終わりと始まり
長いつややかな茶色い髪に、榛色の瞳。
濃灰色のドレスを身に着け、父親の喪に服している少女がいる。
父親が乗った船が沈没し、行方が分からなくなったとの知らせを受けたのは、一週間ほど前のことである。
少女は、父親がデルベを去る日の朝のことを思い出していた。
長らく父娘らしい会話らしい会話などなかったというのに、父が珍しく屋敷内の娘の部屋を訪れたのだ。部屋に入るよう促しても入ろうとはせず、一通の手紙だけを手渡して去っていった。
手渡す時、一瞬父の手がリリアの指に触れ、その荒れ放題の肌に驚いた。いつのまにこんな荒れた手になっていたのだろうか。本来貴族の手というものは、死ぬまでほっそりと荒れひとつないものだ。なのに父はこんな手になるまで、何をしているのだろうか。
もはや父が何をしているのか、どんな生活をしているのかも何も知らないリリアである。同じ屋敷にいるというただそれだけの関係であった。もちろん、昔からこうではなかった。
幼かった頃はもっと。そう、母が生きていたあの頃は――。
脳裏に蘇る、遠い日に家族で見たあの一面の白百合の大群。
深い甘い香りが風に乗って、服にも髪にも染み込んで、まるで天国にでもいるようなそんな気持ちにさせた。
父が穏やかにほほ笑み、母がはしゃぐリリアを優しく抱きしめる、あの夢のような日々。
遠い遠い日の残像だ。
もう二度と還らない。母も父も誰もいないのだ。残されたのは自分ただ一人――。
その翌日、少女は父の残した手紙通り侯爵家の領地の外れ、人もめったに訪れることのない寂しい地に建てられた小さな屋敷へと移った。
それは父の指示であった。暮らしていた大きな屋敷を出て用意した屋敷へと移り住むように、そしてできるだけそこを出ないようにと。老齢の使用人夫婦以外は仕える者もなく、当分はひっそりと暮らすようにと、手紙には書かれていた。その理由は書かれていなかったし、おそらく聞いたところで父を止めることはできなかっただろうと少女は思う。
――お父様はきっと、終わりにする場所を探しに行ったんだわ……。私にはそれを止める力なんてない。あまりにもお父様の絶望は暗く重すぎた。私では、到底……。
少女は自身にも重くのしかかる代々受け継がれてきた暗く淀んだ影を振り払うように、かぶりを振った。
――今さら考えても仕方のないことよ。それにあれらはギリアムがきっと燃やし尽くしてくれる。もうあんな恐ろしいものに振り回されるのはまっぴらよ。あんなもののために皆苦しんで死んでいったんだもの。私の代で終わらせなければ……。お父様のためにも。
「お望み通り、片付けたぞ。さっさとここを出る用意をしろよ。俺もお前も、こんな国にもう用はないんだからな」
ガチャリとドアが開き、ギリアムが姿を見せる。その服にはあちこちにすすがついて黒く汚れてしまっている。その姿にすべてが終わったことを悟り、少女は安堵したようにほほ笑んだ。
「ギリアム、終わったのね。ありがとう……。良かった」
父親がこの国を出てから数か月、日に当たらない生活を長く続けているせいで、リリアの顔は青白い。
デルベ国内で、エディオン侯爵家は決して歓迎されない一族である。貴族とはいえ、華やかな暮らしとは無縁であった。むしろ隠れるように、寂しい生活を送っていた。
そんな暮らしの中で財産だけは潤沢であったために、父は父娘のあたたかな愛情の代わりとばかりにリリアに贅沢なドレスや宝石類を事あるごとに買い与えていた。だが、それを身に着けてでかける先などどこにもなかった。屋敷の中で着飾ったところで、むなしいばかりだ。
それよりも、父と過ごす時間を持てることの方がどれだけ嬉しかったろうか……。
その手で頭を撫でてくれたら、どれだけ嬉しかったろうか……。
そしてそれが叶うことは、もう永遠にないのだ。
リリアは父の孤独な背中を思い出して、大きく息を吐いた。
