※16※ドライブスルー
「終わりましたね……」
随分と長い試合を見せられた気がする。それは、別に試合が単調でつまらなかったから、時間の経過が緩慢に感じられた、というわけではない。それとは逆。まるで長編映画を観終わったかのような充溢感で胸がいっぱいだ。
――ほんとうに、いいものを見せてもらった。
そう、井川は胸中で呟く。小梶大樹という野球選手がいったいどこまでの大器なのかを知れた。思わぬ収穫だ。今日、こうやって草野球の試合を見に来たのは、単純に、風祭に野球とはなんたるかを教えるためだった。風祭に何か野球の資料を渡したり、テレビで野球中継でも観たりしろと言っても、それをしてこない。
まったく、教師失格だ。生徒に宿題をやってこいと言っても何の説得力もない。自分だってできていないのだから。しかし、風祭も毎日忙しいのも知っている。家に帰っても明日の授業の準備で徹夜しなければならない時だってある。だから、やる気がないものに取り組むのがどれだけ大変なのかは分かっているつもりだ。だから、こうやって無理やりにでも連れ出して、こうやって野球をみせた。荒療治だが、その効果はあったように思える。
自発的に疑問を出したり、試合には手を膝にやって前のめりになったりして観戦していた。そんなの、興味がなければ出てこない行為だ。ようやく、スタートラインに立てた気がする。
今日のこの試合のおかげだ。知り合いの監督に無理を言ってほんとうによかった。小梶が入ってからはかなりワンサイドゲームのような試合展開になってしまったけれど、それでも、あの素人の奮闘も彼女の心を揺れ動かした一要因だと信じている。
「うーん。長かったですねー。ちゃんと最後まで挨拶しなくてよかったんですか?」
「監督にはちゃんとあいさつしたし、それに、ちょっと家に帰ってから色々と考えをまとめたかったんですよ」
車の駆動音が鳴り響く。今日はバスで来るかどうか迷っていたが、車を出して正解だった。天気予報では雨なんて降る予定などなかったのに、そこそこのどしゃ降りになってしまっている。
「うーん。もしかして、次の紅白戦のオーダーですか? どうせ、三年生は出すんですよね?」
「……例年ではね。思い出づくりのために三年はほとんどレギュラーにするみたいだけど、私が野球部に関わることになったからには、今年は改革を起こしたいんですよ。完全なる実力至上主義で――」
「そんなの反感あるに決まっているじゃないですかー! めんどくさいのは勘弁して欲しいんですけどー」
「あのね、あなたそれで野球部が負けたらどうなると思っているんですか?」
「えっ? すぐに試合終わって、私は楽ができる?」
バットは、確か後部座席においてあったから、それを持ってぽかりと頭を叩いてやろうか。そうしたら故障している頭も治るかもしれない。信号機で止まるのは危険なので、どこか車を歩道に寄せて停車してやってやろうか。
「じょ、冗談ですって! 前! 前見てくださいって!」
運転中のよそ見運転をやめる。危ない、危ない。ついつい、後ろを振り返ってしまっていた。前方車両や後方車両とかなり車間距離があったからよかったが、普段していい不注意ではない。せっかく目指しているゴールドな運転免許が手に入らないところだった。反省する。運転のことは。――風祭を叩こうとしたことは別に反省の色など見せる気は毛頭ないのだが。
「もう、部活めんどくさいのは本音ですけどね。部活動の指導したって、手当てがつくわけでもないのに、休日に車だしたり、ユニフォーム買たりしないといけないのってしんどいですよねー。ブランドものの服とか買いたいしー。野球とか、汗かいて運動して死ぬ思いをするマゾヒストかな? って感じですし」
拳を握りこむ。
「す、すいませんっ!」
「いいのよ。あなたぐらいやる気がない方が、私とうまく中和されていいですから。それに、やる気がない方が、私も色々と口出ししやすい。中途半端に齧っている人間ほど、意見してきて面倒なんですよね。そもそも教育に正解も不正解もないのに、自分の教育が正解だと思い込む教育者が多い。まっ、自分が正しいと思いこまなきゃ、教育者だなんてできないのかもしれないですけどね」
「あの、前から思っていたんですけど、先輩が顧問になった方がいいんじゃないんですか?」
「適材適所ですよ。あなたが上に立った方が、選手たちはやる気は出るし、親御さんは心配しないし。私みたいな堅物よりも、あなたのように誰とでも仲良くなれるような人の方がうまく回ったりするんですよ。私はどうも人の上に立つような人間じゃないってことが、最近分かってきましたから。厳しくはできるけど、それに最近の子はついてこれないし。フォローに回った方が何かとうまくいくようですね」
「井川先輩は昔からスパルタですからねー。ついてこれない人はついてこれないですよー」
スパルタでやっているつもりはない。ただ単純に、やって当然のことはやるべきだと考えているだけだ。やらなきゃいけないことをやらないのは、怠惰なだけ。だからこそ、腹が立つ。
