第008話 休暇
プリムゼル軍港の一郭、【ミネルヴァ王立軍 魔獣研究所 魔獣対策部 生態研究課 プリムゼル分室】の建物の小会議室では、H.M.S.フラウンダーの士官たちが分室長エレン・ラフロイグ中佐と【魔獣研究所 情報部 資料課】のジョン・バルロ大尉を相手に、海棲魔獣スクィドワームとの遭遇戦の模様を説明していた。
実はバルロ大尉の正体は、【王立海兵隊 特殊舟艇作戦部】に所属するユージーン・シガルソン大尉が変装した身であり、研究所員には隠されていた。この聞き取り調査も、もっともらしい茶番ではあるのだが、研究所の分室長でもある研究者ラフロイグ中佐が同席しているため、真面目にこなさなければならない。目をキラキラと輝かせる中佐を相手に、フラウンダーの士官たちは詳細に経緯を説明するのだった。
その影で、シアーズたちは一つの懸念を抱え込んでいたが、何ともしようのない現状では作戦を進行する他に選択肢はなかった。
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〔 Frustrationem per se agone ardent causa 〕
最初に特殊任務について説明を受けた時、シガルソンの言葉にシアーズは、何かに憑かれたような目に緊張の表情で彼に詰め寄った。
「どういう事だ、何故それを知っている! お前たちは……っ!」両手は作戦概要書を放しシガルソンの襟首に掴み掛からんばかりだった。シアーズの心の中は疑念や怒り、悔恨など様々な感情で荒れ狂い、脳裏では18年前の忌まわしい記憶が蘇ろうとしていた。
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荒れ狂う暴風雨の中、大魔嘯の警報が発せられたカッスルネル村の子供たちは、丘の上の修道院に避難していた。
最初にその船影を発見したのは、修道院の窓から逆巻く海を飽きもせず見ていた5歳のジリス族の獣人、ポリー、チャック、ロッキーのバージェス家の三つ子だった。
「ディー兄、外からお船が来てる!」叫びに子どもたちが窓辺に集まった。
「大型のヨットだなぁ。あれ、いつだったかディーんとこに来た奴らが乗ってたヨットじゃねえか?」と11歳の力持ち、ゴリラ族のギャリソン・ハーバー。
呼ばれたディランは、北海への航海の案内役に療養中の父を雇おうと訪ねてきた、横柄な若い貴族の一団を思い浮かべた。
ディランの父であり、カッスルネル村の網元でもあるデイビッド・シアーズ船団長は北海でのトロール漁の最中、激浪のショックで立ち上がろうとしていた寝棚から投げ出され胸を強打、肋骨が折れ肺に刺さる大けがをしていた。漁船団の指揮を執り続け血を吐くデイビッドを、相談役のオーエン・ハーバー老が説得しアインズラッド島の施療院へ搬送した。幸い手術も回復も順調で、低圧持続吸引具と胸腔ドレーンが外せるようになると、漁の指揮をオーエン老に任せ村へ戻って療養していたのだった。慇懃無礼な一団の交渉役は、デイビッドに断られても気にした様子もなく、始終薄ら笑っていて、なんとも気味が悪い男であった。
ディランの周りに、他の子供たちも集まってきた。オコジョ族のクリス・ケラー、狸族のシーザー・ダンバー、豹族のブレンダン・ブース、狐族のルドヤード・ソラリス、猫族のジニー・イーデン、犬族のルーシー・ボールド、そして人族のサマンサ・モンゴメリーとタバサ・モンゴメリー姉妹。最年長のサマンサで14歳、それ以上の歳の子は、漁や店、港湾事務所などで仕事に就いていた。いずれもシアーズ家が網元を努めるカッスルネル村のトロール漁船団の漁師を親に持つ子供たちだった。
「あのままだと、岩礁にぶつかるな……」ディランが呟く。
「修道士様たちは、鐘楼の補強で皆さん上にあがっているわ、呼んでくる!」と走り出そうとするサマンサを止め、「僕が港へ行く、皆はここにいて」とディランが言った。
途中、家に駆け込み父にヨットの件を報告し、ディランは港湾事務所に走った。
カッスルネル村は港を中心に湾に沿う形で広がり、一番奥の丘側にシアーズ家の館がある。元は200年前に建てられた荘園主屋敷であった。白い煉瓦造りのカントリー・ハウスで切妻破風、西側に突出した温室とシンメトリーを成す東側の図書室、北側玄関の脇に2つの北向きのウイング、巨大なアイオニアス式石柱を備えた柱廊玄関と南側正面の真っ白なファサードが美しい邸宅である。
