第2章 3
生臭い雨の匂いを感じながら静かに空を見上げる。雷鳴轟く荒野の果てで、雨が降り始めている。一部分だけを覆い隠す大粒の雨が目に見えて迫ってきた。
丘の上で、俺は静かにため息を吐いた。
- 漆黒の女 -
人の気配が少なくなった。この牢屋を警備している者達の皮肉によれば、ブルネラに連れられ殆どの者が都へ向かったらしい。自分が人質になったことについて随分と喧嘩を売ってきたが、その辺りは無視を心がけた。とはいえ、やはり冷静でいられるわけもない。
首を締め付ける拘束具に力を入れる。流石に簡単に壊せそうにない。僕はふと、左隣のシエルラ・サンタクルスの牢屋を見た。あの日以来、鍵師らしき老人が何度か彼女の牢に呼ばれたが、何度試してもその扉は開かなかった。食事はとりあえず下の隙間から渡されていたが、2、3日前から男達も我慢の限界に来たのか食べ物を与えずにいる。
「……流石に空腹だな」
横顔のまま何処かを見ていた彼女が、僕の思考を読んだかのようにそう呟いた。僕は苦笑を浮かべる。
「随分悠長ですね。鍵が開かなければ貴女は一生牢屋の中なのでは?」
「それは御免被りたいところだ……が、もう此処にいる必要もないだろう」
彼女の言葉に、ふと顔を顰める。シエルラは格子を掴んで立ち上がると、鍵のついた扉に触れた。壊れた鍵をじっと見つめる。
一体何を……、そう言いかけた瞬間、思いがけず錠の外れる音が僅かに響いた。蝶番がキィと音を立てて外側に開いていく。シエルラは自然な動作で腕を伸ばし、大きく背伸びをした。
「!?」
「……少し黙れ」
彼女は口元に人差し指を押し付けると、僕の鍵に手を伸ばした。一度鍵を握りしめ、そして手を開く。数回それを繰り返すと、彼女は静かに目を瞑った。
カチャリ、と音がして扉が開け放たれる。
「……!」
合鍵の可能性を疑ったが、彼女の手には何も残っていなかった。それに彼女の牢屋は鍵師でも直せないような鍵がついていたはず。小声で問いかけようとすると、シエルラは素早く足首の鎖を掴んだ。扉と同じ要領で鍵を外す。
「……何故?」
聞きたいことは幾つかあったが、僕はそれだけを問いかけることにした。味方ではないが敵でもないことは確かだ。そして今この状況下で僕らの考えは一致している。
「脱走を実行する上で、力になりそうな者が隣にいる。……使わなければ損だ」
「それはどうも、と言うべきかな」
思ったよりも淡白な解答で安心した。
やがて首を引っ張っていた力もなくなる。見ると、首輪だけは外れた訳ではなく、首輪と壁を繋ぐ鎖が一つなくなっていた。
「その首輪は面倒だ、そのまま行け」
どうせなら首輪も外して欲しいところなんですけどね……。それでも彼女がそう判断したのには理由があった。先ほどから徐々に靴音が近づいてくる。鍵を開け放った今の状態で素知らぬ顔は出来そうにない。
僕は横目で視界の中から武器になりそうなものを探す。しかし、やはりそんなものはない。
そして次の瞬間、靴音の主がこちらに気付いた。
「っ!?お、お前達、何をしてるっ!!」
男の声は他の仲間を呼ぶには十分だった。咄嗟にシエルラの前に出た僕はすぐにその左肩を掴まれた。
「脱走だ!牢屋の奴らが外に出てるぞ!!」
「急げっ、上に出られないようにしろっ」
声が廊下に響き渡る。僕が振り返ると、シエルラが静かに扉から出た。牢屋の中で待っていろと言わんばかりの目でこちらを睨み、そして集まってくる男達を見つめながら牢屋の扉から出る。
男達の中には、鍵師を呼んだ者達もいた。
「……このアマ、いつの間に牢を抜け出しやがった!?」
「残念ながら、今さっき。……待つのも疲れるからな、こちらから出てきてやったぞ」
静かに笑うシエルラの顔に、相手は鼻で笑った。
「ハッ、女がいっちょまえのクチを叩きやがって……」
次の刹那、シエルラが僕の牢屋の格子を強く蹴り上げた。激しい音と衝撃に、天井から砂煙が舞い落ちる。ギョッとした顔をした男達、そして僕は目を疑った。
ガキン、と硬質な音を立てて、牢屋の格子が一本取り除かれた。短剣ほどの大きさだろうか。シエルラは涼しい顔でもう一本、格子を取り外した。
「なっ……どうゆうことだ!?あの牢屋は特に厳重な造りになっているはずだぞ!」