たとえば、数学ができないとか、バスケができないとか、そういうことで悩むのは分かる。どれだけ努力してもどうにもならないことだってあるのだから。それでも頑張れば、少しずつ点数は上がっていくんだよと、生徒に諭すことはあれど、百点取るまで今日は家に帰さない、なんて強制をするつもりなどない。
だけど。
練習でできないことは本番ではできない。勉強はともかく、スポーツは命にかかわることもある。めったにいないが、危険な行為であることには間違いない。だから、練習で身体をいじめる、いじめぬく。そうして怪我をしにくい身体をつくりあげて、消耗の激しい本番に送り出すことも大切だ。
どれぐらい身体を酷使すれば壊れるかは、経験者である井川には分かっている。だから、危なくなったら止めてあげるつもりだ。適当にやって怪我をさせられるより、スパルタで鍛え上げた方がいい。
だけど、嫌われることは分かっている。どれだけ生徒のためを思っても、疎ましいと感じてしまうのは井川にだって理解できる。自分だって本当は生徒を怒りたくない。だけど、自分が甘い顔をしてしまったら、きっと、みんな気が抜けてしまう。努力を怠ってしまう。
つめこみ世代よりも、ゆとり世代の方が正しいと思われたからそうした。週休二日制にして、土曜日と日曜日を休日にしてしまった。
でも、人間という生き物は、自由時間を与えられてしまって、果たして努力できるものなのか。時代と共に世界的なテストの点数は下がっていると、テレビでよくデータを見ることがある。それもそうかもしれない。自らを追い込むことができる人間というのはまれだ。小梶大樹のように、逆に教師側が手綱を引いてやらなければならないようなケースもあるが、基本的にはサボってしまう。楽な方へ逃げてしまう。だから、ある意味学校は必要なのだ。
本当に自分ひとりでどうにかなるのならば、学校なんて必要ない。それに、部活だって。頑張るためには、制限が、枷が必要となる。それを認めなければ新たな一歩は歩むことなどできない。
井川が学生時代には、学校に一人は竹刀を持っている指導員がいた。たとえ、井川が女子だろうと、全力で張り手をされた。悪いことをしたら、叱られたのだ。今の時代の子ども達は、守られている。守られているのを自分達で理解できているから、わざと教師を挑発する者もいる。殴られないことを知っているから、どんな暴言でも吐ける。
だから、教師は指導方法を指導される。ただ怒鳴り散らすのではなく、どこが悪いのかを合理的に教えてあげなさいと。そうしたら、納得するのだからと。確かに、その通りだ。だけど、正論は時に子どもの心を傷つけてしまう。どこが悪いのか具体的に、そし的確に掘り下げる方が傷つけてしまうことがある。どれだけ虚勢を張っていても、心はまだ未熟。大人よりも壊れやすい。
だからといって。
お手手を繋いでみんな一緒にゴール。これで平等だよね! となったら、スポーツをやる意味はない。そんなことをしたら心優しい子どもは育つかもしれないけれど、社会人になったらどうなる? 競争しないことこそ是となるのではないのか。そんなんだから、さとり世代というものが嘆く時代が到来したのではないのか。そんな風に思う。
どんなきれいごとを並び立てても、将来人間は必ず競争社会に放り込まれる。甘やかすだけが教育ではない。その現実を突き立て、どうなるかを見極めることこそが教育だ。そして、それだけで生徒はついてこないことを知っている。
飴と鞭。
その二つがあるからこそ、相乗効果で成長できる。だからこそ、風祭は必要だし、鞭の使い方もどうやって使うのかを神経すり減らして考えているのだ。もっとも、風祭はあま考えていないようだが。
「でも、面白い選手もいましたね」
「……誰のこと?」
「またまたあ。先輩だって結構注目してたじゃないですかー」
「――普段は鈍いくせに、たまに鋭いのが腹立つ」
「えっ? なんですか?」
「なんでもないです。それで、誰のこと?」
「だから、蛯原カケルとかいう男の子ですよ。私は野球にあんまり詳しくないせいですかね。配球の巧みな投手よりも、豪快なフルスイングをする選手の方がいいですよね!」
野球中継はまだ、解説者がいる。そのおかげで野球に無知な人も楽しめることができる。もちろん、野球を知っている井川でも、楽しめる。他人と違う角度からの視点での物言いに関心することがあるからだ。――とにかく、言いたかったことは解説者がいない、生の試合というものは、素人にとってあまり楽しめないということだ。こと、投手の配球なんかについては。
特に、今回の試合はかなり単調だった。小梶大樹の投げる球はほとんど同じテンポだったし、あのど素人のアンダースローの投手は、もっとひどい。技巧をこらした様子はなかった。最後らへんはバテバテだった。配球もなにもなかった。思っているところに球を投げられなかったので、捕手の人も相当苦心していた。しかし、
「……あの子も投手でしょ?」
「あっ、そうでしたね! でも、小梶と比べるとどうしても見劣りしちゃうからなー」
投手としては見劣りする。ということは、つまり、逆の言い方をすれば投手以外のことに関しては、あの素人は、小梶大樹と見劣りするレベルではないということになる。なるほど、さすがに分かっているようだ。
