8月1日(木)-1
うだるような暑さの中、私はドーナツショップに駆け込んだ。ひやっとした空気が汗ばんだ体に気持ち良い。
ドーナツを一つ選び、レジでコーヒーと共に会計する。一度コーヒーを注文すると、お替りがいくらでももらえるのがありがたい。
時刻は午後5時を指していた。
これから自社に戻っても、多少の仕事をしてタイムカードを押すか、いっそ残業覚悟でためている仕事をこなすことになる。それならば、直帰した方が心身ともに楽かもしれない。
楽な方に流れるほうが、心が弾む。
私は湯気が上がるカップを見つつ、会社に連絡する。
たまたま電話を取った事務員は、淡々と了承の旨を返してくれる。店内音楽に気づいたかもしれないが、特に追及することもなかった。ありがたい。
もしこれが上司だったら、と思うと、ひやひやする。私が話すると上司が出る確率が、他の同僚に比べ妙に高い気がするのだが、もし直帰すると申し出たら、いいから一度帰って来いと言われていたかもしれない。
今日はラッキーだ。
疲れた体にしみいるクリーム入りのドーナツに舌鼓を打ちつつ、私はほうっと一息つく。
営業という職業の、時間の取り方が私は好きだ。
自分で時間配分をし、自分で計画を立てる。我が社は会社相手の営業がほとんどで、さらに飛び込み営業などはほぼないと言っても過言ではない。時折、対人関係で悩むことはあれど、仕事と割り切ってしまえば大したことはなかった。
――なかなか自分にあっている職業ではないか。
ドーナツの最後のかけらを口に放り込み、私はにんまりと笑った。
手をペーパーナプキンで拭いてから、私はスケジュール帳を開く。
もうすぐお盆休みだ。
病気の時以外はほとんど使っていない有休が、たまりにたまっている。せっかくだから、お盆休みに絡めてもいいかもしれない。
実際、盆明けにそういう有休をとる予定の同僚がいるし、盆前ならばそこまで仕事の支障は出ないだろう。
「そういえば、盆前に有休をとる人間はいなかった気がする」
はっとして、私は呟いた。
盆休みとなる1~2日前から休みを取る者は多少いたが、がっつりと休みをとる者はいなかった。大体が、盆明けの方にがっつりととる人が多い。
そちらの方が、旅行料金がちょっと安いのだとかなんとか。
スケジュールを確認すると、ちょうど一週間ほど、アポは入っていない。早いところだと盆休みに入っているし、間を空けない方がいい案件が多い。
「よし」
私は呟き、心に決める。
明日出社したら、来週から有休をとろう。盆休みが10日から15日までだから、月曜日……5日から9日までの5日間。そうすれば、3日から15日まで、12日間の休みとなる。
「これだけあるなら、どこか旅行に行ってもいいな」
やってくる休暇に、ドキドキが止まらない。
録りためているテレビ番組を見てもいいし、レンタルショップにいくのもいい。
いやいや、いっそ映画館に行くとか?
郊外のショッピングセンターでぶらぶらしたり……ネットカフェにこもってみてもいいな。
(なんだか、大学生の頃みたいだ)
自然と口元がほころぶ。
今は年賀状くらいでしか挨拶をしていないが、大学時代の友人とはよく訳の分からない日常を過ごしていた。
急に車を走らせて遠くに行ってみたり、急にキャンプしに行ったり、突然船に乗って海外に行ってみたり。
お金がない時は、家にある食材を集めて、鍋をしたっけ。どろどろなのに妙においしかった覚えがある。
「いらっしゃいませっ……!」
膨らませていた妄想から、店員の甲高い「せ」に引き戻される。
心なしか、女性店員の頬が赤い。視線の先には、すらっとした背に整った顔立ちの青年がいる。
(芸能人かな?)
