第010話 素描
SBS(特殊舟艇作戦部)による工作員のための訓練は、予備訓練・基礎訓練・応用訓練の三つのコースから構成されている。
予備訓練は、肉体面と精神・魔力面の強化を目的としたもので、夜間行軍や接近戦での格闘、相手の意表を突き無力化する魔術などの訓練を二週間にわたって受けることになる。予備訓練が終わると、次は基礎訓練であり、これも二週間のプログラムとなっている。目標人物の同定方法や観察方法、拉致方法、暗殺方法、情報収集、破壊工作といった一連の工作活動に関して、その技術や方法論などを学んでいく。
予備・基礎訓練の各コースを修了すると、最後に応用訓練コースに進む。四〜六週間をかけて様々な敵地への潜入方法のほかに、各種の工作活動を立ち上げるための訓練を施されることになる。教育内容も、きわめて実践的なものになり、鉄道の架橋や建造物のどこに爆破魔術をかけると崩れやすいかや、軍需産業の工場にどうシンパを浸透させるかといった工作プログラムの実技が行なわれる。
しかしH.M.S.フランダーの乗組員には、予備訓練と基礎訓練のみが行われた。訓練場所は湖水地方にある、一般の立ち入りが禁止された王立軍の特別訓練区域であった。
湖水地方はミネルヴァ王国北西部、カンブレイルシャーのモルンランド郡、カンドランド郡及びランカスト地方にまたがる広大な地域である。
中央部にミネルヴァ王国内の最高峰ダールヴィド・パイク(標高約1万2千300フィート)を頂き、縦横に走る深緑に包まれた渓谷沿いに氷河によって造られた600以上の大小無数の湖沼が点在する風光明美な地域で、ミネルヴァ王国有数の景勝地としても知られる。湖水地方のほとんどの地域は、国立公園に指定されている。
湖水地方の降水量は年間平均約130インチ。雨の多い地域だが、三月から六月にかけて少なく、十月から一月にかけてが多い。そのせいか気温は一月の3℃から七月の15℃と、年間を通して低く霧に包まれる事が多い。四月下旬の今は、清冽な空気と寒気が森林を覆っていた。
H.M.S.フウランダーはカンブレイルシャーのモールカム湾に係留され、エルフォッド・ギルダン機関科兵曹が居残っている。艇の警備には、特殊舟艇作戦部の海兵隊員たちが派遣された。
出航前に習熟訓練に関しての艇内放送で、特殊任務のことを初めて告げられた乗組員は、しかし大した動揺もなく出港作業を終えた。
モールカム湾のブレイ港で桟橋に整列すると、移送用の軍用馬車がやって来た。ファーブネス街道を五台の軍用馬車に揺られたシアーズ以下の乗組員は、二日をかけて訓練地に辿り着いた。尻や背中の痛みをこぼす者たちも、周りを取り巻く景観の神秘的な美しさに呆然としていた。
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「誰だ、『美しい自然の中で体を動かせば気持ちがいい』とか言った奴は……」疲労困憊のジョン・ベケット 一等水兵が、兵舎の食堂にある長テーブルに突っ伏した。人族としては長身の、7フィートの筋肉の塊のような肉体も、今は萎んでしまったように見える。
現在、朝の8時。訓練用に支給された海兵隊の戦闘服で背嚢を含め通常装備をフルに装備して、深夜から明け方にかけての夜間の強行軍を終えたばかりだった。
カマボコ型で教官・訓練生の別なく寝台が並んだだけの兵舎が二棟、同型の管理棟兼食堂が一棟、教室用に一棟の小さな訓練基地に入り一週間が過ぎて、体も精神的にもここに慣れた頃、不意をつくように突如として夜半に叩き起こされ実施された。油断していたフラウンダーの男たちは、暗闇の中あちらにぶつかりこちらで足を取られながらも何とか前の者を見失わずに、青息吐息で全員が歩き通した。
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先頭をオベド・オクリーブ上等兵曹、中央にターロック・エイルウィン 二等水兵、最後尾にクタ・カスゥルフ 二等水兵という地下の鉱床での作業に馴れており夜目の効くドワーフ族が配置され、その先導に皆が漆黒の闇の中、従っていた。ドワーフ族とエムリス・ウセディグ副長を除く皆は、フル装備に喘ぎ、足取りも蹌踉けがちだった。