屋敷の前面には広大な芝の庭があり、玄関から村の中心を通る大きな道が港まで続いている。村の中央には円形広場があり、月初めの5日間には行商の集まる市が開かれる。 また広場を囲むように船道具、雑貨、乾物などの店が並び漁業と密接に結びついていた。
今はどの店も戸を閉め切り、叩き付ける風雨に人の気配もない。暴風に揺れる看板や鎧戸、転がる板きれや遊具……。まるで、全ての村人が死に絶えたかのような、荒涼たる姿をさらしていた。
ディランは突如背筋を這い上る寒気にぶるりと身を震わせ、港湾事務所へと駆け込んで行った。
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ウセディグ副長がシアーズの首筋に親指と人差し指、中指をおき、エルフの秘術である神経操作で繊細に刺激し激情を鎮静に導いた。
《 Nos sunt mersa diabolus 》
ぐったりと弛緩したシアーズは一瞬、自分がどこにいるのか失念していたようだが、我に返るとウセディグの腕に感謝の念を込めて手を触れた。
「済まん、副長。もう、大丈夫だ……。シガルソン大尉、取り乱して済まなかった」
「少佐、失礼ですが【解析】させていただいてよろしいですか? 短い時間ですがご一緒して、少佐の先ほどの言動にはどうにも違和感を感じるのです。もしかしたら……」ちらりとウセディグ大尉を見て、同意を求める。
「私も同意見です。一瞬、魔力の揺らぎを感知したような気がします。【解析】の必要を感じます」
「……分かった、やってくれ」頷いたシアーズは、力を抜きリラックスに務めた。
シガルソン大尉が魔力増幅のための腕輪型魔導装身具に魔力を込め、解析魔術を発動させる。
魔導装身具は、火/水/風/土/光/闇/冷/雷の属性が一つ込められた魔石を材料とする魔力増幅具である。装身具に刻まれる魔術式により、意思を込めれば無詠唱で魔術が発動する。また、稀に存在する魔力溜まり──世界に満ちる魔素の濃度が、致死レベルまで滞留した場所──で採れる無属性の魔石を使用した、属性に関係なく魔力を増幅する魔導装身具も存在する。その場合は、術者が魔力充填、詠唱(又は無詠唱)、発動までを自分の意思で行うことになる。熟練者は、この無属性の魔導装身具を好んだ。
シアーズの状態解析を行ったシガルソンは、考え込んだようにウセディグとシアーズを見た。
「少佐、あなたは呪われています」
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港湾都市プリムゼルの繁華街、サウス・テリトリアル・ロードとリッジウェイ・ロードの交わる角に、パブ『十の鐘亭』がある。三階建てのチューダー様式の石造りのうち、三階がアパートメント、二階が店主の住居、一階がパブとなっている。
ある日の午前11時、一週間の上陸休暇を与えられたH.M.S.フラウンダーの乗員のうち、右舷班で共に過ごす事の多い戦闘員アンガス・バーン、ゼッド・ヴォーティガン 一等水兵、ロディ・タナー、ハリー・ゲリン、ジェイ・ダフ 二等水兵が3日ぶりに顔を合わせた。
「いや、参った。せっかくの休暇だが、何をやったらいいのやら、さっぱり分からん」プリムゼル育ちの一等水兵族は、暇を持て余していたらしく、そうぼやいた。
「安宿と安酒、安い女……。わっしらは、そんなものは卒業しましたんでね。三人でコテージを借りて悠々自適ですよ。ま、1週間の命の洗濯ですわ」二等水兵たちは、それぞれ遠隔地の出身の上、天涯孤独という同じ境遇に親近感を覚え、行動を共にしていた。
「若いくせに随分、達観しとるなぁ。隠者様たちはそこで、何をやってるんだ?」
「ロディは薪割りなんぞの雑事、ハリーは掃除とかの家事、わっしことジェイ様は料理担当ですぜ。暇になれば読書したり、カードしたりですな」ふふんと、鼻高々に語る。
アンガスとゼッドは、普段の荒くれぶりとまったく違う姿を聞き、毒気を抜かれたような表情を浮かべる。それにくくくと、含み笑いを浮かべる三人組。
「今日は、わっしらが最近贔屓にしてる店で、多分ゴロゴロしてるに違いないお二人さんを引っ張り出そうと思いましてね。この店は珍しい料理で、結構人気があるんですぜ」
そこにワイシャツのボタンをきちんと首まで閉め、黒い半ズボンを履いた10歳くらいの犬獣人の少年が、注文を取りにやってきた。
