闇に浮かぶ赤い花
『恋する偏食ヴァンパイア』本編完結後のスピンオフです。本編でラルベルたちの前に現れたヴァンパイアと人間のハーフ、ギリアムが主人公。三話で完結する短いお話です。
ぜひ先に本編をお読みくださいね♪
『一緒にココアでも飲もうよ』
そういって自分に手を差し伸べた、リリーと面差しの似た一人の少女。
母を亡くし、父も自分から目を背け、その中で一人いつも寂しそうに、でも気丈に笑っていたあの少女。
国を出る時、少女は男に言った。
『私はここで待っているから。ずっと待っているから』
なぜか自分にいつも親しげに話しかけてきて、嫌いなココアを差し出して一緒に飲もうと誘うおかしな少女だった。甘いものは嫌いだと何度言っても、二つカップが並ぶのだ。おかげでいつも飲み干すのに苦労した。
今頃どうしているだろうか。主を失くしたあの屋敷に一人取り残されて、それでもまだ気丈に笑っているだろうか。一人でココアを飲んでいるんだろうか。
夜に真っ赤な花を広げる、あの悪魔の花の美しく儚げな、だがどこまでも続く狂気の色を思い出す。
足元でつぶれる赤い花びらを踏みつぶすたび、夜の闇に舞い上がる輝く花粉。
もうあの闇の中にいなくてもいいだろうか?もう、光のあたる場所へ歩き出してもいいだろうか。
――あの少女と二人で。
エディオン侯爵は、自らが育てた悪魔の花を抱いてその身を自ら滅ぼした。そして最期を誰にも看取られることもなく、大海原の冷たく暗い海の底へと沈んでいったらしい。
デルベに残した一人娘の写真を抱いて――。
人の命など、あっけないものだ。たった数十年で、生き急ぐように消えていく儚く弱い存在。
――ま、ヴァンパイアだって寿命が長いだけで、大差ないけどな。……にしても警備、厳重すぎるだろ。面倒臭いな。
ちっ、と小さく舌打ちをして、眼下を見下ろす。
ギリアムは大きな屋敷のてっぺんにある趣味の悪いレリーフのそばに立ち、下でうごめく軍服姿の男たちを冷ややかに見つめていた。
その数は、ざっと見ただけで十数人というところだろうか。いくら大きな侯爵家の屋敷とはいえ、一軒の屋敷に警備がこれほどの人数、しかも皆完全武装している。並みの警護ではない。
「やれやれ……。あいつも人使い荒いな。そういうところは父親に似てるんだよな、ったく」
聞こえないほどの小さい声でぼやくと、すっと屋敷の裏に音をたてずに下りていく。そのしなやかな無駄のない動きは、まるで豹のようである。
気が遠くなるほどの長い間、エディオン侯爵家の影として暗躍してきたこの男。名は、ギリアムという。
侯爵の一人娘であるリリアをデルベから連れ出すために、ギリアムは一人ここに戻ってきたのだ。
もともとデルベ国にとっては、決して表には出せない国の闇そのものであったエディオン侯爵家である。その一人娘も、この国にいる限り遅かれ早かれ命を狙われるか、ろくでもない目的のために利用され捨てられるのが関の山だ。せめて雇い主への最後の恩情として、その娘を他の国にでも逃がしてやろうと考えていたのだが――。
もう一度、ギリアムは真っ暗な夜の闇の中でため息をついた。
――これはかなり骨が折れそうな仕事だな。リリアを助けるだけならともかく、ここを跡形もなく焼き払ってくれ、などど……。
娘であるリリアからの新たな依頼に、げんなりと肩を落とすギリアムであった。
「おい、そっちにいたか!えぇい!火はまだ消せないのかっ。水をどんどん運べ!急ぐんだ。貴重な資料が消えてしまう!せめて種だけでも」
「こっちはもうだめです!火の回りが早く、近づけません。もはやここが崩れ落ちるのも時間の問題かと!」
「……えぇいっ!誰かいないのか!誰かあれを運び出せ。国命だぞっ」
もうもうと立ち込める煙と熱気、そしてところどころで大きく上がる火の手。燃えさかる火柱に、もはや近づくこともできず、バキバキと屋敷を支える柱が焼け落ちていく音が響いている。
