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婚約破棄された才女は、辺境で失われた魔法を復興する ――今さら「戻ってこい」と言われても、もう遅いです  作者: 赤枝しゅん


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第六話 井戸の底で鳴るもの


 井戸の中から音がする。


 その報せを聞いた瞬間、エレナは机の上の図面を掴みかけて、すぐに思いとどまった。今必要なのは紙の上の推測ではなく、現場の確認だ。


「行きます」


 立ち上がると同時に言うと、ルークもすでに扉へ向かっていた。


「ハイン、お前は後ろから必要なものを持ってこい。灯り、縄、滑車、鉄杭」


「了解」


「それと誰も井戸に近づけるな。特に子どもは絶対だ」


「わかってる」


 管理棟を飛び出す。


 朝の空気は冷たいが、集落の中央にある井戸の周囲だけ、妙な熱気を帯びていた。住民たちが不安げに距離を取りながら見守り、兵が簡易の縄張りを作って人を下がらせている。


 井戸の縁に近づいた瞬間、エレナは息を止めた。


「……出てる」


 昨夜、応急修復のために引いた補助式の周囲に、見覚えのない線が浮かび上がっていた。


 乾いた地面に淡い青白い紋様。井戸を中心に円環が広がり、その外側に細い線が何本も走っている。まるで地中深くに埋もれていた本来の術式が、昨夜の修復をきっかけに表面へ滲み出てきたかのようだった。


