第011話 海魔Ⅰ
H.M.S.フラウンダーはプリムゼル軍港を早朝に出港し、針路を南西に取った。半日の航程でロスタ群島の外れにある無人島に着き、その入り江でフラウンダーと同型のトロール漁船『トーベイ・ラス』を待つ。夜半に到着したその漁船には、どこから見ても漁師としか見えない男たちが乗っていたが、彼らはどこかのクランに所属する『ランナー』たちだった。その船首に大急ぎで艦番号1015をペンキと型紙で書き入れ、フラウンダーのそれを着脱可能な樫材で隠す。その上から『トーベイ・ラス』と船名を書き入れ、偽装を施した。
偽のフラウンダーは南方海域の魔獣棲息ポイントをチェックするために巡回し、本物はトロール漁船として北海方面を目指すことになる。そこで、大魔嘯を人為的に引き起こすことができると想定される勢力を探索するのが、今回の任務『トラスト作戦』であった。
18年前の大魔嘯の際、カッスルネル村の惨劇のきっかけになったともいえる自家用ヨットの船主、乗員の身元調査については、シガルソンに取り次ぎを頼んだ。適当な部署に依頼してくれるだろう。当時も様々な調査が入ったが、大魔嘯により完全に破壊されたヨット、人体により調査は難航し、最終的には不明なまま終了していた。念のための依頼だが、大魔嘯の調査にあたり何の手がかりもないよりは、余程いい。
シガルソンは訓練が終了するとH.M.S.フラウンダーに同乗し、プリムゼルへ帰還すると簡単な挨拶を済まし、飄々と去って行った。現場には、5名の秘話通信チームが残った。
彼らは『魔獣研究所魔獣対策部生態研究課プリムゼル分室』の一室を間借りし、H.M.S.フラウンダーの所属する『調査科』と密接に連携して魔獣の情報を収集する為の、『魔獣研究所情報部資料課』の出先機関として偽装されている。だがその実体は、『王立海兵隊特殊舟艇作戦部』が主導する、『トラスト作戦』の管制センターであった。本部と艇との連絡をつなぎ、遠話で命令を伝達してくることになっている。
作戦行動中の艇と陸地を隔てる海原を越えて長距離の遠話ができる術士は、特にその能力に特化した者は非常に少ない。希少な術者は国家が囲い込み、『逓信省』などの政府機関にて能力を活用することになる。そういった者以外の、依頼や任務、作戦で長距離遠話の必要に迫られる『ランナーズ(特殊技能者斡旋組合)』に所属する高ランクのランナーや軍の遠話士は、魔石の魔力増幅機能によりそれを可能にしている。
管制センターの室長を務めるジョン・タリアフェロー・トンプソン中尉、遠話士長のロイド・ピジョン軍曹、遠話士としてデズモンド・フォレスト伍長、ビル・シモンズ、トマス・コールドウォーターの海兵隊一等兵。彼らは脳裏に浮かべる魔法陣を遠話相手のそれと直接繋げ、思念波を受け渡しすることで通話する。その時、思念波に任意の波動的迷路を盛り込み、外部からの魔術的な干渉を排除する。思念波のリズムを解析されることを防ぐ秘話通信のエキスパートが、彼らだった。
しかし、本人たちはもとより彼らも知らなかった。『トラスト作戦』とは、H.M.S.フラウンダーとその乗組員を囮にして敵を誘き出し、大魔嘯を阻止して敵性勢力を殲滅するための餌とする作戦だということを。
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ミネルヴァ王国北東部、オバルデアタイン州シェルトリン諸島の外れに位置するシャイン島。ゴツゴツした岩肌が荒涼感を抱かせるこの島は立ち入り禁止区域に指定され、結構な漁場ではあるのだが地元の漁師も近づかない。
『王立海軍本国艦隊第七即応部隊』の小型砲艦四隻が所属する、小さな軍港基地『第26基地』があるためだ。
