※17※家族の傷名
自宅へと到着する。そのまま敷地を跨る前にやるべきことがあった。玄関前で、まるで浮気がバレないように必死になってキスマークを探す最低男のように身体を点検する。少しでも野球をやってきた痕跡があれば、発狂するに決まっている。
「た、ただいまー」
家を出たのが遠い昔のような感覚。正直、帰りたくなかった。もしも願いがかなうなら、ドラマッチクな展開、乙女の願望そのまま、時間よ止まって欲しい、みたいなことを願うはずだ。だけど、現実はもっと泥臭くて。家に帰ったら検問があるからだ。本当だったら、この、ただいま、も言いたくない。忍び足でさっさと自分の部屋に退散したいところだが、家の親は非常にそこらへん厳しい。家を出る時も帰る時も、必ず挨拶をしなければならない。放任主義でありながら、異様にそこらへんはこだわる。
当たり前といえば、当たり前。こんなことを誰かに説明しても、そんなもんだろ、と府に置いた顔をされてしまうだろうけれど、これはこの家の空気を経験した経験者にしか分からない。なんだか、怖いのだ。こだわりがあることには徹底しているそれ以外は全く興味がないというのは、とても怖くて、不気味だ。サヴァン症候群とまではいかないが、何か一つの物にこだわりが異様にあるものというものは、近寄り難いものがある。
オタクが忌避されているのも、そこに原因があるかもしれない。昔は、ファッションに金をかけるのが億劫だから、こだわりなきファッション。分厚い眼鏡を掛けて、シャツなズボンの中に入れる。みたいなオタクファッションだったが、見た目的な問題はかなり改善されているような気がする。今はかなりオタク優遇されているけれど、それでもまだ印象操作の洗脳が解けていないのは、こだわりが強いところにあるのではないだろうか。三次元のあれこれ、集団行動の時は無口のわりには、自分の得意分野になると物凄い饒舌になるところとか。そういうのは、俺も分からなくはない。野球のことになると、俺だってオタクになるのだから。だけど、そのたがの外れ方によっては、恐怖を覚えてしまう。うちの親は、そういうタガの外れ方が異様なのだ。
「はい、おかえり」
「うあっ、うん」
母親がいた。最悪だ。いつも思うのだがどうして休日になると母親はずっと家にいるのだろうか。がっつり働いているわけではない。パートで、週、一、二、ぐらいしか働いていないくて、平日でも休日でも家にずっと引きこもっている。家事をするのなら分かる。自分の趣味にまい進するのなら分かる。だけど、うちの母親は本当に何もしない。ただ、呆然と家にいるだけ。ぼうぅと、部屋の中を眺めているだけに見える。
まるで魂の抜かれた人形のようで、たまには外に出た方がいいと毎回思う。外に出ないから元気が出ないのだ。覇気がない。今を生きようとする意志が感じられない。そんな親の傍にいると、俺まで魂を抜かれたように元気がなくなってしまう。
「…………うあっ、ってなに?」
「な、なんでもない」
不審な目つきになっている。特に何も後ろめたいことなどないのに、職務質問されたら誰だってたじろいでしまう。そんなことになりそうだったので、すぐに母親を放置して部屋に戻ろうとする。だけど、
ガシッ、とまるでホラー映画のように腕をつかまれる。
しかも、ギリギリッと。まるで海底深くまで誘おうとするような強い力で握ってくる。段々と力が強くなっていく。
「な、なんだよっ!」
振り払おうとするが、まるで振り払えない。母親の力は俺よりも絶対に弱いはず。握力だってそんなでもないのは、普段の生活からも分かる。ジャムの瓶でさえも悪戦苦闘するぐらいに非力なのだ。それなのに、火事場の馬鹿力を発揮しているかのように、力強い。
「それ、なに?」
「はあ? …………あ?」
バッグのファスナーが微妙に空いていた。さっき何度も、何度も確認することで頭がいっぱいになって、ファスナーの微妙な空き具合を見逃していた。一番大切なことだったのに、流石に今日はいつもの倍以上疲労したいせいもあってか、気がつかなかったのだ。
だけど、ちょっとした空間。いくらでも言い訳しようがあると一瞬冷静さを取り戻したが、それもすぐに霧消する。何故なら、空いていたファスナーから垣間見えたのは、靴。野球靴。スパイク。とげとげしい靴には、泥の跡があった。隠し切れないその泥さえなければ、まだ弁明しようがあったのかもしれない。