「副長、君は、案外体力が、あるんだな」二番手を行くシアーズが、途切れ途切れに後ろのウセディグに話しかけた。
「我々エルフ族には、森の賢者として樹々が語りかけてきますので、障害にはなりません。装備の重量は、重心の取り方と鍛錬で軽減できます」後方を見て、「例外という物は、どこにでもあるものですが」そこではインジルド・チェルディッチ兵曹のシルエットが、ふらふらになりながら歩いていた。ハーフエルフのチェルディッチは体力もエルフとしての特性も、純粋なエルフ族であるウセディグと比べ、だいぶ劣っているようだった。
あちらこちらから木の根に足を取られ、岩に躓き、枝にぶつかって悪態を吐く声がひっきりなしに聞こえてくる。中でも際立って口汚いのは、艇内一の不平屋ジョン・スピラーン 二等水兵だ。細い顔に細い鼻筋、首から体と何から何まで細いスピラーンは、不平に関しても細かい事柄をあれやこれやと見つけてくる才能があった。皆、彼の不平にはウンザリするのだが、仲間思いの一面もあり嫌われてはいなかった。
獣人族のアンガス・バーン 一等水兵らも、体力はまだしも精神力を消耗し疲労感に喘いでいる。シアーズも、ほぼ気力だけで歩き続けていた。
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短い睡眠の後で朝食をとることができたのは、とても頑丈そうには見えないエルフ族のエムリス・ウセディグ大尉と、オベド・オクリーブ上等兵曹、ターロック・エイルウィンとクタ・カスゥルフのドワーフ族の二等水兵のみだった。
アンガス・バーン 一等水兵を始めとする獣人族も、ハーフエルフであるインジルド・チェルディッチ砲雷科兵曹も、他の人族の乗組員と同様に椅子にへたばっていた。ティム・キャニング士官候補生に至っては、疲労のあまり食事を始めようとしたところで眠り込み、今にもスープカップに顔を突っ込みそうになっている。
シアーズも他の士官も、下士官や水兵と一緒に同じ訓練を受けている。体が泥のようにクタクタで食欲も全くないが、シアーズはビスケットを紅茶で無理やり流し込んでいた。
長テーブルの向かいに座るシガルソン大尉は、管理棟で悠々と採点やプログラムの見直し、物資の管理などといったデスクワークと洒落込んでいるためか疲れも無く、ソーセージと豆の煮込み、フルーツビスケット6枚、ミルクチョコレート1個、野菜コンソメスープ、チョコレートドリンクに紅茶という朝食を勢いよく平らげている。
特殊作戦の工作員のための秘密訓練なので、基地には教官役の最低限の人員しかいない。そのため、食事はすべて携帯口糧が配給されている。こればかりはそれほど物に動じない乗組員一同も、あまりの味気なさに不満たらたらだった。
実際にはそこまで酷い物ではなくそこそこ食べられる味なのだが、レナード・グリーン補給科兵曹兼司厨長以下司厨員の料理の腕が良く、艇の食事に馴れているために、どうしてもそれと比べてしまうのだった。
シアーズは能天気な表情で美味そうに食べるシガルソンを軽く睨み、食事に注意を戻しうんざりとした。
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午後から翌日までの予定が無くなった日の翌日、基地に戻ったシガルソン大尉はシアーズの変貌に驚いていた。昨日まで彼を覆っていた絶望感が、霧消していた。
何があったか聞こうとしたが、ただ庭園を散策して来たとしか答えなかった。ウセディグ副長も驚いていたが、それよりも艇長の精神状態が良くなり満足そうだった。相変わらずの無表情だが、絶対あれは喜んでいた、とシガルソンは確信していた。
彼は理由の推測を試みたが確かめるのは諦め、もう少し時間をかける予定だったシアーズの【コントロール】を切り上げ、実務の訓練に移ることにした。
