蝸牛(長編の第一話のみ 様子見投稿)
時は西暦2000年。
その年の前年、僕は留年していた。大学にまったく行ってなかった。物心つく前から、1999年8月にアンゴルモア大王がやってくると聞かされていた。
どうせ地球は滅亡するのだ、学校に行く意味なんかないと信じていたあの夏。僕は果てしなく広がる空を見上げてアンゴルモア大王を待っていた。というのはもちろん嘘で、ただ家でゴロゴロしていただけだった。
大学に行かなかったのに大した理由はなかった。ある日、誰かが僕のやる気スイッチを切ったんだとか言えたら良かった。だが実際は、僕の向学心はトイレのチリ紙みたいなもので、いつの間にかなくなっていたのだ。
学校をサボっている間、図書館へ行ったり本屋巡りもしていた。だが心情的には久しぶりの外出だった。
肩かけにしたリュックがやけに重かった。教科書以外の何かが詰め込まれている気がした。朝のミニストップで店員に微笑みながらお釣りを渡された。その時、その何かの正体が後ろめたさだったと気づいた。春の朝の太陽もわずかに舞い落ちる桜も、僕には爽やかすぎて、建物の陰を選ぶようにして学校へ向かった。
講義室に入り、いつもの席のあたりを見ると芦原がいた。長椅子に横座りし、あぐらをかくみたいに片足を椅子の上にあげていた。前後の机をひじ掛けにして、恰好だけならどこかの王様みたいだった。でも横柄さを感じないのは、柔和な笑顔と人懐っこさによるものだろう。僕が近づいたのに気づいた彼は声をかけてきた。
「あれ?田中、久しぶりじゃん。学校来たんだ?もしかして改心した?」
「新学期だから。学校ぐらい来るよ」
芦原の憎まれ口に僕は無愛想に返した。
「また同輩になったな」
芦原は満面の笑顔で皮肉げに言った。
実は彼は、僕と同じ卓球部の一つ上の先輩だった。だが彼は二留して、去年は僕の後輩だった。それまで彼のことを「先輩」呼びしていたのだけど、その時、芦原から頼まれて敬語を使うのをやめた。周囲の人間に留年を悟られるのが嫌だったそうだ。
「また敬語に戻そうか?」
そう言うと芦原はカカカと笑って肩をすくめた。
僕は芦原の隣の席に座ると、机の上に両腕を組んで顔を乗せた。昨夜、遅くまでやってたゲームのせいで瞼が重かった。
「今回はどれくらいで来なくなる予定?一か月くらい?俺みたいに二留いっとく?」手に持ったシャーペンをクルクル回して、芦原の声は弾んでいた。
「うるさいなあ」僕はうんざりとした口調で言った。「今年は頑張りたい。頑張る予定」
「寝言いってんな」
芦原は小太りの体を揺らして笑った。めんどくさかったので、僕は相手せず目を閉じた。
しかしそこに芦原が言った。
「そういや、知ってる?激安パソコンが発売されるんだって」
「激安パソコン?何それ」
うつ伏せになったまま顔だけ芦原の方に向けると、彼は鞄から雑誌を取り出した。
「これこれ」
体を起こして受け取った雑誌には真っ白なパソコンの写真が載っていた。その下には激安12万円という文字。なんと本体だけでなくモニタもセットでの価格だ。チラシには「SOTEC」というメーカー名が書かれていた。
「12万円?マジで?」
僕は自分の目が信じられず、芦原に問い直した。
「嘘みたいだろ?これなら俺らでも頑張ればギリギリ買えるんじゃないかな?」
僕は頷いた。
「これで俺らもとうとう地球防衛軍?」芦原は悪戯っぽく笑った。
以前、芦原と一緒に安いパソコンを探しに大須観音に行ったことがある。まだ芦原のことを「先輩」と呼んでいた頃のことだ。
初めて行った大須観音の街は、一言で言えば薄暗かった。長いアーケードの下にさまざまな店ががひしめき合っていた。名古屋でパソコンと言えば大須観音と言われる通り、やはりパソコンショップが多かった。だか、その合間に謎の雑貨屋があったり、一本通りを外れただけで洋服屋や靴屋が現れたり、まるで東南アジアの市場のようなカオス感があった。そこにパソコン界隈特有のアングラ感が混じって、得も言われぬ香りが立ち上っていたのだ
商店街を入ってすぐのお店の店頭ワゴンには、何に使われるのかも分からない謎の電子部品が山積みされていた。そのワゴンの前で部品を手に取る男性がいた。
年齢は四十を超えたくらい。くたびれたジャケットによれよれのスラックス。肩からはまっすぐショルダーバックを下ろしていた。眼鏡を額に上げてまじまじと手元の部品を見つめていた。
「あの部品なんなんですかね?」
僕は芦原に訊いた。すると芦原は
「いや分からん」と真剣な面持ちで答えた。
アングラな雰囲気に怯えた僕らには、部品を持つだけのおじさんが不気味な悪の組織の博士のように見えていた。
二人で並んで大須観音の街を徘徊した。そして驚愕の事実を知ることになった。
「おい田中…、このパソコン二十万円もするんだけど…」
芦原は掠れた声でうめいた。
