※06※楽ができるはずだった部活顧問
シングルマンズのベンチ。
ビーフチキンズの対面に位置するそこには、明らかに空気が違う者がいた。
それが、井川彩里と風祭麗だろう。
むさ苦しい男どもとは違って、華やかな女性の二人。
特に。
特に風祭麗は別格っっ!!
もう、可愛いなんてものじゃない。
適当な形容詞なんて思いつかないほどの、絶世の美女。
井川先輩は眼鏡をかけているだけの、堅物女。
未だに独身。
合コンに行ってもまともに話せない。
こちらに目配せして、涙で助けを呼ぶことしかできない。
女は隙がある方が男は喰いつくっていうことを全く理解できていない。
質問されても、心のシャッターを閉める。閉めまくる。
ぴしゃりと、正論しかいわない。
つまらないことしか言えない井川先輩なんて女性に思えない。
女性らしいところといえば、スーツからでも分かる無駄に大きなおっぱ――
「どこを見ているの?」
「いたっ!!」
スピードガンで頭を叩かれる。
「ちゃんと試合に集中しておきなさいっ!」
「いてて。だって、目当ての選手なんていないし、正直、私は野球になんかあんまり興味ないし」
「それでも、あなたが野球部の監督になったんだから、ちゃんと試合を見て野球のことを憶えないといけないの! そのために、こうやって休みの日もあなたと一緒にここに来たんだから」
「……私だって野球部の監督なんてなりたくなかったですよ。ただ、職員会議で全ての教員はどこかの部活の顧問か副顧問になりなさいって言われたからしかたなく……」
教師はただでさえ忙しい。
毎日毎日、明日の授業の準備やら、宿題を作ったりと、暇なんてない。
それなのに、部活の顧問をやれと言われた時には、耳を疑った。
全力で拒否したのだが、謎の協調性を強制された。
井川先輩とは大学からの付き合い。
真面目な彼女に任せれば、一番楽ができるだろうと、野球部を選んだ。
だが、それは間違いだった。
野球のルールすらあまり把握していないことを告げると、先輩は激怒した。
百聞は意見に如かず。
ということで、こうして休みの日に連れまわされている。
何が悲しくて独身女子二人で、野球観戦にこなければならないのか。
しかも、だいたいが禿、豚のおっさんどもが汗を流しているのを見るだけのもの。
せめて、スポーツのできるイケメンの男がいれば、黄色い声援でもおくっていたのに。
今はもう、女性らしさの欠片もない。
股なんて全開オープン。
ねらい目の男がいれば、キッチリ足を揃える。
外見が派手でも、姿勢を正しくしていると、結構褒められる。
意外にしっかりしているね、とか、男はころっと騙される。
普段から真面目にやっている奴が馬鹿をみる展開になる。
が、もう、今は演技ゼロ。
声のトーンも低めだ。
「井川先輩のいかがわしいおっぱいを触らせてくれたら、もっと頑張れる気がしますっ!!」
「もう触ってるじゃないっ!!」
「あいたっ!!」
やばい。
今のは、無意識だった。
心は完全にセクハラおっさん。
井川先輩の胸を服越しにモミモミしていた。
誘惑に負けてしまった。
しかし、女で良かった。
男だったら確実に冷たい手錠をかけられているところだった。
「ストラーイクっ!! バッターアウッっ!!」
微妙に上擦った声が響く。
どうやら、一人目の打者が空振りしたようだ。
しかし、あの相手側の投手の投げ方、奇妙だ。
「あれってソフトボールとかで見る投げ方ですよね。野球であれって反則じゃないんですか?」
「あれは、アンダースロー。野球の投法の一つですよ」
「野球の投法?」
「オーバースロー。サイドスロー。アンダースロー。順に上から、横から、下から球を投げる投法のことですよ。アンダースローはサブマリン投法とも呼ばれる投法ですね。他にもありますけどね」
「……例えば?」
「スリークォーターです」
「あっ、それは知ってる! スマッシュってやつでしょ!?」
「それは、ボクシングの技です……」
井川先輩が、はぁ、とため息をつく。
こっちとしては割と真面目に言ったつもりだったのだが、間違ったらしい。
「でも、なんであの子、アンダースローなんて投げてですかねぇー。ぶっちゃけ、あんな遅い球、すぐに打たれますよ。水泳に例えるならば、自由形の競技種目に平泳ぎで挑むようなものですよ。普通、最速のフォームで挑むべきなんじゃないですか?」
ボールは速ければ速いほどいいはず。
それなのに、なんでわざわざ遅くなるボールを投げるのだろうか。
「水泳でも、誰もがフリーを泳ぐわけじゃない。自分に合ったフォームというのは存在するんですよ。野球でもそう。ただ、アンダースローを高校生が選ぶのは、かなり珍しいですね。アンダースローを選ぼうにも、教えられる指導者がいるかどうか……」
「まあ、やっているんだか誰か教えたんじゃないですか? それにしても――」
バッターボックスに視線を投射すると、
「なんで、すぐに打たれないんですかね?」
二人目の打者も空振りする。
本気で振っているのだろうか。
あんな遅い球、正直、素人の自分でも打てそうな気がする。
「高校生にしては腕が振れていますね。リリースポイントも低い。……ですが、やはりアンダースローだから、打たれないとも言えますけどね」
「アンダースローだから?」
言っている意味が分からない。
哲学かな?