「厳重か。……これが厳重ということは、此処は随分生活水準が低いようだな」
引き抜いた格子を格子を擦り合わせ、軽く音をたてる。しかしそれはかなりの強度がありそうな音だった。格子戸に腐りや錆は見られない。僕は顔を顰めるしかなかった。
シエルラは長い髪を耳にかけると、敵を見回した。
「……人を殺めるのは好かない。忠告は一度きりだ」
ざわめきの中に、彼女の声が響く。命が惜しければ今すぐ引くことだ。しかし、シエルラの言葉を聞き入れる者はいなかった。
「っ、馬鹿にしやがって……もういい、殺してしまえっ!!」
怒りに顔を赤くした男が叫んだ。その瞬間、男達が中へなだれ込んでくる。咄嗟に顔をあげた僕は、その一瞬に信じられないものを見た。
シエルラが赤い唇で僅かに微笑む。くるりと二本の格子を回した。残像の中で格子はぐにゃりと曲がり、まるで水のように形のない物体になった。そして次の瞬間、もう一度彼女の手の中に戻った二本の格子は、銀色に輝く二挺のトカレフに変化していた。
彼女は狂いのない照準で向かってきた男達に引き金を引いた。銃弾を浴びせられた者達が、体を痙攣させて地面に倒れ込む。頭、そして左胸から血を流す巨体が大きく弓なりに沿り、そして力を失った。
「人を殺すのは好まない……せめて、痛みのない死を」
☆
ざわめきと混乱が形になる。私は目の前でそれを感じていた。部下達に命じて都に残っている国民は城内に避難させた。元が要塞になっていただけに、避難場所にはそう困らなかった。問題はこれが長期戦になることだ。ある意味この状況は国民を人質に取っているようにも見える。
城のバルコニーから、集められた民の姿が見える。どれも顔色は優れず絶望に満ちた顔をしている。気力ある者は城に向かって叫び、不満を露にしている。
「……」
バルコニーの扉に手をやった。私が姿を現したところで不安が取り除かれるわけではない。だが、前の戦争のように国王の姿が見えないままの戦いは、彼らの不満を増大させるだろう。王は戦から逃げている、と。
「……行くのですか?」
「ああ」
フェオール国王陛下の背中がそう答える。僅かに見える横顔は固く、そして迷いはない。どんな罵りを受けようと彼の心は揺らがないだろう。私は小さく息を吐いた。これだから他人の為に生きる者は分からない。
「陛下」
私は彼の肩を掴んだ。歩き出そうとしていた陛下がふとこちらを振り向く。
「?」
上着に忍ばせた左手がカチ、と音をたてる。金属の硬質な感触を感じながら、私は口元で笑った。
やはり空を飛ぶ鳥は、太陽にその身を焼かれながら飛ぶのかもしれない。誰よりも重い体で、細い翼を広げ……高みは遠く果てない。近づけば虹のように逃げていくもの。
左手に掴んだ折りたたみ式のナイフが外の明かりを反射させる。そして私はそれを深々と射し込んだ。魂の灯火に息を吹きかける瞬間は、いつも切ない。
☆
雨が降り始めた。暗雲が大地を濡らしていく。黒く染まった石畳を見つめ、兵士達は空を見上げた。鈍色の雲間に稲光が瞬く。
ネオ・オリエントの都に続くゲートは全て閉ざされた。都に残っていた民は城の地下へと避難し、城下には軍隊が配置についた。城へ繋がる3つの通りには三大戦士を含めた屈強な戦士達が配置されている。東の通りにはルヴァの代表、テレジア・ケベリ。そして西の通りにはジャン・ユサク。
「……」
そして城門の前では前線を任された部隊が、ブルネラ率いる辺境部族の反抗勢力と対峙していた。
雨が降り始めたのを確認し、馬に乗ったブルネラが進み出る。
「この様子を見る限り、交渉の望みはないようだな」
城の前に立ちはだかるネオ・オリの軍勢。壁のようにゲートを囲んだ彼らを見渡し、ブルネラはふと目を細める。
「城門に三大戦士の姿はなし、か」
「我々では役不足だとでも言うつもりか!?」
兵士達の中に苛立ちが広がる。ブルネラは鼻で笑うと腰から下げていた剣を抜いた。剣が雷光を映し出す。やがて轟音が轟いた。
ネオ・オリエントの未来を決める戦いの始まり。男達の閧の声が大地を揺るがし、雨が彼らを鼓舞するかのように叩き付ける。
「此処は戦士の国、歴戦の強者の集う場所……戯れはここまでだ。全ては剣で語るとしよう」
彼女の言葉によって火蓋は切って落とされた。