「よう、ミミ。ヤグジンは今日、いるんだろ? 前に食ったコースを5人前頼む」
「こんちわ、ジェイさん。飲み物は何?」
「わっしはエールを1パイント、お前等は? じゃあ、エールを3つ。ストライピーたちは、どうします?」
「俺たちは、ジンの水割りにレモンを絞ってくれ。ミミってのか、注文取りとは、パブじゃあ珍しいな。俺はアンガス・バーンってもんだ。こいつらが、迷惑かけてないか?」
「初めまして、だよね? オイラはミミ=ミミ・デュヴィヴィエ。ウチは料理自慢のパブ・レストランさ。ジェイさんたちは、よく来てくれるよ」
「ふうん、デュヴィヴィエって……、帝国人なのか?」
「れっきとしたミネルヴァ人だよっ! オイラ、生まれも育ちもプリムだいっ!」
「こらこら、何を騒いでいるんだ? 注文は取り終わったのかい?」そこに、ワイシャツに蝶ネクタイを締め黒いズボンをサスペンダーで吊った壮年の逞しい犬獣人が、エプロンで手を拭きながらやってきた。
「済まねえ、ミミは悪くねえんだ。俺が不用意に帝国の事言ったもんだから」
「いえ、こちらこそ済みません。どうもたまに姓の事で何やら言われるようで、過敏に反応してしまうようです。気分直しに1杯ずつどうぞ、お近づきの印です。私はジャン=ポール・デュヴィヴィエ、この『十の鐘亭』の主人です。どうぞ、ご贔屓に」と、にこりと笑った。ミミも、申し訳なさそうに頭を下げた。
料理が来るまでの間、アンガスたちは店主と話していた。
「確か、ジェイさんたちは哨戒艇にお乗りでしたな。20年前、私は神聖ガリアス帝国から亡命してきたのです。その時、偶然出会った哨戒艇に助けられたのです。
当時、私は妻のマルトとブーティエ州ラヴィヨン村で、小帆船で漁師をしていました。ある夜、騎士を含んだどこぞの軍勢に村が襲われ、私たちは漁船で命からがら逃げ出したのです。村の者たちは大半が連れ去られ、老人は殺されました。
フードを被っていたそいつらは、なんというか禍々しい空気を纏っていて、とても人間とは思えませんでした。特に、顔をさらして指示を出していた男は、始終薄ら笑っていて、なんとも気味が悪い男でした。
逃げ出したあと、海の真ん中で大きな衝撃とともに舵が壊れ、また衝撃がきて帆柱が倒れました。魔獣が襲ってきたのかと絶望しましたが、ただかすめて行っただけのようでした。しかし、移動手段を失い、私たちは漂流する事になったのです。
何日過ぎたでしょうか、霧に包まれ日付の感覚も失せた頃、船が近づいて来るのが見えました。いつの間にか、ミネルヴァ連合王国の領海に流されていたのです。その船は、哨戒艇でした。今も、忘れません。H.M.S.マーリンのアンソニー・マクミラン・コルトレーン艇長……。
はい、知っています。18年前の大魔嘯で、艇ごと……。…………。
ああ、済みません、大丈夫です。あの気味の悪い軍勢を飼っている国に戻りたくない私たちは、艇長さんの根回しのおかげで受け入れも順調に済み、私は漁師で、妻は料理人で身を粉にして働き、10年前にこの店を手に入れました。
ミミも産まれ、私たちが幸せに暮らせるのも、コルトレーン艇長とあの哨戒艇のおかげなのです。今日は、哨戒艇の乗組員の方々に思い出話ができて、よかった……。お聞き下さって、ありがとうございます。
ああ、料理が来たようです、これがマルトです。こちら、哨戒艇の方々。うん、聞いていただいたよ。
さあ、妻と料理人が腕に縒りをかけた料理です。どうぞ、お楽しみ下さい」
最初はつまみ程度と思っていたアンガスとゼッドは、次第に順に出てくる料理に感嘆しだした。
前菜として菜の花の冷製サラダ、海老と小鯛のマリネ、ポロ葱のゼリー寄せ、胡麻と大豆のテリーヌ、アボカド・ディップ。
続いて海老のすり身のスープ小鉢のラディッシュ卸し仕立。
鮪と海老、金目鯛のあぶり焼き(レア)。
牛肉と菊菜、リーキの小鍋シトロン風味。
鯛の香草焼き、じゃがいもの雲丹揚げ、バッターバーの香り揚げ。
鰻のマリネ。
海の幸を炊き込んだライスボウル、サラダ小鉢。
デザートに黒胡麻を練り込んだアイスクリームのフルーツ添えというコースに舌鼓を打ちつつ、談笑する。途中で何度かミミをからかい、マルトが運んでくれる代わりの杯を飲み干す。