「先輩的にはどうだったんですか? あの、少年のことは?」
蛯原の最後の打席を思い出す。自分自身の手で試合を終わらせてしまったのだから、意気消沈してしまっていたのも分かる。だけど、彼は分かっていない。最後の打席が終わって、どうして小梶大樹が蛯原に向かって行ったのか。
小梶大樹は他人に関しては無関心だ。普段は友好的な振る舞いをしていて、教師の中では評判がいい。
だが、それは彼の本質ではない。どうでもいいものだからこそ、適当に振る舞うことができる。ほんとうは誰よりも冷酷な感情を秘めている。一見すると、彼のそういうくらい部分には気がつかないが、野球をやっている姿を見ると、勘のいい人間は悟ることができる。口数が少なくなり、攻撃的になる彼を見ていれば、こちらが本物であると。
本当に好きなものに関することになると、途端に口べたになる。野球ならば、ただプレイだけで語ろうとする。だからきっと、あの素人には伝わらなかっただろう。最後の、あの一球の意味を。あの一球を打ったことによって、小梶大樹がどんな風に思ったのかを、きっと何も伝わらなかっただろう。
最後のあの一球、あれは本気だった。この試合一番の速球だった。変化球や外のボール球を放れば、必ずアウトがとれるはずだった。それなのに、あくまで真剣勝負にこだわった結果、彼は全力で球を投げた。そして、それに呼応するかのように、あの素人は球を打った。しかも、前に飛ばした。
小梶大樹のボールが前に飛んだのをはじめてみた。仮にピッチャーフライのアウトだったとしても、あそこまで運んだことこそ、評価に値する。だけれど――
「落第ね」
野球はそんなに甘いものではない。どれだけ凄いピッチャーでも点数をとられるときはとられる。バッターも打てる時は打てるのだ。たまたま交通事故みたいにああなっただけなのかもしれない。少なくとも、あの素人は、素人の域をでない。
「少しはやるようだけど、素人の域を決してでない。あまりにも不完全すぎる。アンダースローもにわかじこみ。たった七回、しかも、この程度のレベルで、最後らへんはフォームがかなり崩れていた。あんなんじゃ、簡単に打ちこまれる。高校野球はそんな甘いものじゃないですよ」
「確かに。素人目からみても、消耗していたのは見て取れましたね。あんなんじゃ、高校野球はだめかもしれませんね」
「ええ、どうしようもなく失格ですよ。――投手としては、ね」
「えっ? それってどういうことですか」
「……そのままの意味ですよ」
ピッチャーそのものの素質はそれほどでもない。だが、バッテイングや守備に関してはそうともいえない。
あのボールの反応速度。反射神経だけでは説明ができない返球速度。あれは、捕球すると同時に、体勢を決めていなければできない。あのスムーズな体の使い方は、子どもの頃から常に野球をやっていなければ身につかない。その癖、あの中途半端なアンダースローはなんなのか。
ある意味、興味が尽きない選手といえる。
だが、それまでだ。井川には何もできない。才能ある子どもに勧誘はしても、強制はしない。よく、保護者の方から勘違いされることだが、先生だからといって全てのことができるわけではない。偏差値は何故上がらないのかとか、どうして子どもの暴言がなくならないだとか。勉強のことはともかく、親がすべき躾けのことまで叱責されることもある。
先生は万能ではない。できることなどない。『先に生まれた』から『先生』と読むだけであって、道を示すことぐらいしかできない。生徒自身が意志を持って行動を犯さなければ何もできないし、仮に何か教師にできることがあったとしても、それを率先してすべきではない。
若い頃は、苦労を買ってでもしろ、と、そこまで極端なことを世の中の子どもに説教するつもりはない。だけど、自分の心で葛藤して出した答えならば、きっと納得できる。どんな結果になろうと他人を責めることなく、自分を誇ることができるはずだ。
他人の力を借りずに、自らの足で人生の道を選択する。突き放して、そのことを教えてやることこそ、教師のやるべきことだと井川は信じている。
ダイヤモンドが削れて光り輝くように、青春も何かを削りながらでないと光り輝かない。だから、ダイヤの原石を過保護にするつもりはない。
もしも、彼が本当に、野球が好きな人間ならば、きっと、何もせずとも野球部の門を叩くはずだ。そして、あの少年が何も行動をおこさなかったとして、きっとそれまでの選手だったということだ。
野球をしている姿を見てはっきりした。少年は一度もキャッチャーのサインに首を振らなかった。漫然と、何も考えずにボールを投げていた。人間は周りの圧がひどいと、内向的な性格になりやすいが、そういうタイプに見えた。それでは、ピッチャーにはなれない。それが、井川の考え方だった。
そういう人間だからこそ、他の生徒に比べてより放置した方が成長することになると、井川の教師生活が教えてくれている。だから、もう、蛯原のことについては今後スルーのままでいることにした。