呪いの問題は解決されていないが、きっとこの連中なら乗り越えられるだろう。雰囲気が落ち着き前向きになったシアーズに、作戦を完遂し生き残る可能性が多少なりとも上がったと、シガルソンは絶対に認めないだろうが密かに安堵していた。
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訓練は順調に消化され、皆の顔も引き締まっていた。ファストロープやラペリング、隠密上陸、近接戦闘、水中からの強襲、陸上戦などの肉体訓練、さらには小口径の魔術火弾による狙撃などの魔術系の訓練が行われていき、最初の二週間が終わった。次週からは、基礎訓練の二週間が始まる。
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王都を始めとした都市部では、村落などの小さなコミュニティと比べて犯罪の発生率が高い。時には凶悪な事件や組織犯罪が起き、深刻な社会問題となる。そんな都市の治安を支えているのは警備を担う衛士隊と、刑事事件を扱う国家憲兵隊である。それはここ、港湾都市プリムゼルでも例外ではない。
衛士隊とは暴動や集団犯罪など、国家憲兵隊では対処しきれない治安騒擾及びその警戒に対応した警備組織であり、任務は治安警備、災害警備、雑踏警備、警衛警護、集団警ら及び各種の一斉取締りである。任務の性質上、体力がある屈強な若者を中心に構成されている。
一方、国家憲兵隊は国内の捜査や検察を含む公安警察としての活動と、地方における通常警察業務を主要任務とする。その任務は私服捜査官による覆面捜査を含む犯罪捜査、犯罪組織の監視・摘発、テロ対策、防疫などである。
衛士の制服はワイシャツにクリップオンの黒いネクタイ、黒のトラウザース。冬場はワイシャツの上にカーキのセーターを着て、装備の上からは黒のレザーコートを羽織る。
装備は上から順に衛士用ヘルメット、ブレストプレート、ガントレット、左二の腕にはコートの上からでも着脱可能な小盾というカーキ色の鉄製の防具を装着し、足回りは膝までの黒いプロテクトブーツを履いている。腰には小出力の魔導タクトを下げているが、滅多に抜かれることはない。ほとんどの場合、肉弾戦で解決してしまうからだ。厳ついが気のいい隊員が多く、頼りになる彼らが通りを巡回している姿は民に信頼を寄せられていた。
そんな衛士の一人、青空市場の外周を巡回するハロルド・クラウン十人隊長は、通りの端の人だかりに気づき歩み寄って行った。
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ティアナは、プリムゼルで最大の賑わいを誇る青空市場『バータ・マーケット』を眺めることができるオープン・カフェで、カフェ・オ・レのカップを両手で包んでいた。眼前には、様々な職業に従事する者や買い物客の喧噪が広がっている。
『バータ・マーケット』の歴史は、中世に漁で穫れた魚を野菜や穀物、またはその他の物資と物々交換していた交易市場にさかのぼり、質の良さと良心的な価格が連合王国中で有名である。
青空市場に出店するには行商の活動を認める「商人ギルド」または職人の「手工業ギルド」どちらかの所属カードが必要であリ、それを所持していれば店舗を構える商人・職人と同様の権利が持てる。ギルドカードが信用証明にもなっていて、客も安心して買い物をすることができる。
連日多くの買い物客で賑わい、野菜、果物などの生鮮食品、衣料品から日用雑貨までを扱う743の屋台が、約6万平方ヤードの広場でひしめき合っている。それを取り囲むように肉と魚専門の店舗の建物が並んでおり、ほとんどの買い物はこの市場で済んでしまう。もちろん各街にも色々な店があり、それぞれの街区で住民の需要を賄っていた。
ティアナはそんな人々の営みを朝からスケッチし続け、昼近い今、休憩をとっていた。向こうのテーブルでは数人の若い男女が、最近国内向けの愉快なショーの司会を自ら行い、国外でも人気の他国の姫のブロマイドを手に、白熱した議論を交わしていた。時折、「ヤマダァー」などと叫ぶ声が聞こえてくる。バカンスの行き先の相談でもしているのだろうか。
