第二三話 食物繊維
「何? 何? 何? どうしたのよっ!」
いきなり横抱きにされ、ベルフラムが慌てる。
九郎は酸の湖から這い出ると、ベルフラムを抱え全速力で走り出す。
「後ろ見りゃあ分かるっ!!!」
必死の形相で走りながら九郎は叫ぶ。
「後ろって……」
横抱きにされたベルフラムが、九郎の肩越しに後ろを見る。
魔法の光はもうかなり光量を落としていて、もう10メートル先も見えない。
―――何かが向かって来る?
ベルフラムは、薄暗い闇の中から大きなものが迫って来ているのを感じる。
「ひっ!!!」
ベルフラムが小さく息を飲む。
土砂が迫って来ていた。
酸に濡れ、ぐずぐずに成った、泥でできた巨大な塊がゆっくりと迫ってきている。
泥の濁流は滑るように横穴に流れ込むと、なにかに運ばれるように向かって来る。
良く目を凝らすと、先程転がり込んだ横穴の床が、稲穂が波打つが如く蠢いている。
奥へ奥へと誘う様に、穴全体が脈動している。
「どうするつもりなのよっ!!!」
ベルフラムは九郎を見上げ、不安そうに問う。
「そりゃ、とっととお暇するんだよ! もちろん出口からなっ!」
走りながら九郎が答える。床全体が動いている為か、走るスピードは風の様に早い。
「出るってどういう事? 私達食べられちゃったのよ?! ?出口なんて……」
そこまで言って、ベルフラムは眼を見開いて九郎を見る。
「あなた、何考えてるのよっ!! 嫌よっ! 信じらんないっ!」
腕の中で暴れるベルフラムを無視して九郎は走り続ける。
後ろに迫る泥の濁流は、床にしみ込むように水分を抜かれ、乾いた砂になって迫ってくる。
「どの道ここまで来ちまったら、結果は一緒だ!死んで出るか、生きて出るかだ!!
だったら生きて出る方を選ぼうぜ、ベルフラム!!」
九郎はやけくそ気味に叫び、ベルフラムに笑いかける。
こんな時に笑顔を向けられ、ベルフラムは呆気に取られ、涙の溜まった瞳で九郎を見る。
――変な顔だ……。息も絶え絶えで、直ぐにでも倒れ込んでしまいそうな顔……。全速力でもう、何分も自分を抱えながら走っている。向けられた笑顔も、笑顔と言うより腕を抓られた様な表情だ。
「……私の人生の最大の汚点になりそうね……」
ベルフラムは九郎の首に手を回し、小さく一言呟くとぎゅっと目を閉じた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
どの位走っただろうか―――。
もう殆んど灯りの役目を果たしていない魔法の光の中、九郎は後ろから迫る、土砂の音から逃げるように先へと進む。
穴は徐々に狭くなってきている。もう天井は3メートル程上でしかない。
「もう少しだ!」
九郎は自身を励ますように叫ぶ。
足元を、僅かに照らしていた魔法の光が伸びあがる様に目の前を照らす。
―――出口だ!
九郎は光に照らされる壁に走り寄る。
「っ! うっそだろ……」
壁に辿り着いた九郎が立ち尽くす。
目の前の壁に出口は――――無かった。
「ここまで来て詰まってんじゃねーぞ!糞野郎!!!」
九郎は右手を突き出して壁を叩く。
厚く押し固められた土の壁が、立ち塞がるかの様に九郎の行く手を阻んでいた。
九郎は何度も壁を叩く。
拳に血が滲み、赤い粒子が糸の様に拳に絡まる。
どんなものでも削り取ってきた赤い粒子も、血の付いた壁を少しばかり削るだけだ。
後ろから大量の乾いた土砂が迫る。
「もういいわ! あなたは良くやったわ! だからもう止めてっ!」
ベルフラムが悟ったように九郎を抱きしめる。
「諦めてんじゃねーぞ! 俺は不死身の英雄だ! ここで諦めるなんてありえねえっ!」
九郎は壁を叩きながら言い返す。
(何か、何か無いのか? この状況をひっくり返す何か!?! 考えろ!このままじゃ、俺は良くてもベルフラムは圧死だ! 後もうちょっとなんだ!)