 ルークが低い声で言う。


「昨夜はなかったんだな」


「はい。私が引いたのは井戸の縁だけです。こんな広域には触れていません」


 井戸のそばにいた若い兵が青ざめた顔でうなずく。


「夜明け前までは普通だったんです。けど南壁の光が出てしばらくしたら、地面がうっすら光り始めて……そのあと、下の方から変な音が」


「どんな音ですか」


「金属……みたいな。でも水音も混じってて、よくわからないんです」


 エレナは井戸の縁へ膝をついた。


 覗き込む。


 底は暗い。だが昨夜より水位は少し上がっているように見えた。井戸の内壁に刻まれた古い補助紋も、わずかに光を帯びている。


 そして確かに――聞こえた。


 こぅん。


 低く、小さく、井戸の底から響いてくる奇妙な音。水滴が石を打つ音にも似ているが、もっと硬質で、規則的だ。


 こぅん。

 ……こぅん。


「これは……」


 エレナは目を細めた。


 自然音ではない。少なくとも井戸が鳴る種類の音ではない。


「わかるか」


 隣に立ったルークが訊く。


「断定はできません。でも、たぶん……水の流れだけじゃないです」


「他に何がある」


「下で何かが動いています」


 周囲の空気がぴんと張った。


 ハインがちょうど到着し、最後の言葉だけ聞き取ったらしい。


「おい待て、動いてるって何がだ」


「それを調べます」


 エレナは立ち上がり、地面に浮かんだ紋様全体へ視線を走らせた。


 円環、放射線、補助点。昨夜の応急術式が呼び水となり、本来の構造が一部だけ表面化したのだろう。しかも図面で見た砦南壁からの線と、井戸を囲う線の向きが一致している。


「井戸そのものが端末です」


 そう言うと、ルークの目が鋭くなる。


「端末?」


「砦全体が大きな術式施設で、井戸はその一部を制御するための接続点なんです。たぶん水脈の確認か、魔力循環の安定化か、その両方」


 ハインがうめく。


「つまり、あの南壁が光ったせいで、ここも起きたってことか」


「ええ」


 エレナは頷く。


「逆かもしれませんけど」


「逆?」


「井戸を修復したことで循環が一部戻り、それが封印庫や南壁の術式に伝わって、全体が目を覚まし始めた可能性があります」


 ルークは短く息を吐いた。


「ますます切り分けが必要だな」


「はい」


 エレナは井戸の周りをゆっくり歩きながら、地面の紋様を観察した。

 円環の外側、北西方向に伸びる一本の線。図面で見た水路側の接続。

 南側へ伸びる線。砦の南壁。

 そして――東側にもう一本、細い補助線がある。


「これ……」


 エレナは足を止めた。


 昨夜は気づかなかった。東へ伸びるこの線は、集落の外れではなく、旧砦の中央寄り――本来図面から消されていたはずの“中央塔跡”の方向へ向かっている。


「まだあるのか」


 ルークが近づく。


「はい。接続先が三つあります。南壁、水路、それと……中央塔跡です」


「中央塔は壊されてるんじゃなかったのか」


「表からは」


 エレナは小さく答えた。


「でも地下は別です」


 その瞬間、頭の中で線が繋がった。


 封印庫は地下。井戸は地上接続点。南壁は観測線。なら中央塔も、地上構造は破壊されていても、地下基盤だけは残されている可能性が高い。


 こぅん。

 井戸の底が、また鳴る。


 今度は少しだけ長く。


「……呼応してる」


「何にだ」


「まだわかりません。でも」


 エレナはもう一度、井戸を覗き込んだ。


 内壁の刻印。その配置。水面のわずかな揺れ。そして底からの音。


 これは排水や給水のためだけの井戸ではない。


 もっと深く、別の空間と繋がっている。


「縄を」


 エレナが言うと、ハインが顔をしかめた。


「まさか降りる気か?」


「私じゃありません」


 エレナは首を振る。


「まずは探査です。重りをつけた縄を下ろして、水深と底の反応を見ます」


 ルークがすぐに兵へ合図する。


「重りをつけろ。小さめでいい。滑車も使え」


 準備はすぐに整った。


 縄の先に鉄塊を結び、滑車を通してゆっくり井戸の中へ下ろしていく。


 水面に落ちる、ちゃぷんという音。


 その後、縄はさらに沈んだ。


 昨夜見た水深より、ずっと深い。


「……おかしい」


 エレナが呟く。


「昨夜より深いのか」


「はい。水位が上がっただけじゃありません。底の感触が来ない」


 兵が慎重に縄を送り出す。

 五メートル。六メートル。七メートル。


 普通の生活井戸としては深すぎるとは言わない。だが昨日、エレナがざっと見た印象より明らかに深くなっている。


「昨日と違うんです」


「井戸の底が開いた、ってことか」


 ハインの言葉に、エレナはゆっくり頷いた。


「たぶん、閉じていた何かが開いています」


 そのときだった。


 こぅん――。


 さっきよりはっきりとした音が響き、下ろしていた縄がぴんと震えた。


「うわっ」


 兵が思わず手を滑らせそうになる。


「止めて!」


 エレナが叫ぶ。


 全員が動きを止める。

 井戸の底で、何かが縄に触れている。いや、触れたというより――反応した。