その声につられて視線を巡らすと、視界の隅を母と娘らしい二人連れが、買い物の紙袋を抱え歩いていた。楽しげに談笑する二人を見て、ティアナは一瞬、寂しそうな表情を浮かべた。
その時突然、母親が胸を押さえて倒れた。娘は荷物を放り出し、母にすがりつく。呼びかけながら周りを見回し、「誰か、お医者様を。済みません、誰か!」と叫んでいる。
ティアナはすぐさま駆け寄って上着を脱ぎ、胸を抑え歯を食いしばり、呻き声を上げて倒れている婦人の頭の下に入れた。周りに集まってくる人々に、「済みません、近くにお医者様は住んでいませんか? 救急病院までは、遠いですか?」と聞いた。
「あっ、衛士がきたぞ! お嬢ちゃん、もう安心だ。頼りになる人たちだから、任せるといい」と、肉屋から出ててきて励ましの声をかけていた、エプロンをした親父さんが言った。走ってくる衛士が着き、娘と衛士がお互い「あっ」と声を上げた。
「ポーリー、お袋さんは大丈夫か?」厳つい割に整った顔に心配の色を浮かべて、その衛士は言った。
「ハリー、急に倒れたの! 早くお医者様に連れていかなくちゃ!」
「落ち着け、と言っても無理か……。お嬢さん、申し訳ありませんが、この人に付いていてやってもらえませんか。自分が背負って医者まで連れて行きますので、付いてきてください」そう言う衛士にティアナは頷く。
「さあ、行きましょう。立てますか?」
「ありがとうございます。あの、これ……」上着を拾い、丁寧に畳んで渡してきた。
母親を背負い早足で先導する衛士に、娘の手を取り小走りで従った。
「このすぐ近くのベリル街に、エルフの薬師が開業しているんだ。応急医療もできるので、何度か世話になっている」と娘に言ったあと、ティアナに向かい続けて言う。
「以前にエレイン……、彼女のお袋さんにも診てもらうよう勧めたんですが、王立病院を信用していて他はいらんというから、診せる機会がなかったんですよ。でもポーリー、この界隈じゃあ結構評判なんだぜ」と、衛士は娘とティアナに、交互に首だけ振り向き言った。
背を揺らさないよう早足で歩き、通行者は婦人を背負い急ぐ衛士に道を譲ってくれた。婦人は知り合いに背負われていることで安心したのか、多少は苦痛の表情が和らいでいる。
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「だいぶ生命力の力場が衰えていますね。数日はこちらで安静にして、治癒魔術は一旦中断です。心臓病用のポーションを調合しますので、それを服用してもらいます。三日後に予後を診ますので、その時に帰宅できるかを決めましょう」エラーサ・フォモールという、診察と処置を終えた壮年のエルフ族の薬師が、一同にそう言った。
五階建ての古びたビルの三階フロア全体が、『ミアハ薬医院』兼フォモール氏の住居らしい。薬師としての修行だけではなく接骨、整骨、内科、応急外科の腕も備えており、半ばこの周辺を管轄する衛士隊の嘱託医のような存在となっていた。
母親を預けた際の「心配要らないでしょう」との言葉に安心した一同は、待合室のソファにへたり込み、安堵のため息を吐いた。
「あっ、済みません。私、ポーレット・ヴォーティガンと言います。母はエレインです。今日は、ほんとにありがとうございました。気が動転してしてしまって、一緒に居てくださって本当に心強かったです」そう言って、今までずっと縋り付くように握っていたティアナの手を離し、頭を下げた。
「いいえ、お役に立てたなら、よろしかったですわ。私は、ティアナ・エランドと申します。よろしくね」
「自分は、ハロルド・クラウン。見ての通りの衛士で、階級は十人隊長です。……で、その、彼女の婚約者で……」顔を赤くしてポーレットを見る。彼女も顔を真っ赤にしていた。その時、薬師が来て所見を告げたのだった。
「力場を器と考えてください。術師の治癒魔術で病状が一時的に良くなっても、対象者はその時点での少なくなった生命力を表す小さな器一杯にしか回復できません。度重なれば、器が満たされていないうちに次の治癒が行われることになり、結局は生命力は減衰していくだけなのです。
