夕影
カタカタカタ。
生暖かい夕風がやんわりと吹いた。
縁側の軒下で、赤い風車がぎこちなく回っている。
駄菓子屋とか祭の露店で売っているような紙のやつだ。昨日、三歳になった従兄弟の学が持っていたものに似ている。きっと置き忘れていったのだろう。
――圭太のやつ。
五つ年上の大学一年生の兄、圭太の仕業と清太はすぐに思い当たった。
いんげんの蔓みたいにひょろりと背の高い圭太なら、屋根付近に簡単に手が届く。どうやって貼り付けたのかは知らないが、「風鈴のかわりにでもしよう」なんて考えたに違いない。そういう変なひらめきを思いつくやつなのだ。
カタカタ、カタ。
――うるさいな。
足の爪を切る手を止めて、清太は網戸の向うの軒先を睨んだ。
色んな赤を混ぜ込んだ夕焼け空に向かって首を伸ばしながら、風車はなんとか回ろうとしているようだった。だがいい風がもらえずに、かくかくと頭を右に左にぎこちなく揺らしている。
いつもはこんな小さなこと気にならないのに、やけに耳障りに思えた。
『おれはあんな男女、絶対ムリ』
クラスメートの杉本の言葉が、またおでこの辺りを過ぎった。清掃時間から何度目だろう。 それとセットになって後悔もついてくる。またいらいらが顔をのぞかせた。
広げたティッシュペーパーに切った爪を落して、左足の親指の爪に爪切りを当てた。
小指から順番に爪を切るのが、清太はなんとなく好きだった。巻き爪のせいで親指はちょっとてこずるから、最後に残す。
切り残しがないように慎重にやらねばならない。位置を定めて爪きりの歯に力を込めた。
「シーンタ!」
ぱちん。
突然どん、と背中を叩かれた衝撃で、爪切りの歯の軌道がずれた。爪の欠片と、爪切りが畳の上に飛び出した。
「びっくりした?」
悪びれもない明るい少女の声に、清太はぐるりと頭を半回転させた。
背後に立っていたのは隣に住む幼なじみの笹川小町だった。自分とは対照的な、小麦色にきれいに焼けた健康的な笑顔を清太は呆れて見上げた。
「……全然」
じん、と痺れた背中を掻いて、清太は頭を戻す。憐れにも半分欠けた親指の爪に、気分がさらに落ちた。
「もっと驚けよ〜痛がれよ〜。せっかく忍び足できたのにー。つまんないやつ」
背中合わせに小町が畳の上に座った。背丈がほとんど同じだから頭がくっつきそうだ。背中越しに、互いの体温がじんわりと重なっていく。
「怪力なんだよ、まちは。骨が折れるかと思った」
「うっそ。軽く押しただけじゃん。バレー部じゃこんなん、あいさつだよ? ひ弱〜、さすが帰宅部。だからチビなのよ」
「うるせえよ」
寄りかかってきた小町の重みを押し戻して背中を離すと、清太は畳の上の爪切りを拾った。 欠けた爪も拾い上げて、ティッシュにくるんで丸める。――ついでに胸の中のもやもやも一緒に捨ててしまえればいいのだけど。
「あ」そのまま小町はごろんと仰向けに畳に寝転がり、思い出したように声を上げた。
「なに?」
振り返ると、大口を開けたまま小町がこっちを見ていた。おかっぱの黒髪が畳の上に扇みたいに広がっている。
「明日、数学当たるんだった」
「……だからなに?」
「二組ってうちのクラスより進んでるよね。ノート見せて」
「――お前、毎日当たるんだな」
白い歯を覗かせてにかっと小町が逆さまに笑った。豪快に口が半月型になる。もっと女の子っぽく笑えばいいのに、と清太は思う。
「まあまあ、細かいことはいいじゃん。ねっ、見せて」
「やだ。自分でやれよ」
「カタイこと言わないでよー、隣の家のよしみじゃん。お願い、今回だけ! 今度から自分でやるからさ」
仰向けのまま、小町が両手を顔の前で合わせて頼み込んでくる。
その“よしみ”でもう何十回見せてきたことか。一週間に二、三度はこうして夕飯前にやって来てはノートをさらって家に戻っていくのだ。
