幽霊探偵派遣会社 海水浴編
「ハルっちレシーブ!」
英人が放った渾身のスパイクがあたしめがけて飛んでくる。
「おおっと……!」
と、あたしはなんとかボールを空中に浮かすことに成功するが、ボールの勢いを抑えきれずにその身体が砂浜へと投げ出される。
「ハルっちの犠牲は{トス}……無駄にはしないぜ!{スパイク}」
西上の力を込めたスパイクが相手コートの地面を捉える。しかし、またも律香のスライディングレシーブによってボールが弾かれる。
「律香さん! お願いします!」
と、英人が律香にトスを上げた。すかさず律香が飛び上がる。
「とりゃ!」
律香の跳躍姿が真夏の太陽と重なった。本物のバレー選手と見紛う程の完璧なフォーム。凄まじいパワーとスピードを含んだビーチボールが――
「ちょっと待ってくれ。メガネが外れて――びゃっ!」
あたしの顔面に直撃した。
「やっぱビーチバレーはダメだな。どう頑張ってもチームバランスが偏っちまう」
と、西上が人差し指でビーチボール回しながら言った。
「姉さんごめんね。顔、大丈夫?」
「気にするな。メガネをぶち割ってたりでもしたら話は別だったけどな」
危なかった……。律香の顔がそう言っているような気がした。
「そろそろ泳いで来たらどうだ? 折角海に来たのにビーチバレーだけじゃつまらないだろう」
と、あたしはメガネをかけ直しながら言った。
「でも、姉さんはどうするの?」
「あたしは浜辺で昼寝でもしてるよ。久しぶりの休日なんだから上司に気を使う必要はないぞ」
「わかった。行こ! 英人くん!」
と、律香は英人の二の腕を掴んで海へと走り去って行った。
「じゃ、俺は秘密兵器を取りに車戻るわ」
「は?」
「いいから、昼寝でもして待ってろって」
西上はあたしの肩をポンとたたくと、車が停めてある海岸の駐車場へと歩いて行った。
「……秘密兵器?」
「律香さん……泳ぐの速いですね……」
と、英人くんが若干息を切らしながらわたしの後をついてくる。
「英人くんも速かったよ。途中結構引き離されたし」
「いやいや、普段あまり運動しないので……体力が持ちませんよ」
英人くんが堪らず波打ち際に座りこむ。
「大丈夫? 私、飲み物買ってくるよ」
と、わたしはすぐそばにあった海の家まで小走りで近づく。店先のメニューにはメロンソーダとジンジャーエール。わたしはメロンソーダを一つ注文した。
「はい、メロンソーダ」
「ありがとうございます」
英人くんは冷たいメロンソーダを飲んだ。美味しそうにメロンソーダを飲む英人くんを見てわたしも無性に喉が渇いてきてしまった。
「ちょっとちょうだい」
「え、でも……」
「ダメなの?」
「そういうわけでは――」
「じゃあもらうね」
と、わたしは英人くんの手からメロンソーダを奪い、中身を一気に飲み干した。
「ごちそうさま。これ、ゴミ箱に捨ててくるね」
わたしは上機嫌で足を踏み出した。けど、何かヌルッとした物{ワカメ}を踏んでバランスを崩した。
「律香さん!」
英人くんに支えられてなんとか難を逃れる。危うく浜辺に転がっている石に頭をぶつけるとこだった。
「英人くん。あ、ありがとう。でも……」
「?」
「この格好は恥ずかしいかな」
「ハルっち、おはよう」
まだはっきりとしない意識の中、後頭部を何か柔らかいものに叩かれている感覚に襲われる。
「ああ、おはよう……ってなんだその出来そこないのゴムボートみたいなやつは」
あたしが西上の方に振り返ると、西上が風船で出来たボートのような物を抱えて立っていた。
「これがあればカナヅチで有名な毒島さんも海水浴を楽しめると思ってね」
「ふん、さっき言ってた秘密兵器っていうのはこれのことか」
と、あたしは立ち上がった。
「貸してみろ」
「ほいっ」
と、西上がゴムボート……いや、この形だとゴムマットの方がしっくりくるな。ゴムマットをあたしに投げてよこした。
「結構デカイな。材質も丈夫でしっかりしてるし……ちょっと乗ってみようかな」
思わず心の声が漏れる。
「お、乗るかね。その気なら手伝うけども」
「ちょっとだけだからな。このゴム製畳を完全に信用しきったわけじゃない」
「はいはい、ちょっとだけね」
西上の口角が若干吊りあがった気がした。
静かな波の振動。潮風の吹く音。そして、鼻先をくすぐる磯の香り。海水浴も悪くない。あたしは目を瞑って煌めく水の上を漂っていた。ゴムマットも寝返りがうてるぐらい大きいから安全だ。ん? ゴムマット? おい、ちょっと待て。そしたらここは――
「海の上か!」
と、あたしはゴムマットの上で飛び起きる。飛び起きた反動でマットが小刻みに揺れる。
「うおお……」
その場でじっとうずくまる。少ししてマットの揺れが収まった。
「下手に動くと危ないな。海のど真ん中で転覆なんかしたら……あたしは海の藻屑だ」
ウトウトしている間に沖に流されてしまったらしい。遠くの方に浜辺が見えるが、あたしの周りに人気はない。いかんせんメガネをかけていないので、海と浜辺の距離感が掴めない。
「くそっ、西上め……やりやがったな」
またアイツのせいで面倒臭いことになった。
「おい、どうせ近くにいるんだろ? 早く出てこい!」
静かな海の上にあたしの声が響き渡る。
「今ならまだ許してやる。姿を現せ!」
あたしの声は真っ青な夏の空に吸収された。
「……ウソだろ? いや、そんな冗談あたしには通用しないからな!」
何度呼び掛けても返事はない。あたしの脳味噌に最悪の事態がよぎった。
「け、携帯電話! 持ってるわけないか。手を振ったって気付く奴はいないだろうし……」
ゴムマットの上で阿鼻叫喚する。一度冷静さを失ってしまったらもう取り戻すことは叶わない。
「お、お、泳いで戻る? 無理無理無理! バタ足すら出来ないんだぞあたしは!」
と、あたしはゴムマットの上で叫んだ。その時、海面に怪しげな影が浮かび上がった。
「い!? ま、まさか……サメ……」
最悪の事態を超える最悪の事態が発生しようとしている。
「待て、落ち着け、人間は喰っても美味しくはない。水分が多いし骨も多いし、噛みにくいんだ。それに、しっかり血抜きをしないと鉄の味しかしないしな。しかも、あたしは酒も飲むしタバコも吸うから内臓も半分は腐ってる。あと、もうちょっと太ってる人の方が――」
「ハルっちやけに詳しいね。ひょっとして、人間食べたことあるとか?」
海面から姿を現したのは……シュノーケルを付けた西上だった。
「に、西上ぃーーー!!」
「サメに日本語は伝わらないと思うぜ」
「てめぇいいかげんにしろよ? あたしが溺れて海底に沈んだら道連れにしてやるからな!」
「ごめんねぇ、あまりにも気持ちよさそうに寝てるもんだから」
結局、あたしは西上に引っ張られて浜辺に戻ってきた。西上に対する怒りは相当なものだったが、今回だけは許してやることにした。なぜなら、西上の顔を見たときの安堵感が怒りの感情よりもずっと上を行ってしまったからである。全く、とんだ夏の日の休日だった。さっさと探偵稼業に戻らないとな。
おわり