そのさん。
それから、どうやって家に帰ったのか、ぜんぜん覚えてない。
疲れ切っていた私は、なんとかパジャマに着替えて布団にもぐりこんだらしく、翌朝お母さんがドアを叩くまで、夢も見ないでぐっすり眠ってしまった。
叩き起こされて眠たい目をこすりながら、とりあえずそのままの格好で、リビングへ向かう。
会社に行く準備をしながら、新聞を広げつつコーヒーを飲むお父さん。いそいそと朝食の準備をするお母さん。いつもと変わらない朝の風景。私はあくびをしながら、リビングのソファに腰を下ろして、窓辺から見える夏の景色をぼんやりと眺めた。
今日も暑い日になりそう。でも、あと一日で、圭介はどこか遠くに行ってしまう。そう思ったら、この暑い日が永遠に続いてくれたら、と思う。
いや、そう思って、鏡の神さまにお願いをしに行ったのだけど、オカルトなんてやっぱりマユツバだった。あんなウワサ話みたいなものにすがったことが、ちょっとだけ恥ずかしく思えてくる。
「寝坊するなんて、あんたらしくもない」
と、寝ぼけまなこの私に、お母さんが言う。
「昨日はいろいろあったの。いいでしょ? 宿題終わってるし、まだ夏休みなんだし」
「そりゃいいけど、今日は縁ちゃんが遊びに来る約束してるんでしょ? いつまでもそんな格好してたら、笑われるわよ」
「縁はそんなことで笑ったりしないわよ……」
そう返しながら、私はもう一度大きな口を開けてあくびした。ふと、私はお母さんの言葉に、奇妙な違和感を覚えた。
「ん? ねえ、お母さん。今なんて言ったの?」
「だから、いつまでもパジャマ着てないで、さっさと着替えなさいって言ったのよ」
「違う違う。その前。縁が家へ来るって言ったよね?」
私が眉をひそめて尋ねると、お母さんは訝かるような表情で、
「ええ、言ったわよ。っていうか、小夜子が昨日『明日は縁と遊ぶからね』って言ったんじゃない。なあに? 自分の言ったことも忘れるくらい寝ぼけてるの?」
と、私に苦言を呈した。
でも、そんなはずはない……。昨日は縁とちょっと喧嘩したみたいになっちゃって、そんな約束をした覚えなんてない。いくら縁と私が親友と言っても、喧嘩しちゃった昨日の今日で、何事もなかったかのように過ごすことは出来ない。
私は、なんだか背中に寒いものを感じた。
「お父さん! お願い、新聞見せてっ」
勢いよくソファから立ち上がると、お父さんの新聞を奪い取る。
「お、おい。どうしたんだ?」
と驚くお父さんをちょっと無視して、私は新聞の一番上にある日付に目をやった。
八月二十九日。
昨日の日付だ。うちのお父さんは、毎朝、新聞を欠かさずに読む。だけど、わざわざ前の日の新聞を読むことはない。
私は新聞を握りしめたまま、急いでリビングのテレビを付けた。普段は、朝からテレビなんて見ないけれど、今は緊急事態。
「八月二十九日金曜日。みなさん、おはようございまーす!!」
朝の情報番組。司会のお姉さんが、太陽みたいな明るい笑顔で言う。
「うそ……なんで? 今日は八月三十日じゃないの?」
「何言ってるんだ小夜子。今日は八月二十九日だぞ。そんなことより、新聞返して」
お父さんが私の手から新聞を取り戻す。だけど、そんなことどうでもいいって思えるくらい、私は全身から血の気が引くのを感じた……。
朝食のパンの味も良く思い出せないまま、私は私服に着替えて、縁の到着を待った。
私の記憶がたしかなら、縁は午前十一時を回った頃、私の家のチャイムを鳴らした。赤と白のチェック柄のブラウスに七分丈の白い半ズボンを着て、手提げかばんにおやつと飲み物を入れていた。
ピンポーン。
我が家のチャイムがなる。階下でお母さんが「いらっしゃい、縁ちゃん」と縁を招き入れる声がする。そして、リビングの前を通り過ぎ、階段を真っ直ぐ私の部屋に向かって歩いてくる足音。
私はドキドキしながらその瞬間を待った。
ゆっくりと開くドア。
「おはよ、小夜ちゃん……」
昨日と同じセリフで現れた縁。ところが、縁の服装は、昨日のワンピースと違い、花がらの白いTシャツとデニムスカートだった。
「縁!」
思わず私は、縁の名を叫んでしまった。なぜだか、縁が昨日と違う格好をしていることが嬉しかった。
「小夜ちゃん。小夜ちゃんも?」
縁は後ろ手にドアを閉めながら、私が昨日と違う服を着ていることに気付き、驚きの混じった深刻な顔で尋ねた。
私はうん、と頷いた。どうやら縁も、一日が巻き戻ってしまったことに気付いたらしい。
「今日は八月二十九日だよね。でも、私たちは昨日、ここでお話して……それから」
「うん、縁が怒って出て行った。だから、ホントは今日は八月三十日じゃなきゃいけない、つまり私たち、二十四時間前に戻ってるってことね」
そう言うと、縁はますます深刻な顔をした。
「そんなまさか、映画やドラマじゃないんだよ。そんなことってあり得ないよ」
たしかに、縁の言うとおり。現実にそんなことあり得ないってことは、小学生の私たちだって分かる。だけど、そんなマユツバな出来事が、今私たちの目の前で起きていることも現実だ。だから、私たちはひどく混乱して、深刻な顔をしたまま向かい合っていた。きっと、お母さんが私たちのことをみたら、びっくりするか、「お葬式みたい」と笑ったかもしれない。