頑丈な軍服に身を包んだ屈強な男たちも、火の勢いには到底歯が立たない様子で、一人また一人と燃え盛る火の手から逃げ去っていく。
黒い布で口元を覆い、煙の流れない風上にギリアムはいた。
ギリアムのいる隣の建物は、以前悪魔の花と呼ばれる毒の研究施設として使用されていた侯爵家の建物だ。外周をぐるりと鉄柵が張り巡らされた、見るからに怪しい建物である。
今その建物からは、ごうごうと火の手が上がっていた。もちろん、ギリアムの仕業である。
すでに研究者たちや屋敷の使用人たちは、侯爵がこの屋敷から姿をくらませると同時期に逃げ出している。もともと忠誠や義理などない者たちだ。蜘蛛の子を散らすように、あっという間にここは人気のない空の屋敷になった。
そこにデルベ国の役人と軍人たちが荒々しく踏み込んだのは、数日前のことだ。おそらくは毒の研究資料や毒そのものを手に入れるために、派遣されたのだろう。中を色々と荒らしまわっていたようだが、結局何も運び出せずに逃げ惑うばかりだ。
もはやその建物は、骨組みだけを残して炭となりかけていた。
――あれくらい真っ黒ならもう何も見つからないだろう。あんな物騒なもの、二度と生まれないほうがいい。関わったものをすべて不幸にするだけだ。
冷めた目で逃げ惑う屈強な男たちの滑稽な姿を見下ろして、ギリアムは侯爵の顔を思い出していた。
爵位とともに親の復讐心をも継いで、それでも幸せになろうとするも結局は親と同じ末路をたどった哀れな男だ。たった一人娘を残して海の藻屑と消えていった。
ギリアムにとってはただの雇い主である。金払いという意味では文句のつけようのない雇い主だったから、それが汚れ仕事だろうがそれはさしたる問題ではなかった。もともとギリアムの手は汚れ切っていたのだから。
だがそんなギリアムの目にも、侯爵は犠牲者にしか見えなかった。結局は親にも国にも利用されて、壊れていった哀れな男。
そして残された一人娘もまた、この先の人生に希望があるとは到底思えない。おそらくはろくな人生ではないだろう。少なくともこの国にいる限りは――。
もう何も持ち出される恐れがなくなった煙を上げる建物の残骸の横には、元はガラス張りだった小さな栽培施設がある。そこも今や真っ黒に焼け落ちている。
ギリアムはその中に足を踏み入れる。バリッ、バキッという何かが割れる音と、真っ黒にすすけた折れた柱。
「頼み通り炭にしてやったぞ。これで満足か」
そうつぶやいて、元は中に水を引くための装置であったと思われる足元の黒い塊を踏みつぶす。
ここでは、悪魔の花と呼ばれた植物が栽培されていた。
あの暗闇で咲き誇る真っ赤な花たち。形は百合によく似てはいるが、その花粉はほんのわずかで大勢を瞬時に殺すことのできる、恐ろしい毒物である。限りなく美しく、限りなく恐ろしい花。
この花が、侯爵の人生を大きく変えたのだ。だが、もうあの目の覚めるような鮮やかな赤は、真っ黒な炭で塗り潰されていた。これで、もう二度と蘇ることはないだろう。この花の毒を打ち消す対となる花もまた、同じくギリアムは燃やし尽くした。
「これで、ようやくお役目達成、かな。……行くか」
まだ軍隊は周りで何か騒いでいるようだが、放っておけばいい。もう誰も何もできない。あの花を蘇らせることも、再び見つけ出すことも。なにせ、たった一粒の種さえもう残ってはいないのだから。
ギリアムはようやく侯爵家の領地の外れ、その小さな屋敷の近くまでたどり着く。
ここも厳重に見張られてはいるが、そうとは気づかれないように数人の見張りは黙らせておいた。おそらく娘を連れて、この国を脱出するくらいの時間は稼げるはずだ。
いよいよこの国ともおさらばだ。別に執着があるわけでも大切な思い出があるわけでもない。もっとも、あの娘にとっては母国、そして愛する家族との大切な思い出の地なんだろうが――。