「ちょっとだけ待ってて。その恰好じゃ目立つわ。これから港へいくんだもの、もっと普通の服を……そうだわ!待ってて!」
ギリアムは、気を取り直したように明るい表情を取り繕って部屋を出て行くリリアの背中を見送った。
久しぶりに会ったリリアの表情は、当然のことながら暗く沈んでいた。
無理もない。もうすでに父であるエディオン侯爵が隣国で犯罪の首謀者として捕まったことも、その侯爵の乗った船が海に沈んだことも、すでに知らせを受けていたのだから。
実の母親に続き、父もまた失ったことをすでに受け入れていたのだろう。濃灰色のドレスを身に着けて喪に服していた。
もう自分が侯爵家で一人きりになったことを、誰もいない広い屋敷の中で、一体どんな気持ちで受け入れたのだろうか。
また一人で涙を流したのだろうか。それとも涙することすらできないほど、絶望にうしひしがれただろうか。たった一人で――。
隣の部屋からガタゴトと物音がする。
部屋に備え付けられたクローゼットの中を、なにやらあさっているようだ。使用人たちが使っていた部屋だろう。
住み込みで老夫婦がリリアの世話をしていたと聞いていたが、その姿はもうどこにもない。おそらくはもうこの屋敷を離れたのだろう。リリアが帰したのかもしれない。もうここにいる必要はないから、と。
少しして、息を弾ませてリリアが戻ってきた。頬がほんのりと赤く染まっている。
「これを着て。少し大きめかもしれないけど、ボタンを留めればなんとかなるでしょ。……私ももう喪に服すのはやめるわ。目立つし、こんな色の服は旅立ちには似合わないもの」
そう言ってギリアムの手ににいくつかの衣類を押し付けて、さっさと自室へと行ってしまった。
仕方なく渡された服に着替えるギリアム。
ギリアムが着るには少々年寄り臭いが、まぁすすけた服を着ているよりはましだろう。大き目ではあるが、かえって動きやすい。
戻ってきたリリアは、先ほどよりも装飾の少ない町の娘が着るようなシンプルなワンピースに着替えていた。華やかさには欠けるが、その髪の色と大きな瞳によく似合っている。
「あとはこれで乾杯しましょ。これだけ作っておいてたの。もう冷めてしまっているけれど、一緒に飲みましょ?」
そう言ってにっこり笑いながら、トレイに乗せた二つのカップを運んでくる。
「さぁ、あなたもカップを持って!……乾杯!」
「おい、今そんな悠長なことをしている暇は……」
そう言いかけたギリアムだったが、リリアの顔を見て黙り込む。リリアは顔に笑顔を貼り付けたまま、声もなく静かに泣いていた。
ギリアムは、小さくため息をついてカップに口をつける。
――まったく泣き虫なくせに強がりで、生意気で。本当は弱くて寂しいくせに……。
静かに涙を頬に伝わらせながら泣き続けるリリアを、ギリアムは軽く小突く。
はっとしたようにギリアムを見ると、歪んだ顔で無理やり笑みを浮かべてカップの中の茶色い液体を飲む。
二人を包み込むように、ココアの甘い香りが漂う。
ぐいっと残りのココアを飲み干すと、ギリアムはリリアに声をかける。
「おら、もういいだろ。俺は甘いものが苦手だって言ってるのに、なんでお前はいつも俺の分まで用意するんだよ。ったく」
「ココアは特別なの。私にとっても、あなたにとっても。……そうでしょ?」
そう言って、ギリアムの顔を下から覗き込んでにっこりと笑う。
「行きましょうか……。もうこの国とも屋敷ともお別れ。さようなら、お父様、お母様……」
リリアは、思い出を振り切るように部屋を出る。
もうここへ戻ることはない。永遠に――。
部屋のドアは閉められた。無人となった屋敷をもう振り返ることはなく、二人は進む。新しい場所へ。
静まり返った部屋には、二つのカップともうひとつ。
侯爵家の黒という異名で呼ばれた一人の男が使っていた、鞭のような変わった武器が残されていた。