2-21
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閉店後、掃除と整理、発注と客注を片付けていたら良い時間になってしまった。
店長がシャッターを下ろし、僕が店の鍵をかけた。
鍵は、研修期間を終えて暫くの後、渡された。「なくさないでよー」
何故にそんな大事なものをペーペーに渡すのか。僕は、店頭からキーリングとカラビナフックを見繕い、自腹を切って取り付けた。「経費でいいのに」後から云うか。面倒なので請求しなかった。
「お疲れさまです」
「お疲れさーん」店長は手を軽く挙げ、自分の車にさっさと乗るや、駐車場を飛び出て走り去った。
赤いテールランプを見送り、僕も従業員用駐車場に居座ったクジラみたいな自分の車に向かって歩いていった。
秋の夜空は静かだった。
虫がちりちり鳴いていた。
頬を撫でる風が心地よかった。
もう暫くの後、冬が来る。けれども今はまだ、そんな気配はどこにもない。秋の夜長の、気持ちの良い晩だった。
車にドアに鍵を差し込んだ瞬間、全てが壊された。
「よう」
驚き、声の方を見遣れば、暗がりに男の影。小柄で、細く、ややもすれは貧相な印象のあるシルエット。
「お仕事、ゴクローさん」
影は、馴れ馴れしく軽薄な声音で近づいてきた。
カチッとライターが鳴り、煙草に火が着いた。
炎が照らした顔に憶えはなかった。年の頃は、そう変らないか、上か。下ってことはないだろう。ただ、何かに似ている、と漠然と思った。
男は煙草を深く吸い込むと、同じ分だけ嫌な匂いの煙を吐き出した。
「どちらさまで?」
ぼくは、そっと車の後部、荷台の方へと後退った。
この男に背中を見せてはいけない。
「どちらさまで?」男の口角が愉快そうに吊り上がる。「どちらさまで?」
ひゃっひゃっひゃっ。
耳に障る笑い声だった。
「まぁ、初めまして、かな」煙草を持った手を振って続けた。きつい香りが鼻を刺した。「直接的には」
煙草をくわえると、火口が膨らんで見えた。それから長々と青い煙を吐き出す。
「お前のアネキは知ってるぜ」
アオリにかけた指を止めるには充分だった。この男はハコ姐とどんな関係があるのか。
「そんなご縁だ」男はくわえ煙草で右手を差し出してきた。その所作があまりにも自然で、だから僕も握り返していた。
「坂本。坂本幸司だ」手を放し、少し首を傾け、「なに? 俺のこと一度も聞いた事ない?」
おずおずと頷けば、はぁー、とまた気分の悪くなるような煙を吐き出した。「そんなもんかなぁ」煙草をくわえ、「そんなもんだな」顎を撫でた。「まぁいいや」強く煙草を吸いながら、坂本はクジラのフロント側に寄りかかった。
「お前のねーちゃん、いい声してたぜ、キビシー先輩だったけどよ」
「……姉ですか、」
「そう」にやっと笑う。「中学。部活。合唱部」
「姉なら、今は外にいます」
すると、おお、と坂本は嬉しそうに、「そいつは良かった」煙草をくわえて目を細める。灰が車のルーフに落ちるんじゃないかと気が気でなかった。
「要件は何ですか」僕は訊いた。
「ちょっとした思い出話さ」
嘘だ。
「嘘さ」坂本は煙草をぴんっと弾いた。火の粉が散って、駐車場のアスファルトの向こう、ちょうど水たまりに落ちた。ジュッと小さな音がした。翌朝、あれを片付けるのは僕らだ。
「なぁ、」坂本が云った。「店の合い鍵、呉れない?」
僕は荷台の丸めたブランケットの中に腕を突っ込み、得物を引き抜いた。側アオリに刃先が当たって甲高い音を立てた。塗装ハゲなんか気にしなかった。
「おいおい」坂本は、悪意がないのを証明するかのように、胸の前で両の掌をこちらへ向けて後退った。「なに? それで俺を殴るの? 切るの? 潰すのか?」
僕はミスタースコップを両手で握っていた。鮮度にかかわらず有効な道具だ。
「監視カメラがある」僕は云った。「お前の動き次第では、どうあれ僕に有利な証拠になる」
本当だ。
「まぁ落ち着けよ」
この男は場慣れしている。
「訊いてみただけだ」
口角が吊り上がる。
「冗談じゃない」僕は云った。
「気が変るかもしれないだろ、あ、動くな、安心しろ、煙草を出すだけだ」
坂本はゆっくりとポケットからとり出したそれを一本くわえた。火は点けなかった。
「もちろん、タダとは云わない」
「そう云う問題じゃない」
すると坂本は、長々とため息をつき、「なぁ、そんな義理あるのか? 鍵がなくなることなんて珍しい事じゃないだろ? 警報器が上手く作動しないことだってよくあることだ。保険でどうにでもなる」
「そう云う問題じゃない」同じ言葉を繰り返し、僕はスコップを構えた。
「そーゆー問題だってーの」坂本は云った。「考えすぎだって」そして口の端を大きく吊り上げ、「な、お肉屋サン?」
背中に氷柱を突き立てられた。
この男は、何を知っている。いや、どこまで知っている?
黙っている僕に、男は続ける。「肉と云えば、あの女もいい感じに熟れてるなぁ」
坂本は両手で、自分の胸と尻の辺りを卑猥になぞって見せた。
「箱根ちゃん。まさかあんなに肉付き良くなるなんて、ガキの頃は分からなかったなぁ」
ひゃっひゃっひゃっ。
「あー、抱きてぇー」
僕は振り上げたスコップを、顔面に叩きつけるように振り下ろした。
ガツン、とアスファルトで跳ね返った。
「バカじゃねーの?」
僅か半歩下がるだけで男は攻撃を除けて見せた。「トロくさいのばっか相手にしてるから、そんな見え見えな動きになるんだよ」
カンッ、と爪先で匙部を蹴った。スコップは手から離れ、音を立てて転がった。軽い動きに見えた。指が痺れた。重いひと蹴りだった。
「ドシロートが」
ペッと、坂本は煙草と一緒に唾を吐いた。
「まぁいいや」坂本は目を細め、にやついた顔で大仰に肩をすくめて見せた。「無理強いは主義に反するんでね」口元がいっそう大きく横に広がる。「お互いの了承で、俺もオーケー、お前もオーケー」両腕を広げ、「みんなオーケー」
ひゃっひゃっひゃっ。
のけ反って笑った。世界で一番面白いジョークを口にしたように。
「いいビジネス、しようぜ?」坂本は云う。旧知の仲のように。
ああ、そうだそうだ。「監視カメラな、きちんと整備したがいいぞ」
ひゃっひゃっひゃっ。
笑い声を残して、視界の中から消えていく。姿が闇に溶けていく。秋の夜が戻ってきた。
僕は駐車場にぽつねんと転がるミスタースコップをのろのろと回収し、荷台のブランケットの上に投げるように置いた。車に乗って、ドアを閉め、ロックをかけて、シートに身体を沈めた。
鍵。店の鍵。女と女と男の影。
何に似ているか、ずっと考えていた。
答えが見つかった。
ネズミだ。ネズミに似ている。
ネズミ男だ。
あいにくと、猫に知り合いはいない。