「そうですね。あなたに分かりやすくい説明するなら、まず一つ質問しましょうか」
「うわー。回りくどいですねー。井川先輩。そんなんだから生徒に嫌われるんですよ」
「えっ、私嫌われてるの!?」
井川先輩が前のめりになる。
すかさず胸を揉もうと手が勝手に動くが、さすがに自制する。
「う、嘘です。嘘っ! ちょっと生徒から堅苦しいよね、うっざー、とか相談されたことがあるだけで……」
「ぜ、全然フォローになってないんですが……」
しまった。
隠し通せなかった。
「と、とにかくそのことは置いておきます。今日の飲みで、詳しい話は聴かせてもらいますよ」
「えっ、飲み会するんですか!? 今日!? 何も聞いてないんですけど!?」
「生徒の陰口を聴かされて、平常心でいられますかっ!! いいですか!! 大人の最大の利点は、どんな辛いことが起きても! お酒さえ飲めば! 全てを忘れられるということですっ!!」
「わ、わかりましよ、わかりましたっ!! 場所はいつものところでいいんですねっ!?」
「もちろんっ!!」
こ、怖い。
こうなった先輩を止めることは誰にもできない。
酔っぱらった先輩の愚痴が永遠にループする、地獄の女子会は回避できないだろう。
しかし、どうやら機嫌はなおったようだ。
「さて、質問です。この世でもっとも打たれづらい球はどんなものでしょう?」
「…………それは、変化球じゃないですか? ぐねぐねよく曲がるやつ。もしくは物凄い速いストレートとか?」
「うん。間違っていないけど、その前にストレートの定義は何か知ってる?」
「そのぐらい私だって知ってますよ。ストレートはまっすぐなボールですよね。直線を描く……」
「んー。そうなんだけど、そうじゃないともいえるんだよね」
「えっ?」
調子に乗ってべらべらしゃべっているのが、ちょっとうざい。
けど、やはり自分の得意分野だけあって、楽しそうだ。
近くにあったボールをおもむろに、縫い目にあわせて握る。
「ストレートの一つである、フォーシーム・ファストボールはこういう風にボールに指をひっかけるの。そしてバックスピンをかける。なるべくまっすぐ進むように。初速からの落差が低くなるようにもね。だけど、絶対に直線を描くことはできない。何故なら、地球には重力があるから」
「そ、そんなこと言ったら、確かにまっすぐに進むボールなんてないですよ。だけど――」
「私がいいたいのは、屁理屈だけじゃない。私が本当に言いたかったのは、どんなボールでも重力に従って下に落ちるってこと。カーブだろうが、シュートだろうが、どんなボールでも下降気味に落ちる。どんな打者だろうと目が慣れる。だけど――アンダースローで投げた球は違う……」
先輩は下手で投げる素振り見せる。
「アンダースローは下から上へ投げる投法。つまり、アンダースローだけ、見慣れない軌道を描くことになる。だから打たれづらい。私が考える最も打ちづらい球種は、誰もが見慣れない球種のこと。とてつもなく速い速球だろうが、魔球と呼ばれる変化球だろうが、誰もが見たことのないものっていう定義にひっかかるでしょ?」
「……それは、そうですけどねー。それほどのたまとは思えないですよ。私には……」
どれほど凄いものかは分からない。
アンダースローがどれだけ凄いかは分からないが、分かることだけが一つ。
今、三人目の打者が空振り三振した。
スリーアウトチェンジ。
つまり。
相手側の投手が、こちら側の打者を三人でぴしゃりとおさえたということだけだった。