店内ではウィリアム・エヴァンストンのピアノコンボが『Young And Foolish』という曲を静かに演奏している。向こうのテーブルでは、よれよれの黒い服を纏いウェーブのかかった黒髪を肩まで垂らし、室内だというのにレイ・バーンズのサングラスを掛け、口の周りを覆うようなひげを生やした小柄で小太りな男が、何枚もの原稿を書き散らしていた手を止め、目をつぶり聞き入っていた。他の客も騒ぐ事もなく、パブというには落ち着いた時間が流れていく。
雰囲気に酔い、酒に酔い、全員が味に満足していると、料理人が挨拶に来た。
「やあ、彼がここの料理人、ヤグジンでさぁ。今日もうまかったぜ。なかなか、味は盗めねぇなあ」
「お初にお目にかかる。拙者、ヤグジンと申す当店の料理人にて候。満足していただいたようで、誠に重畳でござる」色白の細面の穏やかな顔に糸のような細い目。背中まである長い黒髪を首の後ろで結い、流している。黒いシャツとズボンの上にヤポンス・ロックという上衣を纏い、襷がけに腰にエプロンを巻いている。その珍妙な喋りに、アンガスとゼッドが目を白黒させていると、「再度のご入来の折りは、ぜひこの酒をお試しあられよ。我が故郷のものを再現し申した物なれば、この料理にも殊の外、合い申そう」10インチ程の瓶をテーブルに置いた。ラベルには刷毛で書いたのか、何やら迫力のある見知らぬ文字が書かれている。
「拙者の生国、シキ国の文字でござる。これなるは、故郷の酒を再現した穀物発酵酒の銘柄にて、《ひるね四十年》と書いてござる」
シキ国とは東方の小島であり、鎖国政策をとっている独立国家で、彼の他には他国へ出た者はいないらしい。二年前、小舟で釣りをしていた所、嵐に遭い外海に流され漂流、通りかかった交易船に救われた。彼は国に送るという申し出を断り、飄々とミネルヴァ王国まで同行してきた。船の厨房で働いた彼は、司厨員の行きつけのパブ『十の鐘亭』に雇われる。シキ国風の異国料理で徐々に人気が出ており、引き抜きの提示も多いが全て断っている。さらには独学で文字と言葉を覚え、読書量は学者並。本名は『アシナビノヒワネノクニカ』というが、ミネルヴァ人には発音できないので、シキ国で好きだった国技・野球道からとって、本人が野球人と呼ばせているのだった。
奇しくも、店主も料理人も漂流したところを助けられるという共通の体験に、類はともを呼ぶという言葉を実感する一同だった。
しばらく手の空いた店主と食後酒を楽しんだ後、フラウンダーの乗組員5名は店を辞去することにした。再来を約束し店を出ようとした時、外から扉が開かれた。
そこには、これから一杯やろうという、近くの裏町、ドーホゥ・ストリートの自警団のゼッケンを付けた男達がいた。中の一人がジェイたちの顔を見て、あっと声を上げた。何度かこの店で杯を傾け合ったことがあったのだ。
「よう、海軍さん。さっき、お仲間を衛士隊詰め所に連れてったぜ。正体なく酔っぱらってて、自傷しようともしてたんで危なくて。迎えに行ってやった方が、いいんじゃないか?」
アンガスたち一行は、ため息を吐いた。せっかくの楽しいひと時の最後がこれかと、礼を言いながら、士官に見つからずに厄介ごとを収められるか思案する。
「ああ、そいつ、右目が金で左目が碧かったぜ。まるで、話に聞く魔族みたいだったな」
厳しい表情になったアンガスは、即座に衛士隊詰め所に行く事を決めた。
アイツは、気のいい奴だ。それが最近、変わっちまった。己の内に籠り、他者を拒絶し、絶望を瞳に浮かべている。早急に何とかしなければ、とアンガスは皆を従え足早に歩いた。
何とかアイツを請け出して、ヘイワードのおっさんに相談しよう、と決めた。
パブ(Pub)とは、イギリスで発達した酒場のこと。Public House の略。
カウンター席や椅子席を設け、主にビールを提供しており、食事には余り重きを置いていません。大きなパブではランチタイム及び夜の早い時間に食事を供するところがあり、パブランチと呼ばれるこうした食事は、基本的にはすでに調理済みの食材に付け合せの茹で野菜などを添えたものです。小さいパブでは食事は一切供さず、つまみもポテトチップス(英語ではクリスプスcrisps)程度しか置いていないのが常です。カウンターまでお客が自らおもむいて直接バーテンダーに注文し、飲み物を受け取ったらその場で清算するキャッシュ・オン・デリバリーという方式が基本です。
お客は冷えていないビールを会話の合間にちびちび飲み、途中で他の酒に変えたりといったこともほとんどせず、最後まで同じ銘柄のものをずっと飲んでいます。