かつて医療とは、治癒魔術で進行を抑えポーションで自然治癒の助長をするという、併用治療で病や怪我を根治させることだったのです。しかし皆、易きに流れるというか、調合や抽出という段階が必要な薬医はすたれ、今では治癒魔術一辺倒という対症療法のみになってしまいました。医術に携わる者として、非常に嘆かわしいことです。あなた方も若いうちは良いですが、年を取り不具合が出てくると前述のような状態になりますので、気をつけてください」最後にそう結び、患者を診るために行ってしまった。
三人で顔を見合わせ同時に口を開こうとした時、ハロルドの腹が盛大に鳴った。
昼食がまだだった三人は、皆で食事を摂ることにした。途中、大回りになったがティアナはスケッチ道具を回収し、サウス・テリトリアル・ロードの角のパブ・レストラン『十の鐘亭』に案内した。彼女は、すっかりこの店が気に入っていた。
店の名を出した時ハロルドに確認したが、巡回中の衛士は自由に食事の時間がとれるということだった。普通に店に出入りし食事をしていると、それが店内の喧嘩などを防止することになるし、ギャングが保護料を請求する行為の予防にもなるのだった。
三人はテーブルにつき、注文を取りにきたウェイターにランチを頼んだ。ランチと謳ってはいるが軽食であり、つまみにもなるので夕方近いこの時間でも注文できた。
「このあいだ、兄がここに来たって聞いて、ずっと私も来たかったんです」
「あら、お兄様がおいでなのですね。お母様のことを連絡をしないで、大丈夫かしら」
「今、兄は航海に出ていますから、連絡のとりようがないんです。あと二週間くらいで戻る予定なんですけれど」
「そうですか、船乗りさんなのですね。では、その間はハロルドさんが頼りですわね。とても頼りがいがありそうですわ」
「任せて下さい。全身全霊で守りますよ」そこで料理が来て、和やかに談笑しながら食事を楽しんだ。いつしか、話題はポーレットとハロルドの結婚問題に移っていた。
「どうしても母が心配で、もう少し良くなったらと思っているんです」
「エレインもゼッドも気にせずとも良いと言ってくれているんですが、ああ、ゼッドというのはポーリーの兄です。自分もポーリーとエレインと一緒に住むと言っているんですが、エレインが「面倒はかけられない」と拒むので、伸び伸びになっているんです」
「面倒とか迷惑とか、家族ならかけて当たり前、逆にかけられる方は面倒とは思わないのではないでしょうか。私の母は亡くなりましたが、生きていましたらやはりそう思うのだと思います。皆さんが一緒に住んで、助け合いながら生活していくのが一番よろしいのではないでしょうか」とティアナが言うのに、二人は深く頷いた。
「そうですよね、自分は決めました。一緒に住むようにエレインを説得します。そして、ポーリーと結婚します」
「私もです、決心が着きました。今まで待たせてごめんね」二人は見詰め合い、しばし世界を作っていた。その言葉に、周り客たちから拍手が贈られた。
話を聞いた店の主人が『クリュッグ』のハーフボトルをサービスしてくれて、三人はそのシャンパンで乾杯した。
「ティアナさんは、お姉さんみたいです。しっかりしていて、憧れます。……あの、今、好きな人って居ますか?」と、ポーレットが聞いた。
「えっ? ……」誰を思い浮かべたのか、顔が真っ赤になって固まった。
「う〜ん、残念です。その反応は、どなたかいらっしゃいますね? 兄を紹介しようかなって思ったのに……。でも、あのガサツな兄では、ティアナさんには合いませんよねぇ」と、一人で納得する。遥か遠くの場所では、ゼッドがくしゃみをしていた。
「ティアです」
「はい?」
「ティアと呼んでください」いつの間にか立ち直っていて、にこりと笑った。
「あっ、じゃあ私もポーリーと」
「自分もハリーでよろしく」三人で笑い合った。
その後、ティアナが7歳も年下の19歳だと知ったポーレットは、再び顔を真っ赤にしてあたふたとしていた。
