※22※夢
球が伸びあがっていく。どこまでもグングンと、投手の、小梶の頭上を越えた。越えたけれど、それまでだ。激しい向かい風がボールの球威を下げていく。残念ながら風を切り裂くほどの威力はない。もう、どうしようもない。こんなの、神様が決めたことだ。でも、でも、でも、それでも、どうして止めなかった。本当に勝ちたかったのなら、もっとやり方があったはずなのに、どうして。
「いけえええええええっ!!」
負けたくなかったからだ。もしも、この世界に神様がいるのなら、武を生かしたはずだ。それなのに、今頃になって神様頼りになんてできるわけがない。もしも、本当に神様がいるのなら、それを倒してみせる。倒して、自分の未来を切り開いて見せる。向かい風しか吹かなかったとしても、そんなもの無意味だ。俺は、あいつとの約束を必ず守って見せる。
ブワッ、と背中を誰かに押される。
いや、押された訳じゃない。風だ。この一瞬だけ、向かい風から追い風へと変わった。それは天候の気紛れ。春の風はほんとうにどんな方向にだって強風は吹く。でも、このタイミングで切り替わったのは、まるでボールが上空へ飛び上がるように吹き上がったのには、何か意味があるような気がしてならない。
神様とやらをねじ伏せられたのかもしれない。
「――――っ!」
小梶が息を呑んで振り返って、ボールの行方を追う。ボールは風が追い風にさえならなければ、外野フライで確実にアウトになっていただろう。だけど、そうはならなかった。ボールはふらふらと勢いをなくしていくと、ついに落ちてしまう。――柵を越えた――ホームラン。それが、最終的な結末だった。
「………………」
「………………」
どちらも、言葉がなかった。カラン、といまさらになってバットを落とす。ずっと握りしめていたのだ。固唾をのみながらボールをずっと目で追いかけていた。
俺は、小梶にも武にもなれない。天才にはなれない。もしかしたら、この追い風がなければ、俺はきっと負けていただろう。ただのフライで終わっていた。それほどまでに欠片も才能を見いだせなかった。それなのに。ずっと、投手に固執していた。
武の意志を受け継ぐのなら、それがいいと思ったから。だから一生懸命研究した。最初はオーバースローをして、失敗した。みんなと同じことをしていれば見劣りするのは当たり前だから、アンダースローに挑戦した。でも、小梶という天才にあたってしまったせいで、投手さえも辞めることになった。なんてみっともなくて、なんてプライドのないことだろう。
でも、でも、でも。
それでも、俺は最後の最後まで野球を捨てなかった。捨てられなかった。たくさんのものを捨ててきたくせに、たった一つのことは捨てられなかった。投手でなければ、兄弟のためになんて言葉を使えないのに。それなのに、少しでも勝てる可能性である打者を選んだ。そんなのただの反則だった。俺は、俺の自分ルールを破った。勝手に立てていて誓いを自らぶち壊してしまった。
でも、それはきっと、やっと自分のために野球をやりたいと思ったから。
わがままで自己中心的だけど。
それでも、自分の幸せを考えたから。
こんな俺が俺のために何かをしたいって思うのは間違いかもしれない。自分の人生を歩みたいって思うのはおこがましいことなのかもしれない。つつましく、野球に関わらず、ただぼんやりと野球中継を居間で観る。それぐらいが俺の人生と比較して、ただただ相場なのかもしれない。
だけど。
俺は抗ってしまった。武のことを綺麗さっぱり忘れるわけじゃない。約束を守らないわけじゃない。過去全てを全否定するわけではない。
少し角度を変えたいだけだ。
ちょっとでも角度を変えたら、見えないものが見える。俺は、野球を続けていきたい。約束を守るためにも。――そして、俺が野球を心の底から愛すためにも。きっと、それ以外のたくさんのことが積み重なって、俺はバット振ったのだ。
実力だけじゃどうにもならなかった。ただの運任せだった。公式の試合なんかじゃない。草野球ですらない。一試合にも満たない。ただの一打席。そして、たったの三球だけのやり取り。それでも、これだけは言える。この一回。もしかしたら、一生こんな場面なんて俺の人生なんてないかもしれないけれど。それでもこの一回だけは、凡人の俺は天才に勝ったんだ。
「やったあああああ!」
喜ぶ声がグラウンドに轟く。
「あ?」
「……あ……」
