは、永遠に一緒にいるという契約を、違えるではないか、と。
だから閉じ込めた。ジャングルジムの中に、テントのようなものを張って。
「一方的とも思える契約だったから、簡単に結界が壊れたんだ。そうじゃなければ、おっさんが多少ぼよんぼよんしたからといって、壊れるわけがない」
圭は思い出したように、ぶっと小さく笑った。
「2人の意思が同じだったら、あれは壊れなかったということかい?」
「そういうことだな。しかも、おっさんは時間を『知ってる』からな。有姫の方の意思に呼応して、壊れやすくなってたんだ。そうじゃなければ、あんなに揺らぐわけがない」
ああ、そうか。あのぼよんぼよんは、揺らいでいる状態だったのか。
「よくも」
小さく、しいちゃんが呟く。ねじり上げられたままの腕は痛そうなのに、それについての苦情を一つも言うことなく、はっきりとした敵意を圭に向けている。
「よくも破ってくれたな……! また私は、ここで一人になるじゃないか!」
しいちゃんが叫ぶ。
「……また?」
言葉にひっかかり、私はしいちゃんに尋ねる。
「そうだ! 寂しさから這い出てみると、子どもがいる! 一緒に遊ぶが、気付けばそこに行けなくなるんだ。たまにこちらに来る子どももいた! だが、すぐに来なくなる!」
しいちゃんは叫び、勢いよく体をねじって圭の手から逃れた。
「寂しい、寂しい、寂しい……! 有姫は、ずっと一緒に、私とずっと一緒に、ここにいるんだ!」
うわあああああ、としいちゃんが叫んだ。
有姫は様相が変わったしいちゃんを見て、びくりと体を震わせた後、ひくひくと泣き始めた。
「やだ、怖い、怖いいいい!」
有姫の鳴き声と、しいちゃんの叫びが反響しあう。
子供二人の声とは、何と大きなことか。感心すると同時に、どうしたらいいのかわからなくて動揺もしてしまう。
圭は舌打ちをしたのち「くそが」と呟き、ぱん、と柏手を打った。
「我は、此処を、砕くものなり!」
圭がそう言った瞬間、ぴん、と空気が張り詰めた。
有姫の泣き声も、しいちゃんの叫びも止まった。
突如静かになった空間内で、圭が小さく笑った。
しいちゃんが睨むのも、お構いなしに。