怖い君の優しい顔
どさりとカバンを放り込んで、不良顔の男子――乙梨涼護は帰宅した。あくびをして座ろうとしたところで、着信音が鳴る。
「もしもし?」
『あ、涼護?』
応えたのは女性の声。涼護の師匠である、詩堂詩歩だ。何か用かと涼護が尋ねれば、真剣な声が返ってくる。
『蜜都さん、知らない?』
「蜜都ですか? 未央と帰っていったはずですけど……」
涼護の言葉に、詩歩はそう、と声を落とした。声に含む色を感じ取り、涼護は眉をひそめる。
「何かあったんですか?」
『それが、まだ家に帰ってないそうなの』
その言葉に、涼護は目を見開く。前にもこんなことがあった。だが、あのときのストーカーは解決したはずだ。なのに、また事件に巻き込まれているのだろうか?
涼護はちっ、と舌打ちした。いらただしげに受話器を握る。
「何か情報はないんですか?」
『目撃情報によると、最後に見かけた場所は――』
電話口からおおよその場所が伝えられる。涼護はすぐさま身支度を調え、勢いよく外へ飛び出した。
*****
おかしい。目線が、極端に低い。というか、手を地面について歩いている。その腕も透き通った肌ではなく、青みがかった灰色の毛で覆われている。後ろを見れば、ゆらりと立った細長い尻尾。ガラスに映った私は、猫だった。毛足は短く、耳はぴょこんと立っている。たたずんでいれば気品があるように見えるのが、唯一の救いだろうか。どうしてこんなことになってしまったんだろう。ついついため息が出てしまう。何の前触れもなく、こんな姿になってしまった。戻る方法なんてわからない。もしかしたら、一生このままかもしれない。不安に駆られて歩き回る。
「蜜都! いねえのか?」
聞こえてきた声に、私は顔を上げた。声の主は、赤髪の彼。その姿に何故か希望が見えた気がした。彼はせわしなく走り、辺りを見回している。
『私はここ! 蜜都汐那はここよ!』
そう叫んだはずなのに、にゃあにゃあと人でない言葉しか出てこない。せめて気付いてもらわないと、見失ってしまう。私は叫びながら、彼に近寄った。赤い瞳が、こちらへと向けられる。
「あん? 猫?」
私の姿を認め、彼は足を止めた。目線を合わせるようにその場にしゃがむ。
「野良猫か? それにしちゃ美人すぎるな」
そんなことを呟いて、私の頭に手を載せる。「美人」なんて言われ慣れているはずなのに、彼に言われると何故か無性に嬉しくなった。大きな手が猫になってしまった私を撫でる。見かけによらず優しい手。心ですら包み込んでくれるのではないかと錯覚してしまう。
『乙梨君』
にゃあと彼の名を呼んでみる。気付いて欲しくて、膝に手を掛けた。そのまま足の上に飛び乗る。猫になったおかげか、そんなに難しくもなかった。私の行動に驚いて、彼の目がわずかに大きくなる。
「人なつっこいな、お前」
降ってきた優しい声に、思わず彼を見上げた。そこにあったのはよく見る不機嫌そうな顔ではない。悪党に喧嘩をするときの顔でもない。ただ穏やかで、和んだというように笑っていた。そんな表情は今まで見たことがない。私は呆けたように彼の笑顔を見つめてしまっていた。心臓の鼓動が早まっているのがわかる。包み込むように彼の手が背中を撫でていく。のど元をくすぐられてしまっては、もう私に抗う術はなかった。
撫でてくる手に顎を乗せ、体を彼にゆだねる。彼は黙って撫でてくれた。ああ、気持ちいい。こうやって撫でてもらえるなら、猫でも悪くない。そう思うのは現金だろうか。でもそれくらい、居心地がいい。ずっとこのままでいい。そう願ってしまう。
ふと、背中のぬくもりが離れた。悪いなと、困った声が降ってくる。どこかへ行ってしまうのが惜しくて、私は体をこすりつけた。引き留めるように尻尾を絡める。
『行かないで』
精一杯の、甘えた猫の声を出してみた。もっとと瞳で訴えかける。
「にゃー」
聞こえてきた声に、私は耳を疑った。今、にゃーって言ったの? 瞬きする私を、彼はそっと抱き上げてくる。
『乙梨君?』
「にゃー」