九郎は必死で解決の糸口を探る。
(毒は!?! 毒ならこいつは倒せるのか? いや、ダメだ! 倒しちまったら出られねえ! なら
『運命の赤い糸』か? これもさっきから効果がねえっ! 直線状に削り取る『運命の赤い糸』は俺と何かを挟まないと効果が出ねえ!! 『焼け木杭』? いくら火力が上がってても、腹の中でたき火しても動じねえこいつに効くとは考えにくい………)
そこまで考えて、九郎は顔を上げる。
土砂はもう間もなく押し寄せてくるだろう。
地響きの音が直ぐ後ろに迫ってくる。
「ベルフラム!」
九郎は首に抱きついているベルフラムを自分の前に下ろす。
九郎の正面に下ろされ、ベルフラムは一瞬、顔を赤らめる。
「いいか! ベルフラム! 俺が合図したら思いっきり息を吸い込んで目を閉じろ! 絶対に俺の手を離すなよ!」
ベルフラムは九郎を見上げ、真剣な顔で頷く。
後ろから空気の圧力のような物を感じる。
「行くぞ、息を吸い込め!」
ベルフラムが大きく息を吸い込み、目を閉じて息を止める。
九郎は拳を握ると大きく振りかぶる。
「もうちょっと食物繊維も取りやがれっ、ミミズ野郎!!!!
くらえっ!! 俺の第三の必殺技! 『青天の霹靂』!!!!」
叫びと共に繰り出される、何の変化もしていない九郎の拳。
九郎は壁に力いっぱい拳を叩きつける。
ズンと重い音が響く。
叩きつけた九郎の右腕が、九郎の後方へとはじけ飛ぶ。
ビシ
圧力に砕かれる岩の音がして、壁に亀裂が走る。
ビキッガキツ
前面の壁が吸い込まれるように崩れて行く。
九郎は、後ろの土砂から庇うようにベルフラムを抱くと、壁が吸い込まれて行った先へと身を投じる。
『変質者』の神の力―――
九郎の体を九郎の負ったダメージに耐えられる体に『変質』させる力――――。
―――――そして、同時に同等の威力に『変質』させる力―――。
この考えに至ったのには理由があった。
最初はたき火の炎に慣れたのに、野盗の炎の魔法に焼かれた時だ。
同じ炎なのに焼かれる事実。炎が炎を焼くなんてのは通常考えられない。例え一方の炎の方が火力が上だったとしても―――。
2度目の疑問は兎の魔物と戦った時だ。あの時放った『焼け木杭』は明らかに、黒犬達を相手にしていた時より熱量が上がっていた……。
確信めいたものは無かったが、九郎が一か八かで繰り出した『青天の霹靂』。
九郎がこのアクゼリートの世界に来てから受けたダメージの中で、一番大きな打撃―――。
すなわち『上空16000メートルからの墜落』。
『変質』の能力は意識しないと発動しない。
九郎は、賭けに勝った事を確信して、腕の中のベルフラムを抱きしめた。
ふっと体が軽くなる感覚。
続いて感じる地面に落ちる感覚。
広い空間にに砂の山が出来ている。
「ぶっはあっっっ!!!」
砂山の中腹から伸び出てきた腕が砂を掻いて這い出してくる。
「ぶえっ! ぺっ! ぺっ!」
口に入った砂を吐き出しながら九郎はベルフラムを引き上げると、どっかりと砂山に腰を下ろす。
両手で抱え上げたベルフラムは閉じていた目を恐々と開ける。
「な? 伝説に歌われる英雄みたいだったろ?」
「……このことは墓まで持ってくつもりよ……」
茶目っ気をたっぷり含んだウィンクをする九郎に、憮然とした顔でベルフラムが返す。
そして座り込んでいる九郎を見下ろすと、慌てたように首に巻いていたケープを九郎の顔に叩きつける。
ベルフラムは九郎から目線を外しヒステリックに叫ぶ。耳が髪の色と同じほど赤い。
「あ、あ、あなたはどーして目を離すと裸なのよっ!! こ、この変質者っっ!!」
魔法の薄明かりの中、九郎は困ったような顔で明後日の方向に目を逸らした。
酸の湖に浸かった九郎に身に着ける物など、存在していなかった……。