「気になるのは、私のお母さんもお父さんも、一日巻き戻ってることに気付いてないの」
私が言うと、縁は少しだけ驚いた顔をして「うちもだよ」と言った。
「それに、朝のテレビのお姉さんも」
「うん、小夜ちゃんちに来る途中、すれ違った人たちも、誰も気付いてないみたいだった」
「つまり、私と縁だけが、一日巻き戻ったってこと?」
「そういうことだと思う……」
縁と私の推理はほとんど同じだった。もちろん、ちゃんと確かめたわけじゃないけれど、世の中は昨日と同じ時間を繰り返して、ちゃんとまわっているみたいで、テレビも新聞も、何事もなかったかのように、昨日を繰り返している。
「どうして、こんなことになっちゃったのかな?」
縁が呟くように言った。その理由を私は知っている。だって、こうなってしまったのは私の所為かもしれないから。
私は、とりあえずお母さんに飲み物を用意してもらい、落ち着いて縁にいきさつを話すことにした。
学校の屋上階段にある鏡のこと。鏡には神様が宿っていて、願い事を叶えてくれるという噂のこと。そして、圭介の引越しを止めるため、昨日の夜、私は学校に忍び込み、鏡の前で「明日が来ませんように」と願ったこと。
私が話し終えるまで、縁はじっと黙って聞いてくれた。
それからは、対策会議。推論を交えながら、私と縁はこれからどうするかを、昨日とは違い真剣に話し合った。
「これは夢だ」と言う、私の意見はすぐに却下された。手の甲をつねっても、頬を叩いても、目を覚ますどころか痛いだけだから。
「世界中が共犯で、私たちを騙している」と言う、縁の壮大な陰謀説も却下。いやいや、ごく普通のどこにでもいる私たちみたいな子どもを騙すために、大人たちがみんなで騙すなんて、あり得ないから。
どれだけ話し合っても、簡単に結論なんて出るわけがない。
すっかり辺りが夕方……つまり昨日縁が怒って帰ってしまった時刻になって、私たちは「もう一日だけ様子を見る」という結論に至った。
もしも、私の願いを鏡の神さまが叶えてくれたのだとしたら、明日も「八月二十九日」を繰り返すはず。そうなれば、間違いなく夢でも陰謀でもないということになる。
私たちは、とりあえず明日の朝を待つことにした。
翌朝。私はお母さんに叩き起こされるのを、わざと待ってからリビングへ向かった。
「寝坊するなんて、あんたらしくもない」
お母さんのセリフは、まるで台本でもあるのかって言うくらい、同じだった。だから、私も昨日と同じように返事をしてみる。
「昨日はいろいろあったの。いいでしょ? 宿題終わってるし、まだ夏休みなんだし」
すると、返ってきたお母さんの言葉は、
「そりゃいいけど、今日は縁ちゃんが遊びに来る約束してるんでしょ? いつまでもそんな格好してたら、笑われるわよ」
昨日と全く同じだった。
「縁はそんなことで笑ったりしないわよ……」
そう返しながら私は、リビングのソファでコーヒーを飲みながら新聞を読む、出社前のお父さんにそっと近寄り、新聞を覗き込んだ。
日付は、八月二十九日金曜日……。やっぱり、昨日を繰り返していることは間違いなかった。
私は朝食を食べると、服を着替え、縁がやって来るのを待ちわびた。
縁は三日連続同じ時間に、我が家のチャイムを鳴らした。だけど、前日と違って、今日は足早に私の部屋に駆け込んで来た。
「やっぱり、私たち八月二十九日を繰り返してる」
と私が言うと、縁はこくんと頷いた。
それから、私たちは第二回対策会議を開催した。先に結論から言えば、私の「もう一度、鏡の神様にお願いして、時間を元に戻してもらう」と言う意見に、縁も同意した。
今度は縁も協力して、神さまにお願いをすることになった。正直なところ一人では不安もあった。やっぱり、縁は座敷童みたいな可愛い見た目とはウラハラに、とっても心強い親友だと思う。
だけど、縁は同意しながら、一つだけ私に疑問をぶつけて来た。
「でも、明日が来ないようにって、小夜ちゃんが願ったことだよね? だったら、このまま八月二十九日を繰り返せば、圭介くんはずっと引っ越すことはないんだよ」
「そうだけど……でも、同じ日を繰り返し続けるなんて、そんなの良いはずがない……」
私は少しだけ、鏡の神さまにお願いしたことを後悔していた。もちろん、縁の言うことは分かるし、そのために私はお願いしたんだ。
もっとも、ホントに願いが叶うなんて、これっぼっちも思っていなかった。だけど、ホントに願いがかなってしまうと、自分勝手なお願いでこの世がおかしくなってしまったことに、ものすごく罪の意識を感じはじめていた。
「じゃあ、神さまにもう一度お願いして、元通りになったら、ちゃんと圭介くんに告白する?」
縁は真剣な顔して私に尋ねる。私はぶんぶんと頭を左右に振った。
「そ、それは無理! 無理、無理っ、ぜーったい無理っ」
「そうしたら、圭介くん、遠くへ行っちゃうんだよ」
「だけど、無理なものは無理なのっ。今さら、私なんかが圭介に好きって言ったって、圭介も困っちゃうよ……」
と私が言うと、縁は少し詰まらなそうな顔をして、ため息を深くついた。きっと私に呆れてしまったんだと思う。
「じゃあとにかく、夜十一時。動きやすい服装で、校門の前で待ち合わせしよう」
縁はそれだけ言うと帰ってしまった。