あまり芸能人というものに詳しくない私には分からないが、あれだけ整った顔と体をしているのだから、芸能人なのかもしれない。
青年は視線を気にしていないようだが、じろじろ見るのも申し訳ない気がする。私は苦笑交じりに、青年から目を外そうとした。
外そうとした瞬間、外せなくなった。
青年はドーナツを入れるトレイに、次から次へとドーナツを乗せ始めたのだ。ぽいぽいと、無造作に。あっという間にドーナツの山が出来上がる。
20個はあるだろうか。
いや、持ち帰るのならばあれはおかしいことではない。よく「撮影のお土産に」みたいな話も聞くし。
レジに山のドーナツを乗せたトレイを差し出し、青年は「オレンジジュース、一番大きいやつ」と告げた。店員は「はい」と答えたのち、トレイを引き寄せて会計をする。
「こちら、お持ち帰りですか」
当然のように尋ねる。が、青年は首を横に振った。
「ここで食べる」
ざわ、という音が聞こえたようだった。いや、実際聞こえたのかもしれない。
店員は「店内で、お召し上がりですね」と恐る恐る尋ねる。青年はうなずく。はっきりと。
「……大食いの人だったか」
私は呟く。
最近、大食いチャレンジをテレビ番組でやっているし、動画投稿サイトでも人気だという。
もったいないという意見もあるが、自分にできないことをやるのがエンターテイメントだと思っている私は、どうしてそんな風に言うのかが分からない。
お得意の「スタッフがおいしくいただきました」のテロップでも入っていれば、満足なのだろうし。
会計を済ました青年は店内を見回して、私の近くに座った。近くで見ると、ドーナツの山は見ているだけで甘ったるい。
さすがに見つめるのも失礼か、と、私はスケジュール帳に目を移す。
来週アポを入れてきそうな企業には、明日伺って休む胸を伝えてしまおう。急なトラブルがあれば仕方ないが、そうじゃないのならば仕事用の電話が鳴ることなく、快適な休日を過ごせるはずだ。
私は微笑み、コーヒーを口にする。ちらりと横目で青年のトレイを見ると、ドーナツは半分くらいに減っていた。
(早い……!)
目を離したのは、そんなに長い時間ではないはずだ。ドーナツ一つをそのまま口にでも放り込んでいるのだろうか。
思わず青年を見ると、ドーナツはほんの3口くらいで消えて行っていた。
なるほど、テンポよくいけば、確かにそれくらいの時間でなくなるかもしれない。
「……あのさ」
青年が、不意に口を開いた。私の方をじっと見ている。
「あ、はい。何でしょう」
「あんたさ、肩痛くねーの?」
「肩?」
言われて、肩に触れる。確かに多少肩こりがあるものの、別に痛くはない。
「見てわかるくらい、肩こりがひどいってことですか?」
「いや。……そうだな」
青年はそう言うと、立ち上がって私に近づき、ひゅっと手を伸ばした。
殴られるのかと思った私は、思わず目を閉じる。が、痛みはやってこない。
それどころか、なんとなく、肩こりがなくなった気がする……!
「どう?」
青年はにやりと笑い、私を見る。何かを握り締めているように、こぶしを作って。
「肩が、軽い気が」
「だろ?」
青年はそう言うと、こぶしを口元に持って行き、ごくり、と喉を鳴らした。何かを飲み込むように。
「あんたさ、ヤクヅキだろ」
「ヤクヅキ?」
「だから」
青年はそう言い、私の横に腰掛け、指で机をこすり「厄付」と書く。
「厄っていう、ざっくり言うとちょっとした悪いことを引き起こす奴がいて。それがあんたについているんだ。んで、あんた自身はその自覚が薄い。だから厄の多さに気づくことなく、何の対処もせず、厄ばかり増やしていく。それが、厄付」
「いっぱいいるんですか?」
「いるな。でも分からないんだろ? 得な性格だよな」
得なのか、損なのか。いまいちわからない。
「俺は、その厄を喰らう。喰らって、力にする。そういう生業をしているんだ」
つい、と青年は名刺を差し出す。
――拝み屋 桂木 圭。
驚くほど、胡散臭い肩書だった。