ミネルヴァ王国沿岸部、特に北海沿岸は大魔嘯が発生すると、溢れ出した北海の海棲魔獣による激しい襲撃を受ける。またそれに影響を受けるのか、陸上の魔獣も活動を活発化させ、海陸合わせてその被害は甚大なものになる。それを防衛するため陸上での都市部は衛士隊が、都市外では騎士団長が将官、騎士が佐官待遇である騎士団に率いられる陸軍兵が、動員をかけられたランナーたちとそれぞれ協力して布陣し、海上では沿岸に点在する海軍の即応部隊が阻止行動をとる。小回りの効く小艦艇群が第一撃を与え時間を稼ぎ、大型艦が急行し殲滅戦を展開する。
この体勢は、同様の危機を共有するミネルヴァ連合王国に属するディエナ王国、ウルカン王国、アレス王国の各国沿岸部でも敷かれている。と言っても、50年以上の周期で発生する大魔嘯の対処に、常時戦力を待機させる予算は莫大なものになる。通常は発生が予測されると連合王国内で随時各部隊が編成され、即応訓練が実施される。そして大魔嘯が終息すると解体され、平時の編成に戻るのが通例だった。
だが、二度の周期外れの大魔嘯発生により、どちらも後手に回った陸軍と海軍の防衛部隊は編成を解くとこができずにいた。更にかつては軍の精鋭が集められた即応部隊だったが、最近では言動に問題がある、または上司に睨まれた者が飛ばされてくる吹き溜まりの様相を呈してきていた。
「親父さん、今、補給物資が足りている艦は何隻ある?」
「そうよなぁ、四隻の砲艦のうち満足に作戦行動が取れるのは、いいとこ二隻じゃな。あとの艦は、魔石が足りなかったり魔杖が老朽化していたり、修理材が届かなかったり……」
第七即応部隊の実働部隊である四隻の小型砲艦隊を率いるゲイリー・コリングウッド少佐の問いに、白髪を短く刈り込んだ退役間近の整備中隊の最古参、オーガスタス・ハウイット大尉が肩をすくめて答えた。
「予算はみんな、基地司令の腹ん中にでも収まっちまったんじゃろうよ。ずっと埃を被ったままの、魔石を取っ払った魔石機関以外、碌な部品の在庫がない。知っとるか、儂らは足りない部品を、不要部品を溶かした鋳鉄の塊を作って、そこから削り出して作っとるんじゃ。それでも足らんからのう、司令の個人ヨットから部品を失敬して来ようと思っとるんじゃ」とニヤリと笑う。基地司令の持ち込んだ個人ヨットは、全長32フィート、全幅11フィート、セティータイプの10人乗り沿海型セイリングクルーザー『セグンダ・ヴェニーダ』で、平時には取り外されているが戦時には警備艇として運用できるよう、魔石機関を搭載出来る仕様になっている。
「おいおい、親父さん。見つかったら只じゃ済まないぞ。くすねるんじゃなく、老朽部品だとでも言って交換させて丸ごと貰っちまえ。……そういえば、司令のヨットが見当たらんな。休暇だったか?」
「何でも急に用事ができたんじゃと。と言っても、ここじゃいつ休暇をとっても取りたい放題じゃがな。解せぬのは、何やら胡散臭い連中を基地に招いて、そいつらと一緒に乗っていったことじゃ」
「『立ち入り禁止地域』も有名無実か。魚でも穫って行商にでも出ようか」
「もっと解せぬのは、連中が宗教臭い匂いを振りまいておったことじゃ。じゃが、教会の神官を招くなど、聞いておらんかったからの。ここいらでは見ん顔じゃった。どこの教区から呼んだのやら」
「まあ、中央あたりのお偉いさんを接待航海にでも誘って、陽の当たる部署に呼び戻して貰おうって魂胆だろうさ。こいつは結構なことかも知れないぞ、あの司令が交替してくれりゃ、少しはましになる」
「もっと酷い奴が来たら、どうするんじゃ?」
「……。その時は、本気で漁師に鞍替えを考えるかな」
倉庫から魔石機関が一基、消えているのに気づくのは、その少し後になる。
そして3日間の休暇期間が過ぎても、王立海軍第26基地司令スウィントン・ベイジル・マウントジョイ中佐は、基地に戻って来ることはなかった。