聞き間違いではない。確かに彼は猫の鳴き真似をしてみせたのだ。私の言葉に合わせるように、そしてとても穏やかな声で。イメージが違いすぎる。不良顔で、喧嘩の強い彼が「にゃー」と猫に話し掛ける姿を、一体誰が想像できるだろう? 彼の可愛い一面を垣間見てしまい、私は抱きしめたくなる衝動に駆られた。今の状態ではそれができないのがもどかしい。だからもう一度、意味もなく鳴いてみる。答えるように彼も鳴く。意味は通じてないけれど。意味なんて初めから存在しないけれど。温かい物が胸の中にあふれてくる気がする。彼は笑って、私を傍に寄せた。
「可愛いなァ」
すっと、鼻先が触れる。一瞬だったけれど、口づけを交わしたように錯覚した。
そのとき、私の体に異変が起きた。体中が痛む。四肢がぐぐっと伸びる感触。支えきれなくなった彼の体が後ろに傾いた。つられて私も前のめりに倒れ込む。とっさに手をついた。緊張なのかなんなのか、心臓がばくばくと音を立てている。ふと見れば、地面についた自分の腕はなめらかだった。垂れた青色の糸達が視界を狭めている。そして目の前にあるのは、揺れる真っ赤な瞳。
「み、蜜都……?」
信じられないとばかりに声が震えている。私自身、何が起きたのかよくわからなかった。
「乙梨、君」
紡ぎ出した言葉は猫のものではない。いつも通りの、自分の声だ。ようやく呼べた。ようやく、元に戻ったのだ。そう理解してから、胸元の圧迫感に気付いた。
「乙梨君、手……」
猫をわきから抱え上げた状態のまま人の姿に戻ったから、その手が胸元に触れているのは必然だ。彼の親指がちょうど膨らみの下側を押してしまっている。
「……悪ぃ」
ばつが悪そうにそう言って、彼は手を離した。それが寂しいと思ってしまうのは、まださっきの感覚が残っているからだろうか。困ったような表情の彼。気まずい沈黙が場を支配する。蜜都、と彼が私の名を呼んだ。真っ直ぐに私の目を見つめてくる。
「そろそろ降りてくれねえか?」
手をついて上半身は上げているとはいえ、私は彼にのしかかっている状態だった。彼の上で足を広げていて、まるで夜の交わりでもしているようだ。私は意地悪く笑ってみせた。
「嫌だ、って言ったら?」
「お前なあ……」
ため息混じりの声が返ってくる。彼は乱暴に振り下ろす真似はしなかった。けれど、私を乗せたままで上体を起こした。当然、その顔が急接近する訳で。私の心臓はどくんと跳ねた。
「勘違いするだろ」
「してもいいよ?」
即答したのは強がりだ。息がかかりそうな距離に、顔がほてっているのを感じる。下手したら耳まで赤いかもしれない。
「顔、赤いぞ」
しっかり指摘されてしまって、私は何も言い返せなかった。彼はふっと笑う。そして何故か、私の体が持ち上がった。驚いている間に、足が地面につく。立たされたのだと理解するのに数秒かかった。終わったのだと言いたげに、彼はあくびする。やられっぱなしは、何となく嫌だった。だから、精一杯、不敵な笑みを作る。
「さっきの乙梨君、可愛かったよね。『にゃー』だってさ」
そう言うと、彼には珍しく、肩を震わせた。
「言うなよ? 特に、夏木とか深理とか――」
明らかに狼狽した彼が、なおのこと可愛く見える。私は調子に乗って、笑みを深くした。
「どうしようかな~」
「やめろマジで言いふらすんじゃねえ」
私が男の子だったら、一発殴っているのかもしれない。けれどそうしない。彼の表情は内に秘める葛藤を物語っていた。私は彼の腕に抱きついてみせる。
「じゃあ、私の家まで送っていってよ」
交換条件に、と。くっつくなよと言われたけれど、無視して抱きつく。はあ、と諦めたようなため息。
「わかったよ」
こうして私達は、既に日の沈んだ夕闇の中を帰っていった。
話していたら書きたくなってしまいました。涼護×汐那で猫化汐那さんです。
書いているうちに汐那さんって猫が似合うなあとか、ギャップすごいなあとか思っていました。相変わらずの妄想全開でごめんなさい。甘い展開にできていたらいいなとおもっています