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ゼッド・ヴォーティガン 一等水兵は、まばらに照明灯の立つ森を密やかに移動していた。今は黒狼の獣人化を抑え、魔力での五感の強化のみに留めている。獣人化の際の灼けるような高揚感と暴力衝動がない代わりに、冷静な判断力と鋭敏な耳、目、鼻、更には肌に感じる情報が狩人としての冷たい満足感を与えてくれる。目標は、12ヤード先の茂みを回り込んだ所にいる。ゼッドは、完全に森の闇と同化していた。
その男は黒い夜会服を来た逞しい体躯で、右手に3インチ程の護身用小型魔杖を構え、辺りの様子を伺っている。周囲を警戒したまま、意を決したように動き始める。ゼッドには、男の汗の匂いが嗅ぎ取れた。いや、それは緊張の匂いか。
ガサリと風が枝を揺らし、男は魔杖から火弾を放つ。その辺りを見回した男は、身を屈め慎重に歩き出した。ゼッドは先回りし、男の進路の薮で待つ。脳裏には、五感で捉えた男の姿が鮮明な映像となって浮かんでいた。
男が立ち止まり、周りを伺った。その瞬間、背後の薮からゼッドが跳び出し男の首に、腕時計の竜頭から引き出したワイヤーを巻き付ける。あまりの素早さに声を上げることも、抵抗らしい抵抗をすることも出来なかった。このままギリギリと引き絞られ、窒息死の恐怖に男が捕らわれた時ワイヤーがゆるみ、へなへなとくずおれた。
音をたてて巨大な投光器が点き、カマボコ兵舎の前に広がる訓練用の森を、明かりの中に浮かび上がらせた。教官や艇の仲間たちが簡易テントの指揮所に集まり、訓練の進行をじっと見守っていた。拡声器から「状況終了、なかなか良かったぞ」と教官の声がした。
「酷いぜ、ウルフ。本当に殺されるかと思った……。二度と御免だぜ」
地面に大の字で転がった人族の水雷員ダグ・ブラック 一等水兵が、左手で首を撫でてぼやいた。
「そっちこそ、火弾なんか撃ちやがって、当たったらどうするんでぇ? ま、おあいこってトコだな」と、ゼッドは笑いながら手を差し伸べ、立ち上がるのを助けた。
獣人化を途中で止めて能力のみを強化する術は、獣人の本能に逆らう難易度の高い術である。H.M.S.フラウンダーの戦闘班に属する獣人族の男たちは、哨戒部隊で燻ってはいたが、それぞれ一騎当千の男たちだった。集中的な訓練により皆、見事に習得することが出来た。夜間行軍の前に習いたかったぜ、とゼッドはにやりと笑った。
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目標の補足方法、情報収集、破壊工作といった工作活動を学んだ二週間の基礎訓練も終わり、乗組員は迎えの馬車へと乗った。ゲートを抜け隘路を走り出す馬車の窓から、シアーズはこの一カ月を過ごした訓練基地を振り返った。鬱蒼と繁る緑がすぐに門を視界から隠し、もう何処だか分からなくなった。道中、文句を言う者もなく順調に進み、次の日の夜になってブレイ港に着く。
ギルダン機関科兵曹が、甲板で皆を出迎えた。鍛えられ、したたかになった彼らは一種近寄りがたい雰囲気を滲ませて、懐かしい我が家でもあるH.M.S.フラウンダーに戻ってきた。一人キャニング候補生だけは、何か大冒険の登場人物にでもなったような気ではしゃいでいたが、後で釘を刺しておかなければならないだろう。
シアーズは舷門で立ち止まり、手すりを撫でた。当番の水兵により、この一カ月はギルダン機関長じきじきに毎日丁寧に磨かれ、滑らかでつやつやと光っていた。
「ただいま」とシアーズは呟いた。それはこの艇を愛する、乗組員一同の言葉でもあった。
出港する漁船が係留されたフラウンダーの横を通り過ぎ、航跡の波が水面に映る月を揺らし桟橋まで届いた。艇がわずかに身じろぎし、ギッと鳴った。まるで、歓迎の声を上げたようだった。
※設定資料その1にて『ネレイーシス世界図』、『ミネルヴァ王国図』、『H.M.S.フラウンダーと同型のトロール漁船』の画像を掲載しています。