「シンタが優秀だから当てにしてんじゃん。ねえ、ねえ、ねえ」
Tシャツの裾を握って小町が揺すってくる。うるさいな、と言おうとした時廊下から足音がした。
「ねえ、スイカ食べない?」
母の美佐枝がスイカを載せた皿を持ってひょっこりと顔を出した。
「食べる!」小町がぱっと起き上がった。
「あら、ここ西日がもろに当たるから暑いんじゃないの。居間に行ったら」
二人の真ん中にお皿とお手拭を置いて、美佐枝が眩しそうに目を細める。「今日は夏至だから夕暮れが長いわよ」
「げし?」
さっそく三角のスイカを一切れ掴んで小町が美佐枝を見上げた。
「夏に至るって書くの。昼間が長くて夜が短い日のことよ。これから本格的に夏が始まっていくの」
そういえば、と思いながら清太は網戸の向うの景色を見た。もうすぐ七時になるというのに、外はまだ夕焼け色に染まっている。差し込む夕日もずいぶん熱を含んでいた。
「へえ、夜が短いなんてなんだか得した気分になる日だね。でもいつもとあんまり変わらない気がするなあ」
あまり興味がなさそうに言って、燃える夕日みたいな真っ赤なスイカに小町は種ごとかぶりついた。おかわりあるからね、と言い置いて美佐枝は部屋を出て行った。
「ねえ、あの風車なに?」
しゃりしゃりとスイカをかじりながら、小町が軒下を指差した。不器用な風車を清太は一瞥した。
「知らない。圭太がふざけてやったんだろ」
「ふーん。なんかシンタみたいだね。強い風が吹いたら折れちゃいそう」
睨み付けると、小町はけたけたと笑った。口元に張り付いた白いスイカの種がぽろりと落ちた。
「悪かったな、どうせひ弱だよ。やっぱやめた、ノート見せんの」
小町の嫌味には慣れている。だけどあんな紙切れと比べられるのは心外でふいと横を向くと、途端に小町が慌てた声になった。
「うそうそ、ごめん! 冗談だよ、わかってるでしょ? おねがーい、シンタさまさま〜! あんただけが頼りなのっ」
早くも皮だけになったスイカを皿に放り込み、神社の賽銭箱の前で拝むみたいに小町が顔の前で両手をパンパンと打つ。
おねがーい、と繰り返す小町を清太は横目でちらりと見た。
別にノートを見せることくらいなんてことない。いつもしてることだ。だが、それはここに来る理由が純粋に清太を頼ってのことだった場合だ。
無視を決め込んで、清太はスイカを取った。
「ちょっとお、シカト? こうしてかわいい幼なじみが頭まで下げてんのに、もうちょっと愛想よくできないわけ? 杉本くん情報もぜんっぜん教えてくれないしさ」
――ほら出た。
小町が最近頻繁にやって来るのは単にノートが見たいからではなく、清太と同じクラスの杉本のことを聞きたいからなのだ。それがなかったら、土日の暇な時だけ時間つぶしにひょっこり来るくらいだろう。下心があるとわかっているからこそ、素直に貸す気にはなれないのだった。
「別に杉本と仲良くないし」
「だって同じクラスじゃん」
「席遠いし」
「つめた!あ、もしかしてあたしを取られちゃうのがくやしい?そうなんでしょ」
「――んなわけないだろ、ばか」
「じゃあ聞いてよ、好きな子いるか」
『おれは菊池さんみたいな子がいいな。小さくてかわいいし』
「やだよ。同じバレー部なんだから自分で聞けばいいだろ。おれより仲いいじゃん」
「だめだめ、ふざけたりは出来るけどそういう話はしないの」
食べかけのスイカを置いて清太は立ち上がった。
「どこ行くの?」
スイカをもう一つ取ってあぐらを掻いた小町が大きな目を向けてくる。顔と同じようにきれいに焼けた手や足を見て、昔はけっこう色白だったのにと清太は思う。
「……ノート取って来るんだよ。見るんだろ」
「もち! さあっすがシンタ、学年三位の秀才! 話がわかるう」
ヒューヒューとはやす小町を残して清太は廊下に出た。階段を昇って二階の自室へ向かう。
“笹川は?”