でも、もう無理だ。まるで名探偵のようにその泥に注目した母親の形相は、みるみるうちに変わっていった。さっきまでは枯れた木のようだったのに、まるで般若のように変わっていく。力が漲っていく。悪い方の力だが。
「なに、それ? まさか、あんた――野球をしてきたの?」
「いや、これ、友達の――」
「あんたなんかに友達なんているわけないでしょ? いても、どうしてそんなもの預かっているのよ? そもそもそんなものをここに持って帰るあんたが悪いのよ」
「それは……」
「言いよどむってことは、やっぱりそうなのね? どうかしているわ、あんた」
わなわなと唇を震わせる母親を見やって、どうしようもなく逃げたくなる。嫌だ。本当に嫌だ。暴れる母親を何度も見てきた。喚き散らしながら、そのへんの花瓶とかを割って、壊して、発狂する。自分だけでなく、周りの心が壊れてもなお、それでも破壊の限りを尽くす母親を何度も見てきた。身体が硬直する。何かしなければ、何かいわなければと思えば思うほどに、なにもできない。
車にひかれるときに、身体が動かなくなるように、人間は絶対的な恐怖に陥った時には何もできないらしい。けれど、本当にそんな状態だ。こっちが何か言えば、それが全て引き金となって、母親は壊れてしまう。いや、元々、俺の母親きっと、壊れているのだ。
「この、人殺しっ!!」
壊れている。自分の息子を人殺しと断じてしまうぐらいには。手遅れなほどに、狂気。あああああああああ、と髪の毛をわしゃわしゃし始める。そのまま脳髄を引きずりだしてここに晒してしまいたいのかどうかは知らないが、血がでるぐらいに爪を立てている。
「あの、」
「いやああああああああっ!!」
手を振り払われる。俺も何がしたかったの分からない。きっと、条件反射。相手がどんなものであれ、自分の母親なのだ。壊れている母親に手をさし伸ばして、それで、何かを救いたかったのかもしれない。それは確かなのだ。血は繋がっているのだ。俺は育ててもらった。家に住まわしてもらっている。飯もつくってもらっている。洗濯だってしてもらっている。生活を保障してもらっているのだ。それだけじゃない、産んでもらった時に死ぬような想いだってして、思い出をつかみかせてきた。辛い時だってあった。喧嘩だってした。それでも、全てを乗り越えて、今、ここにいる。親子の絆を確かめて、今ここにいるのだ。それなのに、
「どうして、あなたが生きているの? どうして、あなたはあの時死ななかったの? ねえ、返してよ! 私の息子を! ほんとうの私の息子を!!」
血を吐くように叫ぶ母親を見るのは本当に辛くて、辛くて、死んでしまいたかった。苦しんでいるのだ。音になれば、本音を言えなくなる。だから、耐性がいつの間にかなくなってしまう。心からの叫びに自分の心がついていっていない。ビキビキと今にも亀裂が入っていそうな幻聴さえ聴こえてくる。
俺だって死にたかった。こんなことになるぐらいだったら、本当に死んでしまいたかった。もしも代われるのなら、すぐに代わってやりたいぐらいだ。そら、少しは抵抗するだろうけれど、こんな生き地獄の記憶があれば、俺は最終的に死を選ぶだろう。俺のことを少しでも想ってくれる人間がいるのなら、未練だってあっただろう。でも、そんなことはありえなかった。
両親でさえも、近所の人間でさえも俺のことを咎人でも見るような視線を浴びせまくった。あずさ屋の人達ぐらいなものだけれど、俺よりもよっぽど優秀な奴が死んでしまったのを、悲しんでいないはずがない。
法律でだって決まっている。優秀な人間を傷つけた加害者には、無能な人間を傷つけた時よりも罪が重くなる場合が多い。そう、国さえも認めているのだ。才能のあるものと、才能なきものを区別することを、公式で認めてしまっている。
「ねえ! どうして!」
腕をつかんで、体重を乗せてくる。早く死んでしまえというように、力を込めてくる。そうすれば、本当に自分の息子が死んでくれるのではないかと思い込んでいるようで、気分が悪かった。そこまで肉親の死を望める母親の尊敬すらした。よくそこまでできるもんだと。
「やめろっ!」