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ディラン・シアーズ少佐は焦茶の作業ズボンに防水ブーツを履き、茶のチェック柄のフランネル・シャツの上に、すり切れたジャージー織りの濃紺の上着を羽織った。黒いギルシーア帽を傾げて被ると、『船長室』と札の付け替えられたドアを開け、H.M.S.フラウンダー、現在は自称『トーベイ・ラス』の甲板へ向かった。今朝は髭を剃っておらず、無精髭がまばらに生えている。長年の海軍士官としての身だしなみ故の気持ち悪さを抑え、早朝の空の下に出て船首方向を見回す。そこにはロープやトロール漁で使う底曳き網、浮きなどの道具が雑然と押し込められており、いつもの軍艦としての整頓された環境からはほど遠い景観だった。
思わず不快な気分になりかかったが、甲板下層の第三食堂──今は偽装のため生活空間は縮小され魚処理室の扉が取り付けられて、天井までの魚箱を模した板の裏側に男たちは詰め込まれている──を思い、ため息を吐いた。
船首マスト上の夜間見張り員に、さっと手を振る。通常の任務航海では、見張り員は船首マストと操舵室の上左右の、計三名が配置に就く。しかし漁船に偽装している現在、厳戒態勢をとる漁船とは? との不審を招くと考え、船首マストの見張りのみに絞っている。見張り員には負担がかかるが、これも秘密を守るためだった。秘密といえば、結局プリムゼル軍港で、改装のためドックにやって来た作業員の一団はプリムゼル工廠の所属ではなく、どこからか派遣されてきた者たちだった。今、航行を続けている現在も、第一中継ポイントという大海原の一点を目指し、その後は追って指示を受けるという何とも秘密めかした状況だった。
まったく、あっちもこっちも、秘密だらけだ。上着のポケットからパイプを取り出し、火皿にぐいぐいと葉を詰めて吸い付けた。「ふむ、指は震えなかったな」と、なんとなく満足して、操舵室へ入った。
その第一中継ポイントとは、ミネルヴァ連合王国の領海外東方、小島の点在するスケラグス諸島という、神聖ガリアス帝国領海との狭間に位置し、互いに領土的野心を牽制しあっている海域近くであった。現在は、地下資源としてはこれといった物はないのだが、お互いにとっての戦略的要地であることから両陣営から情報員が多数入り込み、双方の軍艦が近づくのを警戒していた。
「おはようございます、サー」操舵当直のハリー・ゲリン 二等水兵が声をかけた。よれよれの薄青いヘンリーシャツに黒のワッチ・コートを引っかけ、黒いワッチ・キャップ、ジーン生地のオーバーオールにカーキのデッキシューズを履いている。
「おはよう、ゲリン。楽にしろ、漁船の乗組員がそんなに鯱張っていたら、変に思われるぞ。一服つけろよ」
「……ありがとさんです。じゃあ、遠慮なく」と、煙草の缶をポケットから取り出し、予め巻いておいた手巻き煙草を銜えた。二人の紫煙がしばし、操舵室を漂った。
「どうだ、下甲板は、何とかやれそうか?」
「アイ……、はい。前よか狭いですが、交替で寛ぐようにしてますんで、それ以外の連中は、ハンモックで寝てます。でも、身体が鈍らないか心配っすね」
「分かった。昼間は眠るようにしてくれ。夜間に甲板で、訓練を行うことにしよう」
その時、シアーズはヒヤリとしたものを背筋に感じた。
「停止、動力反転全速! 取舵一杯!」
一瞬、慌てたゲリンだが、煙草を噴き落とし足で踏み消し、同時に命令通りに速度指示器を操作、舵輪を左へ回し「停止、動力反転全速。とーりかーじ! 取舵30度」と復唱した。軍艦の舵の最大角度は35度だが、フランダーは哨戒トロールの名の通り、トロール漁船が設計の下敷きになっているため舵の最大角度は一般船舶と同じ30度である。船尾の舵が最大に振られ、船首最下部の取水口の上方、普段は船首ノズルを塞いでいる蓋が回転し噴出する水流を受けて補助舵となり、すぐに船首を右に振りながら、艇は後退し出す。船首マストの見張り員が何か叫んでいるが、騒音でよく聞き取れない。シアーズは椅子のパイプ受けに火のついたパイプを勢いよく挟み、消えるに任せた。
