九話●BLOOD.《血》
血。
医者から処方された500mlの血液缶を冷蔵庫から取り出す。丁寧に偽装されたラベルによってそれはトマトジュースにしか見えない。
ギリギリ残ってる理性で風呂場まで運ぶ。手に握られたそれは誰かの命。そして私の命。
長夜鬼症候群は人間の血液を飲まねば生きられない。私たちは政府によって秘匿されており、保護されている。
全裸になり、右手にはナイフを持つ。ナイフは缶に空気穴を作るためだ。普通に飲むのでは血の粘度で遅く、最悪発狂しかねない。すこしでも速く飲み切るためのちょっとした生きる工夫である。
私の受けた説明では、長夜鬼症候群は20年前に起きた事件の後遺症として出現したらしい。神話の時代に絶滅したはずの【吸血鬼】が蘇り、【スクラルプラ】という極北の国を滅ぼした。
その事件は吸血鬼達の長、【真祖】と呼ばれる元凶が倒されることで決着がついた。
だが彼らが撒いた呪われた血は、吸血鬼が消えた今でも【長夜鬼症候群】として世界を呪っている。
タブをあける。芳醇な血が鼻から心臓まで伝わり鼓動が加速する。
人間としての感情、制限、知性や理性などを容易に超える衝動が、唸り声として漏れる。
「ぐぁぁあぁ…」
口をつけ、缶を持ち上げる。とろりとした感覚が舌を伝った。力をこめ缶の底をナイフで突き刺す。何度も何度もぐちょぐちょと空気穴を広げた。血の出る勢いが増して、私が飲む量をぎりぎり超えるくらいの速度で飛び出る。
缶一本を飲み終えたころには体中血まみれになっていた。
長夜鬼症候群が一番最初に発見されたとき、その人物は完全に気が狂っていた。何十年と闇の中を自然と共に生き続け、人を殺し続けたのだそうだ。
あまり文明が発達していない地域で起きた事だったため、世間にその事実が拡散される前に秘匿化できたようだ。
私の場合、物心ついたころにはすでに症状を理解していた。親や医者の保護があったからこそ今を生きられているが、そうではない同士達は適応できずにすぐ渇ききって死んでしまうだろう。
血を飲み終えてからも後始末をしなければならない。こぼれた血を丁寧にボディソープで洗い落としていき、衝動が襲ったときはタオルを噛んで抑える。それでもだめならバスタブに顔を突っ込み水のなかで吠える。
事情をしらぬ誰かが見たらどう思うだろうか、そいつを斬って殺してしまうかもしれない。だから声をあげるわけにはいかない。
でもひきつった笑い声が止まらない。
「ヒヒッ…ヒヒヒッ…」
メンタルケアの一環で、長夜鬼症候群の人と会ったことがある。
その人は”鬼”でなくてもかなり変わってる人だった。自分の症状について語っていたことを、血を飲むたびに思い出す。
「血を好き嫌いで捉えると楽しいですよ。つまり…この血は美味しいとか、すこし甘い、とか。自分が全部悪いんじゃなくて、味わい深い血にも原因があるとね」
私は処方された缶以外で血を飲んだことはない、だが確かに個体差は多少あって何年も飲み続けていると、だんだん美醜が判断できるようになってきた。そして確かにこの観点から見れることは気を落ち着かせられる。
当然だが人間を傷つけ鮮血を飲むことは禁止されている。缶とは言え鮮度が落ちており、鮮血を飲むとその味が忘れられなくなくなり凶行に走ってしまうらしい。
それも”人間”が言うことだ。勝手知ったる鬼ならば、平和を掲げる旗こそ宿敵。
血による狂揚が収まってきた。この状態の時はできるだけ動かずじっとしているが吉である。思考は勝手に進んでいくが、普段であればそれを実行に移すことはありえない。
私はこの儀式を親しみを込めて”ブラッドリチュアル”と呼んでいる。過激派中二病と書いてそう読むのだ。
服もろくに着ずにパソコンの前に立つ。GioGを起動しログインボタンを表示させる。まだ濡れてる掌をモニターにかざす。
リングが私を通す。するといつもより長いローディングが差し込まれる。視界には真っ黒な空間だけが広がっている。なにかおかしい。だが気付くのが遅かった。