「引き上げろ。ゆっくりだ」


 ルークの声は落ち着いていた。


 兵が慎重に縄を戻す。


 やがて水面から現れた鉄塊を見て、誰もが息を呑んだ。


 重りの表面に、薄く青い光の粉のようなものが付着していたのだ。


「これは……」


 エレナは思わず身を乗り出した。


 鉄塊を受け取り、光を近くで見る。粉ではない。ごく細かな結晶片だ。しかもただの鉱物ではなく、魔力を帯びている。


「魔石の欠片か?」


 ルークが訊く。


「いえ……もっと古いです」


 エレナの声がかすかに震える。


「これはたぶん、術式触媒です。しかも現代の精製品じゃありません」


 王都の研究院でも、こういうものはごく限られた文献でしか見ない。自然結晶に直接術式を馴染ませた古代型の触媒片。効率は低いが、長期持続性だけは異常に高いとされる。


 もしこんなものが井戸の底にあるなら。


「下に術式設備があります」


 エレナは言い切った。


「井戸の底に、あるいはそのさらに下に、触媒を使った装置か部屋があるはずです」


 ハインが頭を抱えた。


「井戸の下に部屋って、なんだよそれ……」


「昔の術式施設では、珍しくありません」


「珍しくなくても困る」


 至極まっとうな返しだったが、今はそれどころではない。


 エレナの胸は高鳴っていた。


 井戸の底に空洞。触媒片。砦全体へ繋がる系統線。


 旧ラドベルの秘密は、地下にある。


「降りる準備が必要です」


 エレナが言うと、ルークはすぐに返した。


「今日はだめだ」


「ですが」


「だめだ」


 きっぱりだった。


 エレナは思わず口を閉じる。


「理由は三つある」


 ルークは一本ずつ指を折るように言った。


「一つ。井戸の底が今どうなっているか不明。二つ。術式が起動中で、刺激にどう反応するかわからない。三つ。お前がまだ万全じゃない」


「私は――」


「自覚が薄いだけだ」


 言い切られて、エレナは反論しかけて、やめた。


 実際その通りだった。昨夜からほとんど休めていない。頭は回っているつもりでも、集中を続ければどこかで判断を誤る。


 古代術式相手にそれは致命的だ。


 ハインが珍しく真顔で頷く。


「今回はルーク様が正しい。井戸に降りるのは準備してからだ」


 エレナは小さく息を吐いた。


「……わかりました」


「今日は調べるだけに留める」


 ルークが続ける。


「井戸周辺の紋様を写し取り、図面と照合する。井戸の中はもう一度、別の探査をする。お前にはそれをやってもらう」


 “行くな”で終わらず、代わりの仕事を与える。

 それがありがたかった。


「はい」


 素直に頷くと、ルークはわずかに表情を和らげた。


「よし」


     ◇


 その後、エレナは井戸周囲の紋様を一つずつノートへ写し取った。


 兵に板を持たせ、紙を押さえてもらいながら線の角度と重なりを記録していく。表面に出ているのは全体のごく一部だが、それでも十分すぎる情報だった。


「やっぱり三系統……」


「わかるのか?」


 少し離れたところで見張りをしていたルークが声をかける。


「はい。井戸は単独設備じゃありません」


 エレナは紙から目を上げた。


「南壁への線は観測か警戒、水路への線は循環制御。そして中央塔跡への線は……おそらく中枢接続です」


「中枢」


「砦全体の術式をまとめる中心です。封印庫が“核の保全”だとしたら、中央塔跡の地下には“核の制御”が残っているかもしれません」


 ハインが低く口笛を吹く。


「井戸の下だけでも厄介なのに、まだ本丸があるってか」


「ええ」


 エレナは頷いた。


「でも順番があります。井戸から先に確認した方が安全です。ここは今、表に出てきている分だけでも応答が読みやすいので」


「中央塔は読みにくいのか」


「たぶん隠されてます。意図的に消されたくらいですから」


 ルークはしばらく考え込み、それから言った。


「なら井戸が先だな」


「はい」


 そこで、井戸の縁を見ていた一人の老婆が、おそるおそる口を開いた。


「あの……昔、聞いたことがあります」


 皆の視線が集まる。


 老婆は少し怯えたように肩をすくめたが、それでも続けた。


「わたしが子どもの頃、この辺りの年寄りが“井戸守り”って言葉を口にしていました。夜明け前に井戸へ近づくな、とか、水が鳴る日は壁を見るな、とか……」


 エレナは息を呑んだ。


「井戸守り……」


「ただの古い言い伝えだと思っていましたよ。でも、今思えば……」


 老婆は空へ伸びる南壁の光を見て、震えるように黙り込んだ。


 ハインが顔をしかめる。


「そんな話、俺は聞いたことがねえぞ」


「若いもんには伝わらなかったんでしょうよ」


 老婆は言った。


「砦が潰れて、人が減って、食っていくだけで精一杯になれば、古い決まりごとなんて消えますからねえ」


 エレナはノートへその言葉を書き留めた。


 井戸守り。

 水が鳴る日。

 壁を見るな。


 言い伝えという形でしか残らなかった管理手順。


 つまり昔は、この砦の仕組みを知っていた人間がいたのだ。