「戻せ。動力そのままだ」
「もどーせ、舵中央」
「当舵」
「面舵に当て、面舵7度」
舵を切った後、中央に戻しても船は慣性でその方向に回頭し続ける。そのため反対に舵を切ってまた中央に戻し、転針後の針路に定針させる。
「180度、よーそろー」と、シアーズは針路を指示する。
「よーそろー、180度」ゲリンは、180度に定針したことを報告した。フラウンダーは船首ノズルから水流を噴出し、真っすぐ退がり続けた。
その瞬間、右舷方向から艇の鼻先をかすめて大きな黒い影が、航跡を後ろに曵きながら、左舷後方へと海面直下を矢のように通り過ぎていった。シアーズが警報のボタンを押すと、艇内に警報が響き渡った。
「何じゃ、ありゃあ。あ、操舵、交替しますわい」と、戦闘服の上着を羽織ったオベド・オクリーブ操舵長が操舵室の戸口で声を上げた。後ろには、ジェフサ・ヘイワード信号長とケンジー・ランドール少尉が続いている。こういう事はよくある。彼らは警報を出す前から何かを察して、自分が必要になる時には必ずそこにいるのだ。
動力を前進に戻す指示を出し甲板を見ると、乗組員が戦闘服を引っかけ集合して来た。艇首の艦番号を隠す樫板が、引き上げられる。ティム・キャニング士官候補生は、ミネルヴァ王立海軍の戦闘旗である白色旗を揚げている。シアーズは、操舵室の棚に押し込んでいた戦闘服の上着を引っ張りだし、羽織った。
オクリーブ操舵長と交替し、同じく戦闘服のボタンを留めながら戦闘配置に行こうとしたゲリンが、「何で分かったんで?」と真顔でシアーズに聞いた。彼は黙って見返した。ただ、分かったのだ。【彼女】が教えてくれたのかもしれない、とシアーズは操舵室中央の艇長席の腕置きを撫でた。
シアーズは艇長として、当直員よりも長い時間を操舵室で過ごすことが多い。艇長の素早い判断が必要になる危機の際に、ずっと立ちっぱなしで体力が尽きていた、などという事態を避けるために戦闘時以外は座っていられるよう、修理班が予備の修理材で頑丈な椅子を作ってくれたのだ。それはシアーズが哨戒部隊に赴任し、フラウンダーの荒くれ共との一悶着を経て艇を掌握した、すぐの頃だった。今では、腕置きも随分と擦り減っている。皆の目が、柔らかくほころんだ。
「第一戦速。取舵、反転だ。奴はこちらを狙っている、応戦するぞ、操舵長」ベテランの操舵長には、細かな指示は時間の無駄だ。以心伝心、意思を伝えれば、フォローは操舵長がしてくれる。その分、シアーズは戦術に気を配れる。伝令を出し見張り員にもう一度、敵の詳細を叫ばせた。
「目標、方位12度、高速で直進して来まーす。エイ型魔獣、15フィート位に見えまーす! 背にこぶ、尾の先端が二股でーす!」船首マストの見張り員が叫び、ヘイワードが年鑑でシルエットを確認した。「ボグ=ス・タルングです。最大全長25フィート、高速で移動、眼は退化し音に反応、鋭利な刃状の鰭!」
「信号長、管制センターに連絡。副長へ伝令、水雷魔術、発射は任せる。少尉、魔術火炎弾用意、奴が海上へ出たら集中攻撃だ」
フラウンダーの軸線方向から、真っすぐ艇を目指してエイ魔獣『ボグ=ス・タルング』が突進してくる。
「水竜の赫怒、用意。」ウセディグ副長は水雷班と共に、艇首水線下に魔法陣を発動した。
「発射」
四つの魔法陣から水塊が迸り、海面下を魔獣目掛けて疾走する。しかしボグ=ス・タルングは海面に浮上し、水雷魔術はその下を走り去った。やがて魔力も減衰し、消滅していくだろう。一方、ボグ=ス・タルングはそのまま海面を叩き、爆音と共に海面を大きく跳躍、空中を滑空してフラウンダーに迫る。海面に照準をあわせていた射撃班は慌てて狙いをつけ直すが、「全速前進。やり過ごせ」魔獣の進路上から逃れる艇の揺れに狙いは定まらず、チェルディッチ兵曹の命じる牽制射撃も数発が当たっただけであった。
