道明寺と桜餅
桜の木の下で、太った男が屋台を構えていた。はち切れそうなエプロンを着て、頭に三角巾を巻いている。白目がちな目が三角巾に引っ張られ、おかしな表情になっていた。
りん子は前を通りかかり、足を止めた。知っている顔だ。家の近くで何度も会ったことがある。
「久しぶりっス、りんさん」
男は言った。口を動かすと頬肉が揺れ、三角巾が少しずれた。
「ここで何か売ってるの?」
「道明寺と桜餅、りんさんはどっちが好きですか」
急に聞かれ、りん子は迷った。
つぶつぶした食感が特徴的な道明寺は、食べごたえがあって香りも良い。桜餅はすべすべした表面がいかにも和菓子らしく、ほんのりとした甘さが口にやさしい。
「どっちかっていうと道明寺かしら。葉っぱが剥がしにくいけど、食べちゃえばいいし。おはぎと違って、あんこが落ちたりこぼれたりしないし」
「ふーん。そうっスか」
男はそう言ったが、道明寺を出してくる気配はない。りん子は財布を出した。
「いくら?」
「何がですか」
「道明寺よ。二個ちょうだい」
「ないっスよ」
男は平然と言った。
「俺はただ、どっちが好きかって聞いただけです。売ってるとは言ってません」
なんだと、とりん子を押しのけて少年が割り込んできた。
「道明寺っつったら道明寺だろ。もちろん葉っぱはプラスチックじゃなくて本物だよな。白あんと白米に着色しただけとかだったらブッ殺す」
どきなさい、と今度は少女がやってきた。
「だんぜん桜餅よ。中身はこしあんでも桜あんでもいいからさっさと出しなさい」
二人は肩をぶつけ合い、にらみ合う。りん子は端に追いやられ、ため息をつく。どのみち売っていないのに、喧嘩をしても意味がない。
屋台の中を見ると、大きな鍋やボウルが手つかずのまま置いてあった。
「何でもいいから作ってよ。あの二人、このままじゃ収まらないわよ」
「はいはい。じゃあお嬢さん、こっちに来て。そっちの小汚い少年は……」
太った男が言いかけると、二人は飛びかからんほどの勢いで店台に乗り上がった。
「私はスイカの姫君よ」
「俺は闇の支配者だ」
そうスか、と男は言い、大きい鍋を軽々と持ち上げて店台の上に置いた。中には何も入っていない。
「この中に好きなものを入れてください。こねてついて餅にするんで」
「何よそれ」
「心配いらないっス。りんさんとそのお友達なら、たいがいのものは食べても平気と踏みました」
なんて言い草だろう。しかし、他の二人はさっそく入れるものを選んでいる。
スイカの姫君は、赤い着物風のワンピースの袂から、フルーツ味のグミを取り出し、ぱらぱらと鍋に入れた。
闇の支配者はリュックから酢昆布を出し、丸ごと放り込んだ。それから近くに落ちていた桜のつぼみを拾い、散りばめた。
「あのねえ、そんなんで桜餅ができるわけないでしょ」
「あら、りん子はまだ入れてないのね。早くしたら?」
「いろいろ持ってんじゃねえか。全部ぶちまけたっていいんだぜ」
りん子はスーパーとパン屋の袋を持っていた。闇の支配者はそれらを引ったくり、中を漁った。
「このカステラがいい」
「それは台所用のスポンジよ。ちょっともう、勝手に出さないで」
りん子は袋を奪い返し、ミカンを一つと葛切りのパックを出してやった。しけてんな、と闇の支配者は言った。
「大トロとか霜降り肉とか入れてほしいわけ?」
「持ってんのかよ」
「あら、パンは?」
見ると、スイカの姫君がパンの袋を開け、ソーセージパンやツナサラダパンを細かくちぎって投げ入れていた。りん子は急いで取り押さえたが、もう鍋の中に混ざり込んでしまっていた。
「ああもう、私のお昼だったのに」
「だって暇なんだもの。早く作りたいわ、ねえいいでしょう?」
スイカの姫君は上目遣いで太った男に話しかける。もちろんです、と男は言った。