「貴重な情報です」


 エレナが言うと、老婆は少しだけ安心したようにうなずいた。


「役に立つならよかったですよ」


 ルークはその様子を見てから、静かに全体へ告げた。


「聞いた通りだ。今日から井戸は勝手に使うな。水は兵とハインが管理する。必要な分は汲んで各家へ回す」


「そんな……」


「不便だろうが我慢してくれ。今ここで何か起きれば、集落全体が危ない」


 住民たちは不安げだったが、反対は出なかった。昨夜の魔獣、水路の破損、そして今朝の光。誰もが普通ではない事態だと理解し始めている。


 エレナはその光景を見ながら、胸の奥に責任の重さを感じていた。


 自分が井戸を修復したことで、この連鎖が始まったのかもしれない。

 だが同時に、だからこそ自分が最後まで見届けなければならないとも思う。


「ルーク様」


 エレナが呼ぶと、彼はすぐにこちらを見た。


「井戸の中、次は音で探れます」


「音?」


「はい。重りではなく、小さな金属板を下ろして反響を拾えば、底の空洞や壁面の形がある程度わかります。落下ではなく“鳴らして返る音”を見ます」


 ルークは短く頷いた。


「必要なものは」


「薄い鉄板か、鐘の代わりになる金属片。それと長めの細縄です」


「用意させる」


 ハインが半ば呆れたように笑う。


「井戸相手にそこまでやるのか」


「井戸じゃないので」


 エレナが真顔で返すと、ハインは一瞬黙ってから吹き出した。


「違いねえ」


 ルークもわずかに口元を緩める。


 その小さな空気の緩みが、張りつめた場を少しだけ楽にした。


     ◇


 昼前、簡易の音響探査は思った以上の成果をもたらした。


 薄い鉄片を縄で吊り、井戸の中ほどで軽く打ち鳴らす。返ってくる反響の遅れと揺れを耳で拾い、位置を変えて何度も繰り返す。


 地味で、派手さのない作業だった。

 けれど、それこそがエレナの得意とする領域だった。


「右側が浅い……左奥は空洞が広い……」


 目を閉じて音を聞き分ける。


 兵たちは半信半疑の顔だったが、ルークは一言も挟まず見守っていた。


 最後の一打を終え、エレナはゆっくり目を開く。


「やっぱり、あります」


「何が」


「井戸の底から斜め下に抜ける空洞です。まっすぐ下じゃありません。内壁の途中、北東側の奥に横穴のような空間がある」


 ハインが目を丸くする。


「横穴?」


「ええ。そこに金属質の反響が集中しています。自然の洞窟じゃなく、加工された空間です」


 ルークが即座に問う。


「人が通れる広さか」


「たぶん。少なくとも水路の隙間という感じではありません」


「……なるほどな」


 ルークは井戸の縁に手を置き、暗い底を見下ろした。


「井戸に見せかけた入口、かもしれないってことか」


 エレナは頷く。


「あるいは非常時の保守通路です。古代の術式施設なら不自然ではありません」


 言いながら、胸の鼓動はどんどん速くなっていた。


 井戸の底の横穴。

 地下封印庫。

 中央塔跡。

 全部が一つの地下構造で繋がっている可能性が高い。


 旧ラドベルの本当の姿が、少しずつ輪郭を持ち始めている。


「今日中に井戸の周囲をさらに固める」


 ルークが言う。


「明朝、降下の準備をする。人選は俺が決める」


 エレナは思わず顔を上げた。


「明日、ですか」


「お前が言った通り、順番がある」


 ルークは真っすぐに返す。


「準備して、安全を取って、それから降りる。焦るな」


 それは諭す声でもあり、約束する声でもあった。


 “駄目だ”では終わらせない。

 “今はまだだ”と、先の手順まで示してくれる。


 そのことに、エレナはひそかに救われていた。


「……はい」


 素直に答えると、ルークは一度だけうなずいた。


「その代わり、今日中にできる解析は全部やっておけ」


「わかりました」


 ハインが苦笑する。


「相変わらず容赦ねえな」


「止まれませんから」


 エレナがそう返すと、今度はルークの方がわずかに肩を揺らした。


 それはほんの一瞬だったが、確かに笑ったのだとわかった。


 王都では決して見られなかった、肩の力の抜けた表情だった。


 エレナの胸の奥に、また小さな熱が灯る。


 この土地で自分は必要とされている。

 研究も、判断も、行動も、ちゃんと意味を持っている。


 それだけで、どこまでも進める気がした。


 だがその直後。


 南壁の方向から、兵の鋭い呼び声が響いた。


「報告!」


 全員が顔を上げる。


 若い兵が駆け込んできて、息を切らせながら叫んだ。


「南壁の光が弱まりました! その代わり、中央塔跡の地面が――地面が持ち上がっています!」


 空気が一瞬で変わる。


 中央塔跡。


 図面から消され、地上では壊されたはずの中枢。


 それが今、地面の下から姿を現し始めている。


 エレナの心臓が強く鳴った。


 旧ラドベルは、もう隠れるのをやめたのかもしれない。

 なら次に現れるのは、きっとこの砦の“本当の顔”だ。

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