それは、俺の声なんかじゃない。小梶も驚いた顔をして、俺の背後に視線をやる。
「な、なんであずさがここに?」
「……あっ」
ガッツポーズをとりながら、ジャンプまでしているあずさは、どうやら自分がどれだけ恥ずかしいことをやっているか気がついたらしい。耳まで真っ赤だ。そして、その赤は耳の端っこどころか、首筋までどんどん浸食していく。
「あずさ」
「カケルゥ」
「……って、なんで泣いているんだよ?」
「だってぇ、だってぇ……」
恥ずかしがっているから紅潮したと思ったら、今度は泣きだした。感情の振れ幅が大きすぎるだろ。さっきまでの俺のテンションをどこに持っていけばいいのやら。
いつの間にやらかなり接近していたことに気がつかなかったが、あずさは俺のことを心配してくれたんだろう。
「ありがとうな」
「うぇえええええん!!」
「……えぇ」
ちょっと引いてしまうぐらい泣いてしまう。ちょっと幼児退行しすぎなんじゃないのか。まあ、ぶっちゃけ俺のせいだから何も文句は言えないんだけど。
ずいぶんと待たせてしまった。ようやく、俺は自信を持って言える。野球をやりたいと。やっぱり公式戦に出たい。ピッチャーになりたいっていう俺の夢はどこかに消えてなくなってしまったけれど、それでも俺は野球をやりたい。そんなに甘くないことは分かっている。みんな、もっと前から努力に努力を重ねている。リトルだとかシニアだとかで経験を積んでいる。
天才だというのに、努力をしている。ウサギとカメの話を持ち出してしまえば、俺は努力してこなかったカメだ。こんな俺にあと、どれだけのことがやれるのか分からない。それでも、挑戦しようと思う。あずさがいてくれるなら、俺はきっとどこまでも頑張れる。
だけど、彼女の好意におんぶにだっこというわけにはいかない。彼女を泣かせるような男でいたくはない。次は、もっと笑顔にできるような、そんな野球選手になりたい。
「……井川先生」
小梶の声に気がつくと、また人が増えていた。それだけじゃない。どうやら結構時間が経ってしまったせいで、遠くの方から生徒がぞろぞろと見える。いい加減ここから退散したい。なんでこんなところにいるのか野球部に訊かれたら面倒だ。もうちょっと感傷に浸りたいところだが、先生とやらも来たのだ。――ん? どこかで観たおぼえがあると思ったら、この先生、あの草野球の時にベンチにいた人に似ている気がする。
「知り合いか?」
「えーっと、野球部の顧問? みたいなものかな?」
「え?」
小梶の代わりにあずさが答える。野球部の顧問みたいなもの、っていうのが気になるが、そんなのはどうでもいい。思い立ったが吉日。どうせ俺のことだから時間を置いたら、またグダグダ悩むに決まっている。だったら、またとないチャンス。好機。勢いのまま、ありったけの想いを込めてやる。
「俺、野球部に入ります」
たった一言に、俺の全てを集約させた。この一言を言うために、俺はどれだけ遠回りしてきたのだろう。こんなあっけない言葉のために、俺はどれだけ悩んでいたのだろう。くたくたになった心のまま、俺は真っ直ぐに顧問らしき人を見つめる。どんな想いだってそうすれば叶う。そんな青臭いことを想って、でも、
「あなたは野球部に入れるほど実力じゃありません」
そんなもの、きっとこの人には関係なかった。がくん、と手首に力が入らなくなってぶらぶらしてしまう。
「そんな……」
あずさが悲痛な声を上げる。俺も上げられるのならば、上げたかった。何の言葉もでないほどに落ち込んでいた。
「――ピッチャーとしては、ですが」
「…………!」
「内野手ならば歓迎します。あなたのその反射神経とバッティングセンスは目を見張るものがありますからね」
「じゃ、じゃあ」
井川先生が、手を伸ばす。
「ようこそ、我が野球部へ」
俺は、握手し返す。輝かしい未来なんかまったく期待なんてしていない。暗澹たる雲行きしか俺には見えない。内野手も、あまりピンとこない。コンバートして活躍した選手なんて山ほどいるけれど、それでも、俺ができるのか不安しかない。打者が運んだボールの場所や条件によって守備位置を毎回変えなければならない時だってある。身体だけでなく、頭もフル回転していなければならない。そんなもの、俺に務まるかどうかなんて、そんなの分からない。
それでも、俺のことを認めてくれる人がいるのなら、その手を握り返さないわけにはいかない。
俺の夢はようやくここから始まった。