聞いたのはなんとなくだった。
たまたま杉本と同じ教室掃除で、たまたま近くにいて、たまたま「タイプの女子」の話が出たからだった。
でも小町が気にしていたのを知っていたからかもしれないし、自分が気になっていたからかもしれない。深いことを考えていなかったはずだけれど。
『あーパス。話しやすいけど、男みたいじゃん』
笑って杉本は言った。冗談ぽく笑って、でも率直に。
何も言えなかった。
杉本を非難することも、小町を弁護することも、うまく言葉が出なくて。ははは、て合わせて笑ってしまった。
ノートをとって階段を駆け下りた。
戻っていくと、西日の部屋はやけに静かだった。
畳の上に横倒れになって、小町は眠っていた。
沈んでいく夕暮れの色が部屋を染めていた。それは黄昏と夜の狭間の、赤のような黄色のような紫のような不思議なグラデーションで、まるで知らない世界へ続く入り口にいるような気がした。
「まち、寝てるの?」
小さく呼びかけるが返事はない。
畳の上に置いてある皿には食べ終えた皮が二つと食べかけが一つ、まだ手付かずの三角のスイカが一つ並んでいる。
その周りにはチョコレートの包み紙がたくさん散らばっていた。清太の好きな、中にアーモンドがまるごといっこ入っているやつだ。小町がポケットにでも入れて持ってきたのだろう。
しゃがんで、清太は横たわる小町を覗き込んだ。
「まち」
静かな寝息が聞こえた。
――なんだよ、平和そうに。
持ってきたノートを眺め、小町の傍に置く。
――一人で気にしてばかみたいじゃないか。
小町が傷つかないように、何もなかったことにしていつも通りにしなきゃとか、色んなことを考えた。
『そんなことない』
『言いすぎだよ。いいところだってあるんだから』
本当はあの時、そんなふうに言い返せばよかったとか。
ほんとは腹がたったのだ。むかついたのだ。
あんな一言で否定されたくなかった。小町のことはよく知っている。赤ちゃんの時から一緒で、いいところも悪いところも、全部。
でもあの時、教える必要があるのかと迷ったのだ。
杉本なんかに。杉本なんかにわかるはずないんだからと――。
夕影が眠る小町の顔を照らし出す。
頬に、髪がひとすじさらりと零れた。閉じた瞼の上を通って、口元に触れる。
くすぐったかったのか、ふっくらとした唇が小さく動いた。
その表情が妙に“女の子”に見えて、清太は思わず目を逸らした。
――なんだよ。
心臓がトランポリンに乗ったみたいに跳ねた。
『とられちゃうのが嫌なんでしょう』
小町の声が過ぎった。
苦笑いした杉本の顔が浮かんだ。
その隣に、"こいつは何もわかってない"と勝ち誇っていた自分が見えた。
何も言えなかったんじゃない。何も言わなかったのだ、あの時。
大きなため息のような温風が、ふわりと流れ込んできた。
軒下で風車が回りだす。夕闇の風にからかわれて、右へくるり。左へくるり。
小町に背を向けて清太は膝を抱え込んだ。
隠れてしまいたかった。ものすごく悪いことや、恥かしいことを一緒にしたような気分だった。
――早く暗くなればいいのに。
なんでこんな時に月はのろまなんだろう。
暗闇に全部隠されてしまえば、楽になりそうなのに。
早く、早く夜になれ。
のんびりと遠ざかっていく夕暮れと、もたもたしている夜の始まりが清太の気持ちを焦らせる。
ふと、半分だけ切り残された左足の親指の爪が目に入った。
その中途半端さが、なんだか無性に悲しかった。
散らばっているチョコレートの包みを一つ拾ってほどくと、清太は中身を口の中に放り込んだ。
そして丸めてあったティッシュに手を伸ばしてもう一度開き、親指の残りの爪をぱちんと切り落とした。
夏至の夕暮れにふと思いついた小さな物語に、昔の思い出を重ねました。
淡い恋の始まりを感じていただけたでしょうか。
ご一読、ありがとうございました☆