「こっちもです。しかもモニタ別売りで二十万円超えるんですね…」
僕らは言葉を失っていた。雑誌価格が二十万円ならば、大須観音に来ればもっと安いパソコンが見つかるはずだと思っていた。しかし現実はそう甘くなかった。定価には赤のマジックで二重線が引かれて新しい値がつけられていた。だがどれも二十万円を超える価格がつけられていた。
「ちょっと高すぎじゃね?」
芦原は吐き捨てるように言った。
「でも無いと困りますよね…」
僕がそう言うには事情があった。
実は、僕らは情報工学科の学生で、日常的にプログラムを書かなければいけなかった。しかし当時は、家にパソコンのある学生など数えるほどだった。そのため学校の計算機(※パソコンのこと)室は常に一杯で、みな遅くまで残って課題をこなしていた。
「家にパソコンがあればなあ…」
僕は芦原の言葉に頷いた。自分の家にパソコンがあれば、家で課題ができる。授業が無い日にわざわざ学校の計算機室に来なくてもよくなるのだ。
僕らは黙り込んでしまった。時給が600円の時代だった。高給と言われた家庭教師は一日二時間程度しか働けないので、稼ぎはたかが知れている。貧乏学生の僕らにとって二十万円は途方もない金額だった。
「帰ろっか」
どちらからともなくそう言った。
大須観音の街を出ようとしたときのことだった。僕らは、まだ悪の組織の博士がお店の店頭で部品を物色しているのを見つけた。
「まだ選んでるんですかね?」
「よっぽど大事な部品なんじゃない?」
僕にはおじさんがそこまで執着する理由が分からなかった。
「たぶん地球防衛軍なんじゃね?」
芦原にとっては何の気なしに言ったセリフだと思う。でも、その瞬間、僕の脳裏には、あのくたびれたおじさんが日々、地球を守るために悪戦苦闘している姿が浮かんでしまい、つい笑ってしまった。
そんな僕に、芦原は少しドギマギしていた。
でも芦原の言葉が、僕の中のおじさんのイメージを固めてしまったのだから仕方がない。そうだ、地球の平和を守っているのはきっとああいうおじさんなのだ。その発想はすごく痛快で可笑しかった。
その日以来、僕は何かと地球防衛軍という単語を会話の中に出すようになった。そしていつしか、僕と芦原の間において、地球防衛軍とは家にパソコンを持つ学生を指す言葉になっていた。
あの日、断念したパソコンが今度こそ買えるかもしれない。僕と芦原は興奮していた。
とうとう僕たちも地球防衛軍の仲間入りだ。僕は教室の前方真ん中付近に集まっている学生を見た。彼らはパソコンを持つ成績優秀な生徒だった。つまり彼らこそが地球防衛軍の面々だった。
「この価格なら一か月くらい頑張れば買えそうだね」
気を取り直して僕が呟くと
「お前ならな」と返ってきた。「みんな学校があるから一か月じゃ無理だろ」
「それは芦原だって一緒じゃん」
僕は言い返した。彼は僕を不良学生だと決めつけているが、二留した芦原の方がよほど不真面目だ。
「いや、俺は改心したから」
芦原は小狡そうな笑みを浮かべた。
「いや、僕だってちゃんと来るし」そう言うと、芦原から半目の視線が返ってきた。たまらず僕は言葉を付け加えて抗った。「いや、今年はちゃんと来るって」
しかし芦原は断言する。
「絶対来ないだろ」
ちょうどそのタイミングで教授が講義室に入ってきた。僕と芦原の会話はそこで中断となった。地球防衛軍の面々が誰よりも早く立ち上がった。僕たちもそれに続いた。何の号令もなく互いに一礼して着席。
僕の手の中には芦原から渡された雑誌が残っていた。僕はそれを繰り返し見ていた。
新品のモニタ付きの真っ白なパソコン。ハードディスクは6.4GB。メモリは333MBだ。それが12万円である。
学生にとっては高価な代物だ。だが、事実として一か月、必死にバイトすれば手に届きそうな金額なことには間違いない。
指先で弄っていた雑誌のページの端はいつの間にかクシャクシャになっていた。
講義室に念仏のような教授の声が響いていた。だがそれを打ち消すように、僕の心の中では先ほど返答できなかった芦原の断言がリフレインしていた。
『絶対来ないだろ』
僕は心の中で答える。
まあ、多分。うん。でも。やっぱり。
学校からの帰り道、僕はミニストップに寄った。心の中にあのくたびれたおじさんの思い出が蘇っていた。
地球防衛軍。
その単語には世の男子を陶酔させる甘美な響きがあった。
思えば、去年、アンゴルモア大王が来なかったのは、あのおじさんが人知れず闘ったおかげかもしれない。そう考えると僕が留年したのはあのおじさんのせいか?一瞬迷いが生じるが、僕は鼻で笑い飛ばす。
いいよ。僕も地球防衛軍になってやる。おじさんと同じよれよれのスラックスを履いてやる。おじさん待ってろ。
通学路の途中のミニストップを出る時、僕の手にはアルバイト情報誌が握られていた。