フラウンダーの最前までいた海面に突っ込んだボグ=ス・タルングは、盛大な瀑布をあげ海中を滑って遠ざかる。反転した魔獣は、再度フランダーを襲う。水雷、射撃と今回は待ち構えていたフラウンダーの攻撃も、するりとすり抜けていく。海中でも空中でも素早い魔獣に、戦闘班は劣勢だった。このままでは、有効な打撃は与えられない。
旋回する艇の揺れに甲板の漁具の固縛が解け、転がり出した。「片付けろ!」応急修理班のグリーン兵曹が叫ぶ。それを見たシアーズは、「副長を呼んでくれ。少尉、警戒を続けろ」拡声器で呼び出して敵を刺激したり動向を知られたりしないよう、戦闘中は伝令で言付ける。キャニング候補生が艇首へ行き、ウセディグ副長を連れてきた。
「副長、水雷魔術で物を運ぶことはできるか?」
「……、聞いたことはありませんが、海水に圧力をかけて回転させ質量を産み出していますので、圧を受けとめられる物であれば可能だと思われます。それで、何を運ぶのですか?」ウセディグは考え込みながら答えた。
魔獣の突進を躱したフラウンダーは船足を止め、敵に横腹を見せ停止した。艇首から帆布の梱包が四つ海に投げ入れられ、その後ろに魔法陣が構築される。
「いいかね、今回は雷属性は外し、魔獣の前方で水塊を炸裂させる。タイミングをあわせるのだ」そう言う間に、魔獣は旋回を終えこちらに進み出す。
「発射」いつもと変わらず静かに号令するウセディグに、水雷班は落ち着いて水雷魔術を射ち出した。それぞれの水塊の先端には、うまく梱包が乗っている。魔獣に向かって一散に走って行く。
魔獣との距離がほとんどなくなり、ボグ=ス・タルングが水塊を躱そうとした時、海が弾けた。炸裂と共に梱包が解け、中の網が飛び出す。海水の騒擾に固まっていた網は解され広がる。立ち上がる瀑布に網は所々切れながらも持ち上げられ、魔獣に覆い被さっていく。ボグ=ス・タルングの鋭利な刃状の鰭に所々切り裂かれながらも、網はその体に絡み付いていった。
「前進、全速。後方に回り込め。一斉射撃」シアーズが命じる。「アイ、サー」フラウンダーがぐんと走りだし、戦闘班が戦闘用小杖を構える。
「火竜の軌跡、射撃用意!」甲板の中央に控えるチェルディッチ兵曹が命令する。左舷列の端からかかるイアン・ストークス水兵長の「構え!」の号令に、一斉にロッドが突き出された。もがく魔獣が攻撃範囲に入ると、ランドールが発射命令を出し、チェルディッチが叫ぶ。
「射撃開始!」同時にストークスが曳光火炎弾を発射。その着弾点を目標として、次々と魔法陣の中心から火炎弾が発射され、撃ち込まれる。ボグ=ス・タルングは甲高い、軋るような悲鳴を上げた。暴れる魔獣の鰭で、網が切り裂かれる。魔獣の周りは、傷口から流れ出す血液で赤く泡立っている。だが、まだ致命傷にはほど遠かった。
「反転してもう一度だ。後方からの攻撃に徹する。少尉」「射撃用意!」フラウンダーは回頭し、魔獣の後尾を航過する。
「射撃開始!」再びボグ=ス・タルングは爆炎に包まれる。だが、悲鳴を響き渡らせ暴れる魔獣に、頭部から鰭にかかる網が破られる。魔獣は赤く漂う航跡を曳きながら一目散に海中深く逃走し、攻撃はそのスピードに付いて行くことはできなかった。甲板には、興奮の後の疲労感が漂った。
「戦闘終了、配置を解いてくれ。皆、よくやった」拡声器で労い、魔獣の去った方向を眺めた。あいつは、確かに害意を持っていた。また来るだろう。それまでに、有効な打撃方法を考えなければ。
甲板では、後片付けと再偽装の作業が始まっていた。
「網を駄目にしてしまったな」シアーズは、ため息を吐いた。艇長席の腕置きに備え付けのパイプ受けからパイプを取り上げ、灰入れに中の灰をあけた。掃除用ナイフで火皿のカーボンを削り落としながら、「スケラグス諸島に寄って、補給することにしよう。ついでに、乗組員に半日休暇だ」と考えた。