※11※王道vs邪道
小梶大樹が打席に立つ。
俺と小梶との対戦はもちろん初。
フォアボールで、既に一塁に走者がいる。だからというわけではないが、服の内側の汗がものすごい。額から流れる汗を、服の裾で拭き取る。
そう、別にノーアウトで一塁に走者がいるから、こんなにもプレッシャーを感じているわけではない。何度も俺は練習試合をしている。だから、こんなのピンチでもなんでもない。
そもそも俺はプレッシャーなんて感じるタイプじゃない。いつだってなあなあ。適当に投げて、適当にプレイする。どんな緊張感も流してしまう。
それなのに、手元が狂う。
思ったところにボールがいかない。
疲れのせいか、視界がぼやけている。
こんなにも憔悴しきっているのは、たった一人の選手から発せられる威圧感のせいだ。
そう。
今、バッターボックスに立っている小梶大樹によるもの。
相手はピッチャー。
打席に立ってもそんな恐ろしいはずがないと分かっていながらも、やはり、小梶という存在そのものに俺はびびっている。ああ、そうだ。認めたくないが、今、普段よりも大きく見えて、まるで巨人にも思える小梶に俺はびびっている。
本物は、やはり違う。
俺は、偽物のピッチャーだ。
どうして俺が、サブマリンにこだわっているかというと、珍しいからだ。
俺はきっと、一生、自分の兄には勝てない。
そんなこと、子どもの頃から分かっていた。いつも、お前に勝ってやる! とか嘯いてはいたが、そんなものただの空元気。そうやって強がってなければ、いつ劣等感に押し潰されてしまうかわからなかった。
俺は兄と同じ道を進むのを諦めた。
同じピッチャーで、同じオーバースロー。
そんなことをすれば、より比較されてしまう。より、自分のだめさが浮き彫りになってしまう。だから、俺は逃げたのだ。
サブマリンもとい、アンダースローに。
だが、それのどこが悪いのかと思っていた。だって、競争率の低いところを狙って鍛えるのは戦略だ。ただ、才能だけでやっているわけじゃない。野球は頭がよくなくてはできないスポーツなのだ。
と、そう思っていた。
だけど、こうやってまじまじと見せつけられると、嫌でも自覚してしまう。俺が戦略だと言いながら、ただ自分の非力さを誤魔化していたことを――。
「ストラァイクッ!!」
初球で、ワンストライク。
アウトコースギリギリ。
別に狙ったわけじゃない。ボールが荒れて、たまたまそこにいっただけだ。もう、コントロールが定まらないので、真ん中を狙って、そこまで外れたのだ。
ここまでくると、もう、交代した方がいい気がする。
だけど、
「ボール」
まだ、投げていたい。
まだ、しっかり打たれていない。
まだ、折れていない。
確かに、俺は小梶に気圧されている。
だけど。
それと同時に、子どもの頃に確かにあった、あの時の心を取り戻した。
それは――憧れだ。
テレビ中継で、画面にかぶりつくようにプロのプレーを観ていた。あの時の気持ち。昔は、野球が好きだった。今の何倍も、何十倍も。
あんな選手のように、俺もなりたいと思っていた。
小梶のボールを見ていて、それを思い出した。
どれだけ目を逸らしていても、やっぱり、速球は魅力的だ。俺ですらそう思うのだ。きっと、この世界中の誰だってピッチャーは、一度ぐらいは思うはずだ。
三球三振がとれる速球派のピッチャーになりたいと。
でも、それがうまくできないから、妥協する。
もしくは、なんとか工夫する。単調な速球ばかりのピッチングではなく、配球でただの速球以上の効果をもたらす。
そんなことを。
でも、小梶は、ただ思うままに投げているように思える。
多少、ボールが荒れても、いや、荒れた方が逆に速球はいいのかもしれない。球がしぼりづらくなって、打者は誰も手が出せないのだから。それを故意にやっているのか、たまたまなのかは分からないが、小梶の球はバラバラの方向へと投げられる。
テンポよく。
迷いなく。
見ている方も気持ちいいぐらいに。
「ファール」
あと、一つストライクをとれば、終わる。
確かに、ピッチングでは天と地の差だ。
なにもかもが負けている。
だけど、バッターと、ピッチャーならば差はないはずだ。
小梶は、バッターボックスの後ろの方に立っている。あそこから、アンダースローの下から上に突き上げるような軌道を描くボールを捉えるのは難しい。