振りほどくと、おおげなほどに転がる。まるでやくざか何かのように、痛がる。板が手いる振りをする。自分が可愛いせいか、かなり酔っている。瞳には涙がたまっているどころか、どんどん溢れていっている。泣きたいのはこっちだ。傷ついていのはこっちだ。そうだよ、そうだけど、母親の気持ちも分かってしまうからこそ、俺はやりきれない。もっとやり返したいのに、何か言い返したいのに、何も言葉がでてこない。
「いたいっ! いたいっ! 最悪よ! 人殺しぃいいいいいい! 私のことも殺すつもりね! 死ねっ! 死ねっ! 死ねっ!」
……別に、俺はこの世界で一番不幸だなんて、悲劇の主人公ぶりたいわけじゃない。でも、いるのかな。この世に、ここまで自分の親に憎まれながら生き続ける人間って。いないんじゃないかって思える。もしもいたとしても、そいつは早々に自殺しているだろう。楽になっているだろう。いいなあ、死ねるって。そいつはきっと強いんだ。自殺できる人間は本当に強い。世間では弱い、逃げ腰みたいな印象が強いみたいだけど、俺は違う。本当に凄いって思う。俺は――死ねない。弱いから。弱くてどうしようもなく。死んだ方が絶対にいいことなのに、死ねない。死にたいのに、死ねない。心のどこかで言い訳している。あの約束があるから、俺は死んではいけないんだって、言い訳している。そんな訳ないのに。今ここで首をつろうとしても、誰も止めない。俺の家族は誰もとめてくれないって分かっているのに、俺は死ねない。弱いから。すっぱり、まるで魔法みたいに死ねるなら死ぬのに、めんどくさい工程を踏まなければ、人間は死ねないから、だから死ねない。強さが足りない。死にたい。ああほんとうに、
死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。
死にたいけれど、死ねない。
フラフラと、号泣している母親を置いてけぼりにしながら、部屋へ行く。もう使われていない部屋へと。掃除だけはしっかりしているおかげで、埃などない。だけど、机とか、教科書とかはあの頃のままだ。もしかしたら、フラッと戻ってくると、母親は思い込んでいるのかもしれない。
あの日。野球をするために外出した。俺も一緒だった。もしも、野球をしようとさえ思っていなければ、どうにかなったのだろうか。いや、そんなこと想像もできない。俺よりもよっぽど野球が好きだった。俺よりもよっぽど野球がうまかった。誰からも好かれ、両親の期待を一身に受けたあいつは、野球が好きだった。三度の飯より野球が好きだった。誰かにやめろといっても、やめなかっただろう。
写真がある。
遺影となってしまったその写真を見て、俺はうめき声をあげる。
「うっ、う、うううううううう」
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
俺は野球をやってはいけないのに、やってしまった。お前がいないのに、俺は野球をはやってはいけない。楽しいと思ってはいけない。あずさ屋の人達が心配するから少しぐらいは野球をやってもいいかなって思ってしまった。でも、絶対に高校の試合にでてはいけない。部活に入ってはいけないと、自分でルールを作った。野球をやるにしても仏頂面で、投げやりにやらなければならないと決めていたのに。いつの間にか熱くなってしまっていた。真剣に野球に取り組んでしまった。最悪だ。野球をやる資格なんてないのに。
野球を愛することなんて、幸せになる権利なんてないのに。
どうしても、我慢ができなかった。
あの才能に出会ってしまったから。あの才能に俺の好きが、どれだけ通じるか試し勝った。そして、結局何も通じなかった。なにもできなかった。タブーを犯しても、それでもなお、なにもつかめなかった。俺はお前にはなれなかった。
「俺、野球をやっていいのかな……?」
答えはない。返答などなくて、どけざするような恰好で、俺は泣き続ける。泣き崩れる。俺が殺してしまった。俺のせいで、野球ができなくなってしまった。これから輝かしい日々を送るはずだったのに、何もかもが無に帰してしまった。失ったものの名前を呼ぶ。
「武……ごめん……ほんとうに、ごめん……」
さようならも言えなかった。
ありがとうも、さようならも。
何も、言えなかった。