男は大きく息を吸い込み、鍋に向かって桃色の粉を吹きかけた。途端に中身がぐつぐつと煮え始める。
「はい、りんさんはこのヘラでかき混ぜて。姫さんはこの杵でついて。そっちの小汚い少年は」
「俺は闇の支配者だ」
「合間をぬって中身をこねてください。手がつぶれてもドンマイっス」
肉で目を押しつぶすように、男は無理矢理ウィンクをした。
言われた通り、りん子はヘラを持って鍋をかき混ぜた。グミがごろごろ転がり、酢昆布とミカンの香りが鼻をつく。スイカの姫君は杵を持ち上げ、べしゃん、べしゃんと振り下ろす。闇の支配者が手を突っ込んでこねると、葛切りやパンの欠片がどす黒く変色していった。
こんなものを食べさせられてはたまらない。太った男がまた息を吸い込んだ時、りん子は素早く後ろに回り込み、背中を押した。
ちょっと驚かせて目を覚まさせよう。それぐらいのつもりだった。しかし男は勢い余って鍋に飛び込み、ずぶずぶと沈んでいってしまった。三角巾とエプロンがほどけ、鍋の外に落ちた。
「あらら。やっちゃった」
それだけでは済まなかった。
スイカの姫君が杵を下ろし、うつろな表情でりん子を見る。
「疲れたわ。りん子、あとはお願いね」
「え。あ、ちょっと」
姫君はころんと丸まり、大玉のスイカになった。そしてそのまま、鍋の中に転がり込んでいった。
鍋の中身はすっかり嵩を増し、弾力と粘りが出てきていた。ところどころ赤黒く、またところどころは黄色い。
闇の支配者は、両手に絡みつく具に悪戦苦闘している。
「憎々しいもんだな、餅ってのは」
「どう見ても餅じゃないわよ」
「俺の恐ろしさ、思い知るがいい」
闇の支配者はよいしょと縁をまたぎ、鍋の中に入った。泳ぐように手足を動かし、全身で揉むように具をこねていく。
「おおっ、いいぞ、これは、これは……!」
体から染み出す黒いオーラが、具材に染み込み、溶け込み、さらに嵩を増し、荒ぶり波打った。闇の支配者の笑い声が、ごぼごぼとくぐもった雑音に変わる。
あっと思った時には、高波が鍋から飛び出し、りん子に襲いかかっていた。取り餅のようにねばついた波が、強烈な色とわずかな桜の風味を引き連れて、りん子を頭から飲み込んだ。
どれくらいの間、溺れていたのだろう。
気がつくとそこは、一面の桜野原だった。
桜野原。なんだそれは。
りん子は体を起こした。見渡す限り、桜、桜、桜。木は一本もなく、桜の花が地面から生えている。
「どうなっちゃってるのかしら」
ふと、目の前に一輪の花が差し出された。と思ったらそれは、道明寺だった。太った男が道明寺を持って立っている。
「りんさんは道明寺派でしたよね」
「あら、ありがとう」
受け取りながら、足下に違和感を感じた。妙に柔らかいような、それでいて足が沈まないような、変な感触がする。
道明寺を見て、足下を見て、ようやく気づく。地面に広がっているのは、花ではなく、和菓子だった。
「何これ! 全部道明寺なの?」
「全部じゃないっス。ちゃんと半々にしました」
男は得意気に笑う。少し離れたところでは、闇の支配者とスイカの姫君が、またしても押しのけ合っていた。
「どきなさいって言ってるでしょ。桜餅ゾーンは私のものよ」
「スイカゼリーにしてやる、お前なんか」
どこまでも続く、つぶつぶ、すべすべ、つぶつぶ、すべすべ。道明寺と桜餅が地面を埋め尽くす。柔らかく伸びやかに埋め尽くす。
時折よぎる、酢昆布とミカンの香りは気のせいだ。きっと気のせいだ。
「これだけあれば食べ放題ね」
どうでしょうね、と男は言う。両手に持った道明寺と桜餅を交互に食べながら、闇の支配者とスイカの姫君、そして遙か遠い地平線を見る。
「四人もいますからねえ。かしわ餅の季節まで持つかどうか微妙っスよ」