どうやら、小梶はピッチングに専念するタイプのピッチャーのようだ。
ごくごくまれに、ピッチングと、バッテイングの二刀流選手がいる。だが、そんな器用な選手ほとんどいない。だからここは安心して――
カキンッ!! と、バットがボールを捉える音が空に響く。
「なっ――」
なんだ、今のは。
確かに、見えた。小梶は打つ瞬間――ステップしたのだ。
後ろの打席に立っていたのは、ステップする足の力を強めるためか? あれならば、ボールの浮き上がり際を狙える。しかも、打ち下ろし気味のスイングで、球の軌道にあわせている。もっとも単純で、もっとも効果的なアンダースローの攻略法。
だが、重心移動しながらのバッティングは一朝一夕でできるものではない。絶え間ないバッテイング練習、もしくはこいつ――ピッチングだけじゃなく、バッティングでも天賦の才を――
「やばっ――球がっ――」
打球がこちらに向かってくる。
反応が遅れた。身体ごと取りに行くべきだが、それじゃあ間に合わない。咄嗟に右腕を伸ばして球をグローブでつかみとる。――はずが、勢いを殺し切れずに球は後ろにこぼれてしまう。
打球はまっすぐ一直線にこちらに向かってきたわけではない。
ピッチャーライナーではなく、一度バウンドしてグローブに当たった。それなのに、負けてしまった。いくら不意を突かれて反応が遅れたと言っても、捉えたはずなのに――なんて凄まじい勢いの打球だ。
「回れ、回れ!!」
相手チームの掛け声が、脳内で何度も木霊する。
打たれてしまった。
棒立ちのまま、自分がとれなかった球が悔やまれる。
先頭打者が三塁。
そして、小梶大樹が二塁。
それが最終的な結果。
茫然としていたせいで、カバーリングのことなど頭から抜けていた。もしも、もっと打球が飛ばされていて、中継しなければならなかったら、暴投をしていたかもしれない。
それぐらい、動揺していた。
情けない。
「どんまーい。ワンナウトとるよー」
と、ボールを投げてくれたセカンドに、うすっ、と軽く頭を下げる。
グラブが震えている。
まずは、落ち着かなければならない。
俺は良くも悪くも、熱しやすく冷めやすい。
テンションの乱高下が酷い。
だからこそ、感情をコントロールしなければならない。指先の動きひとつで、ボールのコントロールは失われてしまう。
さっきのプレイは忘れるべきだ。
ただ、打たれただけならまだしも、俺がしっかり捕球していたらゲッツーをとれていたかもしれない。そんなしょうもない考えが頭にチラついて試合に集中できない。
「プレイッ!!」
審判の声でハッ、と気がつく。
投球のモーションに入らなければならない。どうする。どうする。何を投げればいい? サインを見る。このまま投げるか、それとも、牽制球を投げるか。
捕手のサインは一球、外に外すサインだった。
良かった。
一級ぐらいは外して、なんとかリズムを取り戻したかった。今回の試合の中で、牽制球はほとんどやっていない。せめて一球ぐらいはそろそろやっておかないと、ランナーに警戒心が生まれない。だが、今投げてしまったら、手元が狂ってしまいそうで怖かったので、一番出て欲しいサインがでてラッキーだ。
「……ふっ」
安堵の溜め息。
それはきっと、勝負の最中にはやってはいけないもの。
それを痛感させる、初球打ち。
不運には不運が重なるように、打球は真っ直ぐこちらに向かってきた。
今度こそ、ピッチャーライナーだ。
しまった。
一球外に外すつもりが、手元が狂ってど真ん中の棒球。どんな言い訳もできないぐらいのピッチングをしてしまった。油断しきったせいで、球に力をこめられてなかった。
打球をつかみとろうとグラブを前に出すが、グラブの端をかする。そのせいで軌道が変わって、肩にボールが衝突する。
「――ぐっ!!」
俺の身体を当たって跳ね返った打球は、前へ。
咄嗟にグラブを持っていない手でつかみにかかるが、爪がボールに当たるだけで完全に捕球することはできなかった。
「走れっ!!」
後ろから相手チームの指示が聴こえる。
また、だ。
また俺がとれないせいで、塁に走者が――。いや、このままだとホームまで駆け抜けられる。せめて、一点をとられないように。それとも、一点は覚悟で、とにかく一塁走者を殺すか?
凄まじい速度で頭の中に作戦が駆け上がっていくが、まだ球は一度地面に落ちただけだ。
だから――
足のつま先でボールを蹴り上げた。
「は、はあああああ!?」
敵も、味方からでさえも批判めいた声が聴こえる。
舐めていると思われているだろう。
だって、足の振りからして、わざととは思えない。仮にただのアクシデントでさえも多少の批判はされるだろうが、完全に故意にやってのけている。
苦し紛れのただの足の振り。
だけど、ここにいる誰もがきっと知らない。
俺は野球なんて嫌いなのだ。
野球を本当の本気で楽しむ資格なんてなないぐらいに。
野球を楽しんでやるわけがない。
だから、俺は暇つぶしに野球のボールで遊んでいた。
サッカーのリフティングのように、ボールを蹴って遊んでいた。どれぐらいボールを脚でコントロールできるか、そんな、野球が好きな奴だったらまずはやらないであろうことを。
きっと、天才たちなら絶対に唾棄するであろう最低の行為を。
王道とは程遠い邪道の中の邪道。
野球が嫌いで野球をやり続けてきた俺だからこそ、こんな芸当ができる。
精確に野球のボールを、一塁へと蹴った。
バウントするが、グラブにおさまり、
「ア、アウトッ!!」
一塁へと向かう走者をアウトにとることに成功する。
「な、えっ?」
動揺して一瞬止まった二塁走者。
それを逃さず、一塁から矢のような送球がされ、
「アウトッ!!」
二塁に着く前に走者がアウトになる。
そして、三塁へとボールが渡っていく。それは――
「アウトッ!! スリーアウトチェンジッ!!」
ギリギリのタイミングだったが、スライディングした小梶の足に、ボールのおさまったグラブが当たった。
一瞬、その場が水を打ったように静まり返る。
そして、
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
「トリックプレー!? なんだ、今のっ!?」
「三重殺ッ!! 嘘だろっ!? 生で初めてみたぞ! こんなの!!」
沈黙は歓声へと変わる。
もう一度同じ状況になったとしても、きっと成功などしない。ほとんどが偶然の産物。俺だって、いや、俺がきっと一番驚いている。
俺は、別に天才なんかじゃない。
大物にはなれない。
メジャーリーガーにはなれず、プロにはなれず、甲子園にはいけない。
きっといつか有名になる小梶とは全く違う。俺ができることといえば、俺、あいつと対戦したことがあるんだぜっ! と、テレビを見ながら虚しい自慢をすることぐらい。
ピッチングでは勝負にはならない。
それどころか、俺の球は簡単に打たれた。
初打席で、完璧にだ。
そんなどうしようもない差があるけれど、俺は小梶に点をとられたわけじゃない。あいつには一度も勝てていない。
だけど、あいつをホームに帰還させることはしなかった。
それだけが、俺のちっぽけな自尊心を満たしている。
直接的に、一矢を報いることすらできないけれど。
それでも、勝負せずに俺が勝ったことになるのだから、野球っていうのは面白い――のかもしれない。
まあ、どうせ小梶の奴は俺のことなんかいつか忘れてしまうだろうけれど、俺はあいつをアウトにとってやったってことは忘れないだろう。
そんなことしか、今の俺にできることはなかった。
たった一度きりの、天才への勝利。
その、優越感に浸ることぐらいしか。